ココロド_黄月家K's weblog

考えすぎ? ココロド_心理カウンセラー_黄月家Kの 思考いろいろ、心理分析、ものづくり、時々庭、時々日記です。

庭の百合、軌跡のヒナ、長い6月でした。

梅雨ですね。雨、雨。
いかがお過ごしでしょうか?

まずは、今年もゆりが綺麗に咲いてくれました。

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色とりどり、あんな色、こんな色

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癒やされます。

そして、庭の巣箱に、シジュウカラが来まして、
気が付いたら、ヒナの鳴き声がピヨピヨしまして、
とっても、嬉しかったです。

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リビング窓の正面に、巣箱を設置してあるので、
カーテン越しに、観察していました。
とっても、楽しみでした。
ヒナが孵ってからは、親鳥が慌ただしく、何度も何度もえさを運んで、
子供のお世話が大変なのは、人間も鳥も一緒だなぁ・・なんて・・おもいつつ
誇らしげに、毎日観察しておりましたら、
一週間ほどした、ある朝、窓のシャッターを開けると、巣箱の正面、
枝に、ネコがとまっているんです。しかも2匹。
まるで、チシャネコのように、枝に、猫が、とまってる。逃げないんです。

巣箱を襲われました!!。猫の親子の様です、この2匹の猫。片方は小さかった。
私が脅かしても、ぜんぜんどかないんです、この猫達。

まだ、巣箱の中に、ヒナが残っているからでしょう。
でも、地面には、数羽の、羽が・・もう・・何羽かは襲われた後だったようでした。
悔しくて、猫を追っ払ったけど、何度も来る。

それで、酢をまくなどの、猫対策したけど、結局、次の明け方にまた襲われてしまったようで、朝には、巣箱が、傾いてしまってました。

この黒、ホワイトソックスが親猫。

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結構、猫好きで、猫カフェとか行っていたけど、
この一件で、ネコ、しばらく苦手になりました。
まだ、ノラネコを観ると、悔しくて、やりきれない気持ちになってしまいます。

ノラネコも、親子、鳥も、親子、でも、やっぱり、毎日観察して気にしてただけに、
ネコに襲われたのがショックでした。

2度の襲撃にもかかわらず、奇跡的に、1羽、ヒナが残りました。
軌跡のヒナでした。

けど、よっぽど恐い思いをしたのでしょうか、
まだ満足に歩けないのに、巣から逃げ出してしまうようになり、

そのたびに、私が巣に戻してあげるということを4日ほどしました。

巣から落ちても、親がえさをあげて・・。

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ある日、ヒナが道路の方に行ってしまい、子供達につれていかれたり、

ヒナの扱いを知らない子供の行動が、他の子供の心に、いろいろ感じさせたり、
子供間にも、いろんな気持ちがわきおこったり、いろんなことがありました。

保護して、巣に戻したけど、子供が心配して見に来たりして、

親鳥が近づけなくなったり、また、ヒナが脱走したり・・
そんなこんなで、結局、最後のヒナも・・。すくってやれなかった。
ヒナが泣かなくなってからも親鳥は、ずっと探しに来て、鳴いてました。
親ってすごい。なんだか、悲しかった、とっても悲しかった。

心が泣いた日でした。

するどい猫の爪痕、猫は木にのぼるんですね

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今月はいろんなことがありました。

お仕事は、楽しくて、充実していて、
私やっぱり、アプリの仕事好きだぞ!って、実感しました!

そして、心理カウンセラー2級の資格試験、や、トレーニング。
月の最初に1次試験に通過して、
3日ほど前に、2次試験に望みました。

今日、合否の発表でした。そして、不合格でした。

あぁ・・いろいろありました。

いろいろ頑張りました。
でも、及びませんでした。厳しいです。

ちょっと頭冷やして、要因を探ります。また次回チャレンジします。

今月は、いろいろ重なって、忙しくもあり、緊張もあり、焦りもあり、
喜びもあり、悲しみもあり、交感神経maxでもあったし、
心が右往左往しましたし、頑張ったし、
自分の心を掘り下げるようなこともあって、自己洞察にはまったり、
でも、現実が追いついてなかったのかな
私にとっては、長い6月でした。

そういえば、いつも、6月って調子悪いかも・・。

さっ、ちょっと、自分の心の声を聴いてみます。
明日からの自分のために。

「今、私の心が言ってるのは、忙しいと心を見落としがちだね」って、

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それでは、どうぞ、自分らしいステキな毎日を!!。

「生きる」。 トンボ玉体験も。

こんにちは!。
みなさん、それぞれの5月なのでは、と、想像します。

私は、少しワガママをいいまして、
諸々後回しにして、家族の協力を得て、
GWの前半に、一夜、自分だけの時間を持てました。

一晩だけの、自由なので、何をしようと考えましたが、
その辺は、後半で。

そして、伊豆でトンボ玉体験にチャレンジ。

下は、子どもの作品↓。

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これは、緑が子どもの作品、黄色紫が、私の作品

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子どもが、2回目に作った長方形のトンボ玉、
ブレスレッドにして頂きました。
どの角度からみても、なんとも、ステキな色合いです。

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私が欲しいです(笑)。

こちらのお店

 

www.glasmalerei.jp

 

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今日のお題は、「生きる」


体や状況は、生きているのですが、
いまひとつ、「生きてる」実感が持てないとか、
または、「死にたい」とどこかで思ってしまったり、
そういう感覚になることが、私はあります。

いろいろな、モヤモヤとか、空虚感を抱えている状態なのだと思います。

私の場合、ずいぶん、そんな状態が続いていた気がします。

 

これまで、心理学を学んだり、いろいろな体験の中で、
様々な気づきがありました。
自分のモヤモヤや、よく解らない感覚を言語化していく上で、
出てきた言葉が、
「自分は既に、死んでいると思っている」感覚があるとか、、
「自分は、透明人間になりたい」だとか、
「何も感じない、私は心をなくしているのでは?」だとか、
そういう言葉が、出てきていたわけですが、

そういう自分の感覚と向きあう事ができて、
洞察を深めて来まして

たぶん、これ、「生きている」という実感を得ていないという状態なのだと
捉えることができててきました。

実際には、「生きている」んですけど、
毎日、様々なことをこなし、
いろんなことを考えて、前向きに進めているつもりなのに、
空虚感がぬぐえない。

だから、「もっと、頑張らねば、もっと」と思ってしまうけど、
現実的には、「もっと」を実現する余裕も、体力も、環境条件もない。
満たない、満たせない、自分を嫌悪する
という、いわゆる負のスパイラルに陥ります。

本当に欲しいものは、「生きている」実感があればいいです。
では、その実感とか何でしょうか?

それは、おそらく、「今を生きること」なのではないでしょうか?

大抵は、過去に囚われている。
あるいは、未来を考えすぎて、不安になる。

その2つが今を生きていない原因のような気がします。

なので、
「今を生きる」ということは、過去や未来に囚われないということ、
「今を大事に感じる」という理屈になります。

どういうことかと言うと、
結局、自己受容ということになります。
自己受容とは、ありのままの自分を受け入れる。
好きな自分はもとより、嫌いな自分も自分の側面であることを踏まえる。
そんな、痛い自分の、痛みを感じることかもしれません。
あるいは、好きな部分の自分を素直に喜ぶことなのかもしれません。

そんな、凸凹な自分を認めて、凸凹な自分に即したものを選ふ、

ということだと、気づいた訳です。


私が、しばらくなくしていたものは、「自分」でした。
私の落とし物は、「自分」でした。
私が探していたものは「自分」でした。
本当の自分、今の自分。
「過去の自分」でなく、「理想の自分」でもなく、
今の、等身大の、若い頃よりも格好悪いけど、妙な深みのある、
けっこう痛い「今の自分」でした。


そして、その自分を取り戻すために、
また、自分を確かめるため、自分を感じるために、
自分の思っていることを、言える、表現出来ることをしようと思いました。

過去の日記を元に、自分を振り返ると、
自分をなくしたころ、
言っても伝わらない感をとても感じていて、
自分は変わっている、自分は受け入れられない存在感を持ってしまい、
本当の自分の気持ちを、出さなくなった気がします。
それが、「透明人間になりたい」という感覚になったのかもしれません。

振り返りの、元になったのは、
私が2001年~自分webで公開していた「光と闇のダイアリー」という日記でした。
2009年頃から、公開を辞めていました。

GWの前半の一夜に、この日記の続きを書こうと、
止まったままの、時間を進めようと、
見えなくなっていたものを、編集しようと、した訳です。

まだ、2012年までしか、追記出来てませんが、
こんな自分もあったと、自己受容するに至り、復刻してみました。

そして、主旨を新たに、「黄月家K's 気づきlog」を公開することにしました。
昨年からの「自分」の言葉を随時追記して行きます。

黄月家K's気づきlog

黄月家K's Old Day_光と闇のダイアリー

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みなさん、

どうぞ、ステキな一日の実感を、楽しんでください。

心のバランス

東京多摩地方、今日は、暖かく穏やかな天気でした。

九州地方の皆様、ご関係者の皆様、
いろいろ大変なことが続いていると思います。
お気持ちも大変だと思います。どうぞ、どうぞ、ご自愛ください。

私も出来ることをしていこうと思います。

春のうちの庭↓。

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スノーポールとテントウムシ

下は、ももの花

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毎年咲いてくれる、この赤い花(球根)

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モミジの芽吹き

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ジューンベリーの花

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野生種のチューリップ、これも毎年咲いてくれます。

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芝桜

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これは、あげびの花、ヒヨが花を食べにきます!。
美味しいのかな?

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今日のお題は、「心のバランス」

 

最近、なんだかとても忙しくて、
「時間がない」という感覚に追われて、
思うように、物事に関われず、イライラしたり、
結局、やりきれなくて、上手く行かず、落ち込んだり、
いろんなことがいっぱいで、ざわざわしたこの頃でした。

そうは言えど、外は春ですね(笑)。
花も綺麗だし。

「やらねば」「やらねば」と、自分を責め立てていたようで、
先週も、ちょっと時間的に落ち着いてきたのに、
焦りが抜けなくて、「今のうちにやらねば・・」と
結局、休めずじまいでした。

歯車が、上手く回っていないような、
空回りしているような感覚が自分の中にあって、

何が悪いんだろう?と考えまして、

ふと我に気づきました。

つまり、忙しいと生きるバランス崩しませんか?

「やらねば」という思考やルールが優位になって、
自分の心や情緒、身体を置き去りにしているってこと、
ありませんか?

これ、カウンセリング心理学で言うところの、
現実原則と快楽原則のバランスの理論ですね。
人にはそれぞれのバランスがあって、
過ぎたるは、及ばざるがごとしです(笑)。

バランス、崩してましたね、最近の私。

もうこうなると、気持も情緒も身体も見失ってますから、
自分が本当は何をしたいのか、すぐに心が出てきません。

焼け石に水のような、作業を繰り返したり、
そんなことの連続で、全く満足感も得られず、心が乾いていく感じです。

2.3日考えて、昨日、やっと心の声が出てきました。
私の心と情緒と身体は、「休みたい」って、言ってました(笑)。

そうなんです。疲れているんです。
疲れている自分に鞭を打ち続けていたこの頃だったんです。
そのうち、自分が疲れていることすら、解らなくなっていたような感じです。

がんばり屋さんにありがちな、状態ですね。

さて、それに気が付いたといっても、
今をどうして良いものやら、悩んでしまうのが、また困った私です。

自分をいたわる、自分にご褒美をあげるクセが、ありません。
だから、すぐ、自愛を忘れてしまう。

実は、まじめなので、積もっている作業を投げすのも苦手です。

かといって、

しんどいと、視野も狭くなりますし、いろいろ上手く行きません。
心もふさぎがちになりますし。

だから、今度、こうなった時のために、すぐ思い出せるように
私の持ち直し事項を、書いておこうと思います。

①睡眠時間を充分確保しましょう。
②心が疲れたら、作業を止めて、空を見ましょう。
③心が疲れたら、作業を止めて、花や土の手入れをしましょう。
④情緒を忘れかけたら、大好きなドラマや映画を見ましょう。
⑤自分の心の声を聴くための、時間を作りましょう。
⑥それで、作業が溢れたら、自分と作業を見切りましょう。

最近、どれもこれも、出来ていませんでした。
今日、夕方少し、②③の時間をつくることが出来ました。

上記の6つを、心のバランスがとれなくなったら、
自分自身に心がけたいと思います。

みなさんも、どうぞ、ご自分のバランス回復
ご褒美として、好きなことなどを考えておくといいかもしれません。

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春ですね。どうぞステキな時間を楽しんでください。

ニセモノの世界

だいぶ、暖かくなりました。

毎回思うけど、クリスマスじゃないのに・・(笑)
うちの庭、玄関わきのクリスマスローズが、満開です。

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もう、たぶん3年か、4年目ですか(ど忘れ)

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上から見ると、この量。

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こんな色も端の方に咲いてます。(ピンぼけ)

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玄関アプローチの入り口の、ムスカリもかわいい。

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ハッピークローバーも、冬越えして元気です。

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今日のお題は、「ニセモノの世界」

この世は、ニセモノだらけ、張りぼてが並んでいる仮想世界。
そんな、感覚が、私の中でずっとありました。

そして、自分もひょっとしてニセモノなのではないかと・・。

カウンセリング心理学を勉強しながら、
最近わかってきたことは、
「考え(思考)」と、「気持ち(感情や心)」と、「行動」、「意味」が、
一致していない状態が続くと、心や、身体や、行動に、不具合が出てくるのが
人間なんだということに、私自身気づいてきました。

私自身も、もちろん、いろんなしがらみがあったり、
簡単じゃない経験が沢山あったり、
複雑な感情が積もっていたりしているので、
一致してない部分を沢山、持ってす。

しかし、その別々なものが、一つの身体の中に、宿っている以上、
別々のままを続けて行くと、どこかが分離してしまう訳です。

そして、そういう場合に、
いろいろ、折り合いを見つけ出して、
現状・現実の状態の自分を納得して、
歩き出すことができる心と体の状態にすることを、
心理学では、「統合」といいます。

単純に、心(思っていること)と、考えと、行動が、一致していると、
足し算じゃなくて、乗算的な、力が入ります。
自分の能力を100%、発揮出来る状態というわけです。


しかし、最近の、現実社会は、なかなかそうはいかない。

まず、現代社会は、結果主体で、行動と思考が、優位で、
感情や気持ちがおざなりな部分を感じます。

マニュアル社会の弊害ですかね?

表面的。

そこで、私が「ニセモノ」と感じているのが、何なのかを言語化できました。

「行動」と、「思考・考え」に、「気持ち(心)」が伴っていない状態を
私は、ニセモノと感じていたのだと。

こういった、表面的な状態だと、心底の力がないので、
途中で果てて、中途半端になったり、
心を無下にしているので、人を物扱いして、
マイナスな心のエネルギーを駆ったりして、足止めの結果になります。

前回のweblogで、書きましたが、
「人の心を動かすのは、心だ」と、私が改めて、感じたのは、そこです。

結局、人は、思考や論理では、とりあえず、動いたとしても、
心が伴っていなければ、長続きはしない。
思考や論理を支える心が見えなければ、
思考は論理は、時代の価値観とともに朽ち果てる。
だけど、心があれば、
自分の想いと同時に、他者の心も想像できて、柔軟な変化を遂げつつ、
お互いに成長してゆけるものになるといったところでしょうか?


では、心は、どいったものか?

心とは、情緒部分、感情部分、などなどで、
本来なら、動機などに関わる部分です。

つまり、私がこれまで使っていた言葉に置き換えると、
方向=ベクトル。どちらを観るかという、向きとでもいいましょうか。

そして、心の成長は、
考えや思考、行動のスキルと同じように、
心も、経験をつむ必要がります。
まず、感じること、
次に、感じたことを表現すること、
その経験のくり返しで、感覚も、育ちます。

しかし、幼児期などに、心を軽視した環境で人間形成をすると、
なかなか、心=情緒が育ちません。

具体的には、
感じることを禁止されるケース、や、否定されるケース。
心を無視されて、コントロールされるケース。などがあります。

具体例としては、
子供が「痛い」と感じたとすると、
親が、「痛くない!」「痛くない!」と
たちまち、否定したり、
子供が、「悲しい」と感じたことを、
親が、「そんなことが悲しいのなら、生きてゆけないぞ!」とか、
親の感覚を押しつけたり、

ありがちですね。
私も、されたし、したと思います。

親は、親の、強くなって欲しいとか、いろいろな子への想いがあるのでしょうけど、
実際には、子供の情緒(心)の成長を、阻害する結果になってしまって、
こうした中で、大人になると、
思考優先で、自分の気持ちもよくわからい、
よって、人の気持ちも想像できない、という、
偏った成長になってしまう訳です。

あるいは、
自分の心が感じられたとしても、
それを表現しても、受け入れてもらえない環境だと、
自分の心を、無下に、よって、人の心も無下に、
そんな、心の伴わない、生き方をしがちになります。

人の心や情緒が成長するためには、
「感じること」の自由と、「表現の自由」が、大事なのですね。

かといって、
法律やルールやマナーを害する、行動が伴うモノは、
社会性の中での、行動との調整が必要だし、
表現だって、攻撃性や、暴力性があるのは、
他者の気持ちへの配慮ができないという意味で、
未発達な心理がある状況なのかもしれません。

それも、ありがち、なので、
心の成長とともに、バランス良く、行動や、思考も、
社会性的部分の成長が必要になるのも、うなずけます。

心だけでも、行動・思考だけでも、中途半端な状態という人間の仕組みですね。

 
「本音」と「建て前」
そんな、文化もありますね。
昔の私なら、「建て前だけ」の人間を「ニセモノ」と感じていたと思います。
だけど、その「だけ」が、キーなんです。
「本音」がどこかに見え隠れしていれば、
おそらく、「完全なニセモノ」ではないのかもしれません。

 

最近、メディアや、SNSや、ワイドショー、様々な場面で、
表面的なコメントだけの、人々が多い気がすると、
感じているのは、私だけでしょうか?
いわゆる、「ニセモノ」を感じます。

かといって、心を話す、自由度が、社会の仕組みになくなってしまったような。
失言をすると、炎上して、根掘り葉掘り掘り起こされて、
人の足下をすくって、情け容赦なく、窮地に追い込む、
社会から乾させる、ような風潮もあります。

建て前ばかりの、言葉。
これは、心理の深層で、恐怖から防衛している姿のようにも見えます。

体裁を気にして、心を話さない。
本音(心)を、話せる場所がどこにもない。

今のこの国は、「ニセモノ」を創り上げるように機能しているのかもしれませんね。

そして、この国ごと、「ニセモノ」になってしまうのかもしれません。

おおっと、これの発言↑は、否定的コントロール調でした、すみません。

このように、恐怖や、不安をあおる、事態を連想させて、
人の気持ちをコントロールしてしまうことを、
カウンセリング心理学で、分析しますと、
「否定的コントロール」という言います。
共依存症や、アダルトチルドレンが持つ、行動の傾向です。

子供の時(人格形成期)に、
自分の心や思考を、自律する方向で、経験すると、
人間関係において、
①自分のことを話す
②他人の話を聞く、
③違いを、わかって、調整する
ということが、出来るようになるのですが、

人格形成期に、
まず、自律的存在に扱われずに、「話を聞いてもらえない」
と、上記の①、②、③が、できなくなってしまう傾向にあります。

「自分のことを話すこと」は、情緒(心)に深く関係しています。
なぜなら、自分のことを話す(言語化する)ためには、
まず、「自分のことを感じる=自分のことをわかる」必要があるからです。

情緒も、経験値があって、
経験して情緒(心)を感じることを、繰り返すことで、
心が成長します。

こうして、人の情緒が、健全に成長できる家族や社会が、人間の成長には必要です。

そして、情緒の成長の機能を持たない、家庭環境のことを
カウンセリング心理学では「機能不全家族」といます。

だから、情緒の成長の機能を持たない、社会のことは、
「機能不全社会」と言えそうですね。

長くなりました。

今日のお題をまとめると、

まず、自律的に「話を聞いてあげること」が、
この「ニセモノ」製造社会には必要なのかな?と。

社会のひとりひとりが、成長していけるために、
「話を聞くこと」をする、そのためには、
自分の感情や思考は、他人の感情や思考とは別物なのだと、
区別できる距離感を持ちつつ、自分も機能する必要があるのだと思うわけです。

他人のことで、心が動くのは、心が機能しているということだし、
それは、それで健全だけど、
「・・すべき」とかといって、思考や、行動を押しつけたり、
それに、従わない他人を、けなしたり、攻撃するのは、
「否定的コントロール」なので、共依存症の傾向が見受けれる人、
と言う心理学的な解釈になります。

否定的な社会は、怖いですけど、
「自分を感じる」ことを止めないでほしいです。
「自分のことを話す」場所を持って欲しいです。

「否定的コントロール」の実態を知ってほしいです。
恐怖は眼をふさぎますが、それが、全てじゃないということです。

つい、「否定的コントロール」的なこと言っちゃいますが、
矯正や、強制や、攻撃や、必要以上の否定をする必要は、ないのです。

だって、私は私、それと同じように、あなたはあなた。人は人、
私の心は私のモノ、私の人生は私のもの
あなたの心はあなたのモノ、あなたの人生は、あなたのもの
私とあなたは、違って良いのです。
あなたと私も、ちがって良いです。
あなたも尊重されるべき人間で、
私も尊重されるべき人間です。
みなさん、そうですよね。


さて、
あなたは、「ニセモノ」?
私は「ニセモノ」?

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だんだん、春になってきました。
花粉ショー大変ですが、
花や、空や、風景に、眼を向けてみたくなりました(笑)。

どうぞ、ステキな3月をお過ごしください!。

 

巣箱と、自己洞察と、傾聴トレーニング

今日は、2/29 4年に一度のうるう年ですね。
weblogを今月1回でも書くことができて、なんとか、間に合って、よかったです。

巣箱。
子どもが、国立市市民祭りに行った時に、巣箱を出店のコーナーで
なんと無料で作らせて頂きまして、その巣箱に、色や加工をしまして、
こんな仕上がりになりました。制作は、うちの子ども(小学低学年)です。

屋根は、葉っぱ、壁は、張り板風の仕上がり。

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葉っぱの境目は、彫刻刀で溝を、私が掘りました。
入り口、穴の下に、止まり木もつけて。

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庭の木に、つけてみました。

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とりさん、来てくれるとうれしいです!。

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最近は、心理カウンセリングの養成講座が、いろいろ架橋に入り、
心理カウンセリングを行うための、傾聴トレーニングを受けたり、
交流分析の講座が架橋を迎えたり、
自分自身が、習った心理学論理を用いて、自己洞察を深めたり、
先生に心理カウンセリング受けながら、自分の問題に取り組んだり、
なかなか、心が、ざわざわと、していたこの頃でした。

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最近気づいたのは、

「人の心を動かすのは、心だ」と言うこと。

気づいたというより、思い出したという感じです。

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傾聴トレーニングのエピソード

最近、心理学の講座をうけつつ、
心理カウンセリングのトレーニングをしたりしています。

カウンセラー役(CO)も、クライエント役(CL)のやります。

その中で、
私がカウンセラー役をして、CL役の方の話を傾聴します。

が、CL役の方が、どんな悲しいと言っても、
どんなに、怖いと言っても、
そういうお話しを聞いても、共感できない自分がいました。
そんなこんなで、自分は、失感情ではないかと、気づいたわけです。

それで、次の回に、
私がCL役をして、人の話を聞いても何とも思わないことや、
昔はいろいろなことを感じて、音楽やCGの活動をしきたけど、
今は、何も感じないという、自分の中が、がらんどうで、空虚だと感じること、
を話しました。

トレーニングですと、
心理学理論に沿って分析し、適切な療法や技法をどう適応していくかを
考える、「見立て」をします。
つまり、分析されて、告知されるということになります。
これ、私結構私には快感なんのですが、
普通のカウンセリングでは、
CL自身がまだ気づいていない自分の心の状況をや見立てがあっても、
CLが受け入れられないので、見立てをCLに話すことはしません。
私が快感に感じるのは、自分が失感情だからかもしれません。

トレーナーの見立てでは、
私の感情が沸き起こらない状態を、心理学理論に置き換えると、
「防衛機制の隔離」という心の状態と分析し、
適応する療法を、「フォーカシング」としました。

「隔離」とは、
受け入れがたい感情部分を切り離し、
体験にまつわる感情を麻痺させる無意識的な心の働きです。

「フォーカシング」とは、
感情や、気持ちの言語化が難しい段階の人のための療法で、
身体の感覚を感じていただき、その感覚にしっくりくる言葉を探し、
自分の心に気づくという、
療法なのです。

私、これまで、個人的に、好きな音楽(特にギターリストの西川進さんの音楽)を
聴いて、誰にいわれたでもなく、
ずっと「フォーカシング」やってきたなぁ・・って!!!
音に感じる自分の感覚を言語化してきたな、って。

そういう、時間って、だいじなんだなぁって、思ったこの頃でした。

10数年前に、私、鬱病を2年ほど患いました。

あの頃、私は、CGの仕事がとっても忙しく
掛け持ち掛け持ちで、睡眠時間も1週間で2時間なんてことを、
やってましたら、鬱病になりまして、2年ほど、心が真っ暗闇の住人のでした。

あの時から、あれだけ好きだった人の音楽や言葉は、
私の分厚い壁(防衛機制)に遮られ、私の心に入ってこない。
みたいなことが数年続きました。
けど、西川進さんのギターの音だけは、勝手に心に入り込んで来る。
私にとっては、特別な音。

今は、回復していると思っていたけど、
情緒が、付いてこなかったと、今頃、気づきました。
だから、「私は死でいる」という、気持ちが離れないのだと思います。

情緒を、気持ちを、心を、取り戻したいと、
今、思います。

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そんなこんなで、気が付けば、2月も、あっちゅう間。

そして、更に、思い出したことがありました。

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それは、

「愛とは、理解すること」

私は、人のことを理解しようと、しなくなっていた。
心が自分の苦しみでいっぱいで、人のことを受け付けなくなっていた。

思い出した。

あぁ、これ、私が、CG作品にCGキャラに込めてきた、愛の形だった。

草も、木も、水も、花も、動物も、モノも、
他人も。
みんな、全部、理解しようとしていた私が、かつて、いた。
それを、作品に込めていた私がいた。

そして、私が大好きな
ギターリストの西川さんの音にも、それを感じる(笑)。

なんてことを、今日は感じております。

「理解」って、心理カウンセリングで言ううところの、
共感的理解と同じだと、気づいた訳です。

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さ、そろそろ、春近し、ですかね?

みなさま、どうぞ、ステキな春をお過ごしください。

「ネガティブ」と「ポジティブ」。1月の庭

うちの庭、今年は花が沢山咲いています。
季節がちょっと・・。

これは、1月のホタルブクロ。

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1月のマリーゴールド

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1月のなんだけ、この花?

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1月のキンギョソウ

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1月の日本水仙

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1月のスノードロップ

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1月のスノーポール

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1月のプリムラ

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1月の柑橘。

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昨日、今日は、東京多摩地方、ようやく結構冷え込み
朝は、霜で一面真っ白でした。
しかし、庭は、季節がよくわかりません(笑)。

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さて、今日のお題は、

「ネガティブ」と「ポジティブ」


「ネガティブ」は悪いこと?

そんなふうな風潮を感じるのは、私だけでしょうか?

落ち込むのは、悪いこと?
悩むのは、悪いこと?

むやみに、ポジティブ仮面をかぶることが良いことなのでしょうか?

私自身は、
このweblogを始めたとき、「ネガティブ日記」と題したぐらいですが、
ネガティブにも、良さがあるのでは・・なんて・・思ったり、
そんなことを書いたりしていました。

では、ネガティブとは、いったい何でしょうか?

形容的なネガティブとは、webで調べますと、
否定的なさま。消極的。という意味だそうです。

なるほど。
思考的には否定的で、行動的には消極的、ということですね。

確かに、物事を否定的に捉えると、行動力が落ちて消極的になります。

だけど、「私は本当はすっごくネガティブな人間です」という人の方が、
人の心に残る大作を作ったり、
人の気持ちにヒットする音楽をつくったり、
人のためになる発明をしたりすると、
感じます。

なせでしょう?

私の思うに、
ネガティブな人は、感受性が豊かで、傷つきやすいという特性があり、
それゆえに、落ち込みやすく、落ち込みを重ねると、
否定的で消極的になりやすいとも考えれます。

しかし、厳密には、感受性が豊かで落ち込み易いことは、
ネガティブではありません。
その後の、受け止め方と、行動でネガティブか否かということになるのだとすると、
私の中のネガティブの概念が変わります。

「否定的」という側面について言えば、
本来生まれたばかりの人間は「否定的」ではありません。
赤ちゃんを観るとわかります。
何でも怖がらずに触ったり、なめたり、口にしたり。
何も怖がらずに、人を直視したり。

つまり、「否定的」は、学習の産物と言えます。
つまり、育つ環境によるところが大きいとも言えます。

特に、人間関係上は、親や養育者の、
共依存的な否定的コントロール下で、身につけた思考(思い癖)と言えます。

否定的コントロールとは、
否定的な側面を想像させて、行動や気持ちを制御しようとする行為です。
たとえば、「○○しないと、××になってしまう」などです。

親としては、ありがちです・・
(私も良くそういう言い方をすることがあります。私の母親もその手の人でした。)

なので、否定的なネガティブは、養育者から引き継がれたものということになります。
しかし、それを受け止めて考え、どう行動するかしなかで、
ネガティブ100%なのか否かの分かれ道なのだと、とらえることが出来ます。


では、逆の
ポジティブとはなんでしょう?

肯定的であるさま。積極的なさま。と調べられました。

思考的に肯定的で、行動が積極的ということになります。

確かに、否定的思考より、肯定的思考の方が、心の負荷がなく、楽です。
楽しさも感じやすいと思われます。
消極的より、積極的の方が、発展が有り、進歩しやすく、成長しやすく、
たとえ、失敗があったとしても、
肯定的に捉えることで、次の行動につながり
よりよりものに近づける率も上がるモノかもしれません。

風潮が言うように、
ネガティブは悪く、ポジティブが良いというのも、よく解ります。

 

だけど、私の中で、どうしても、ひっかかるのです。

思慮深いことは、ポジティブ的印象ではありません。
どちらかというと、ネガティブ。
無頓着で脳天気は、ネガティブではありません。
どちらかというと、ポジティブ。

しかし、思慮深いことが悪く、脳天気が良い、ということは、言いがたい。
確かに、心は脳天気の方が楽なのかもしれませんが、
感動的な、人間的な厚み有る成果物は、思慮深い人の方が作れると思うのは私だけでしょうか?

結局のところ、
ネガティブと、ポジティブ、どちらが良いかは、
自分の求めているところがどこなのかによる部分もあるんじゃないでしょうか?
一概に、ネガティブは悪く、ポジティブが良いとは、私は言いにくいです。

結局のところ、
私には、もの凄くネガティブ(思慮深い)な側面と、
もの凄いポジティブな行動力がありますから、
私は、両方の側面を持っていることになります。

おそらく、みなさんの中にも、時と場合によって両方の側面があるのではないでしょうか?

その、時と場合を、読み分ける感覚は、
感受性が豊かな人間の方が、得意なのかもしれません。

だとすると、どちらが良いとするのは、
総合的に考えると、意味のない評価なのではないでしょうか?

私の思うに、
そもそも、人間は矛盾を内包した存在なのですから、
その相対する矛盾を、肯定的に捉えるなら、
是非や、上下や、善悪を決めるのでなく、
その相対する側面の、バランスを見つける方が、賢いのではないでしょうか?

と言うわけで、
多くの皆さんは、ネガティブを否定しますが、
私は、あえて、ネガティブを否定しません。

今日も独り言・・続きます(笑)。

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ほんとに、寒いですね。

みなさま、どうぞ、暖かくしてお過ごしください。

主婦的「イライラ」と、「共依存」

あけましておめでとうございます!。
いよいよ2016年になりました。

みなさま、どんなお正月でしょうか?
私にとっては、いろいろ内観が必要な感じです・・。

今年も、どうぞ、よろしくお願いいたします。

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箱根九頭竜神社の手水。昨日は、雪が舞っていました。

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今日の今日のお題は、「共依存

年末年始は、子どもも夫もお休みで家に居ますので、
なぜか、イライラしてしまう、主婦はいませんか?

私はその一人です(笑)。

その苦痛は、おそらく、共依存かもしれません。

共依存」とは、「外部準拠状態」のことで、
物質や他人や出来事によって自分の気持ちや価値が決まる状態のことです。
愛情や、喜びも、悲しみも、苦痛も、他から与えられるもの思っている状態です。
自分の外のものに基準があるため、
結果的に、いつも振り回されるという感覚があり、
確立した安心と自己の自身を得ることができない状態で、
常に不安や不満を抱えやすい状態となります。

たとえば、
お金があれば幸せ。モノがあれば幸せ。資格、学歴、結婚、王子様はきっと来る・・etc
いろいろなものがあります。
戦後の日本は物質主義社会だったので、多くの方がそうなのかもしれません。
いわゆる、他者物依存。共依存がフツーなのかもしれません。
でも、これが辛さをもたらす原因であることが多いのも事実です。

対して、「内部準拠状態」とは、
愛情も喜びも悲しみも、自分の内側からもたらされると思える状態のことです。
自分の価値は自分の心と行動によるので、自分を信じることができ、
自分の中に、自分の価値の基準があるので、結果的に、捉え方しだいで、
自分を救うことができ、失敗を成功に転化することも出来ます。
安心と自信を自ら確立しやすい状態となります。
つまり、自律した状態と言えましょう。

共依存」と言う言葉、20年ほど前に習ったカウンセリング心理学では、
一番最初に学びました。

共依存」が辛い心の現況といっても、言い過ぎではないのです。

わりと、日本人の文化は、「共依存」的な部分があるのかもしれません。
他者を気にするというのは、ある意味では、「気が利く」ことであり、
「共感力」があって、人の気持ちを察する、思いやりの能力とも言えます。
そこまでは、日本人的に、否定したくない、利点だと思っています。

しかし、自分の心までも他者に空け渡してしまっている・・
というのは、自分でない、ただの、物体のようなもので、
それで、心を持つ人間としては、矛盾を抱え、辛さを感じるようになる
という仕組みなのだと私には思われます。

さて、家族(他者)が始終家にいるこの時期、
「イライラ」してしまう私は、
家族によって、自分の心が乱れる外部準拠状態で、
つまり、共依存状態にあると気づきます。

では、イライラしない自分をつくるためにはどうしたら良いかというと、
家族(他者)が終始家にいても、
自分は自分、という自分を確立することなのでしょう。
たとえば、家族の世話で忙しく、自分らしい時間が作れないのであれば、
家族が居ても、自分らしい時間を作ればよいことになります。
はい、そういう時間を作って良いのです。
もし、それで、家族が私に怒るのなら、家族が共依存状態なのだと思われます。
家族にも自律を促しましょう(笑)。

あるいは、他者に時間を捧げるのでなく、
自分がやりたいからやっていると思えるようにすれば良いのです。
思えるところで、一線を引けば良いのです。
他者の評価を気にせず、自分で評価してやれば良いのです。
と、思いながら
明日を過ごしてみます(苦笑)。がんばれ私。


みなさま、心新たに、どうぞ、良き1月をお過ごしください。