ココロド_黄月家K's weblog

考えすぎ? ココロド_心理カウンセラー_黄月家Kの 思考いろいろ、心理分析、ものづくり、時々庭、時々日記です。

今の自分。「白内障」手術を終えて

2017年になりました。

以前つくった「ハートのはなし」という絵本の内容を
黄月家artsのHpにアップしました。1から7まで。

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黄月家Arts_TOPページ

心のお話しです。

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昨年の自分の一年を振り返って、漢字一文字に表すと「己」という漢字にでした。
昨年は、いろいろな変化もあり、いろんな意味で、
自分を見直す年となりました。

仕事して、育児して、家事して、勉強して
自分を見つめたり、自分を振り返る時間はほぼ皆無に等しく、
ここ10年ほどの時間が過ぎてきまして、
体も、心も、大変な状態だったのに、メンテナンスすらしていなかった・・
なんてことに・・気づいたり、
かつての自分と、環境の違う今の中で、
自分がどうあるべきか、自分自身を再構築の時期だと、気づいたり、
発達心理学的には、アイデンティティーの再構築の年頃)
そんなこんなで、自分をみつめる一年になった気がします。

今年は、相変わらず、やりたいことが沢山有ります。
心理カウンセリング分野、CG分野、アート分野、育児分野。
考えると楽しくやる気がみなぎる一方で、
そのための、稼働時間をどうするのか、なんて課題もあります。
一つづつ、積み上げて行きましょう。
私は、やりたいことは、やります!。
でも、今は内緒。カタチにしていくことで、表したいと想う次第です。

稼働時間は、ムリするという私の悪いクセを、変えてゆくために、
工夫が必要になります・・これが今年課題ですね・たぶん。
結局、体や心がまいってしまうと、
なかなか上手くいかなくなってしまうものなんですよね・・

わかっているんですけどね・・(苦笑)。
わかっているけど・・やってしまう・・というのが、「悪いクセ」。
いわゆる、否定的自動思考が隠れています。
「ダメ」という気持ちがどっかにある。
「認められたい」の裏側にも、「ダメ」という否定的自動思考が隠れていますね、
ダメと自分を評価しないために、頑張り過ぎる。
そのうち、体が心が悲鳴をあげていることすら気づかない状態になります。
私も、自分で気づけない状態だった気がします。

でも、ありがちですよ・・、
「24時間戦えますか!」なんて、CMのキャッチコピーがありましたね、
私も、そんな時代の仕事戦士だったから・・。

でも、今は、時代の知識も大事なことも変化してきている。
自分の心と体も変化している。
しみついた否定的自動思考を、再思考吟味して、
本当に行きたい方向へ、柔軟に、変わりましょう!。と、想います。
それでも、変わらないものがあるなら、それは、自己の本質、本当の私です。
ホンモノは、チカラ強い。それを、最大限活かしたらいい。

---

年末に「白内障」の手術をしました。

白内障は、眼の水晶体が、本来は柔らかいアミノ酸でできている部分が、
結晶化してしまい、光が乱反射してしまい、
光が膨張してまぶしくなり、白っぽくかすんで見えたりする症状があります。

一度結晶化してしまうと、元に戻ることはなく、治療は、薬で進行を遅らせるか、
手術して、水晶体を人工レンズに交換するというのが、現状の治療にです。

白内障の原因は、老化や、紫外線や、ステロイドなどの薬など、
いろいろありますが、私は、どれもこれも、思い当たります。

若い頃はスキューバダイビングのインストラクターもやってましたから、
紫外線浴び浴びでしたし、
ここのところ身体にムリを続けてきたのもあるし、いろいろ老化もあるでしょう。
おまけに花粉症がひどく、病院で処方さたステロイドが入った目薬を
知識なく使っていましたから・・。

私の感覚だと、寝不足の時に、
眼がピキピキと結晶化して亀裂するような痛みがあったりしたし、
あとは、花粉症の目薬の後も、ピキピキ痛んだし、
プールや水道水で眼を塩素にさらした後も、ピキピキしました。
まぁ、寝不足や身体もムリが大きな原因のような気もします。

そうはいっても、年を取れば、
80才以上ではほぼ90%以上の人が白内障になるというくらい、
老化のポピュラーな症状でもあります。


しかも、CGや、アート、仕事で、眼が要ですし。
眼の変化には敏感でした。
最初、眼科に行ったときは、
眼科の医者も見逃して「ドライアイ」と診断されまして・・
早めの対処治療の時期を逃しました経緯があります。

白内障が進んで来るにつれて、一番不便に感じたのは、夕方や夜の車の運転。
まぶしいので、いろいろ見えないことがあります。
あとは、逆光での会話、逆光だと人の表情が全く見えませんでした。
どれも、映像制作では、情緒をつくるために、
わざわざ作り込みような視覚効果ですが、現実は情緒的でというより、不便です。
心理カウンセリング試験の時、昼間で逆光で、全く相手の表情が見えなくて、
気持ちがくめず、その時の試験は落ちました(苦笑)。

CGや、アートは、意外にも、あまり苦労はしませんでした。
色はそもそも、比較視覚ですし、デジタル上では数値化されているので、
デジタル化で、安定した色彩を、使う事ができましたし
RGBは、色認識もしやすい。
ただし、近くに窓や強い光があるとモニターが反射するので、
作業部屋のカーテンは遮光カーテンに変えて、
昼もカーテン閉めっぱなしになりましたけど。
CGで、とくに、不便を感じたコトはありませんでした。

日常で光に埋もれて、見えないものが増えていくのを感じて、
仕事で、眼が要という意識も有り、手術を受ける覚悟をしました。

左、右と、順番に数日おいて、手術しました。
手術をしてくださる先生は、直感で信頼出来る感覚があり、
不安もなく順調に終わりました。

先生は、手術中「頑張りましょうね」「私も頑張りますよ」なんて、
優しい口調で術中、ずっと声かけしてくださって、
本当に、丁寧で心のあたたまる感動がありました。
安心して手術を受かられたことに感謝です。

--

それで、ここからが本当に書きたいことなんですが・・。

術後の眼、今までとは違いました。
私の場合は、術前の眼より、ものが小さく見えます。
片目だけ手術した時は、両方の見える大きさが違うので、
眼がとても疲れたし、ものの距離感が混乱したり、動作すると酔ったり。

視野の端、光が歪んでいて、少し明るくなり、光を吸収するカーブが見えたり、
視野の端が暗く見え、その部分から外側が、ものが2重に見えます。
しかも、それが、眼球を動かすたびに、チラチラと光を拡散します。

そいつの正体は、なんと
眼の中の、新しいレンズのエッジ。見えるんです。外側、120°ぐらい。

人工レンスが、人のアベレージサイズに作ってあるとすると、
レンズのエッジが見えてしまう人が時々まれに、いるらしい。
私は、まれな人・・らしい。
それで、判明したことは、
私は、アベレージ方よりも、これまでは視野が広かったのだっ。
という事実。
(術後の今となっては、レンズのエッジがあるので視野が広い利点はない)

正直、視野なんて、人と比べたことがないから、
なかなかそれをデータとして認知することは無かった。
だけど、想いおこせば、いろいろなことがあった。

私がスキューバダイビングのイントラの試験を受けたときのこと、
25年ほど前のことですが、
当時私の所属する協会は、プロ志向で、マイナーな協会で、
試験のコースディレクターは半数以上が沖縄の米軍基地の方。
昔のことですし、能力テストも兼ねていろんなやんちゃな取り組みがあって、
パニックの耐性や冷静な判断ができるかなどをチェッする為に、
背後から、空気タンクのバルブを閉められたり、
パニックになった生徒役の方(本当はコースディレクター)に、
無茶な動きをされたりなどなど、いろいろありました。

陸で、コースディレクターが、私の背後から、
やんちゃに、水をかけようとしたときに、
私は、影の動きを察知して、とっさに、避けました。、
「君は、後ろに眼があるのか!、すごいな!」と言われました。
その方は、元グリーンベレーの方。

そんな記憶が思い出されました。

そうそう、最近忘れてましたけど、
実は、私、以前は「気配」とか察知するタイプで、
感覚の鋭い人だった(過去形です)ことを思い出しました。

同じような、耳の話もあって、京都での学生時代、
音楽やっていたのですが、音はよく聞こえるのに、
人の話を、聞き間違いすることがあったりして、耳がおかしいのかな?と思って、
大学の保健室に相談にいって、聴力を検査してもらったら、
「むしろ、人より聞こえる周波数の範囲が広いですよ」と
言われたことも思い出しました。
(今は、年相応に聞こえなくなっている音もあるとおもいます。)

たぶん、嗅覚も同じように、においで気配を察知できた出来事が沢山あった。

つまり、標準?な人より、データ的には、
授受している情報量が、視野と、聴覚では多かったということになり、
それが、「気配の察知」の根底にあったのでは、と、
なんだか、妙に、納得できて、嬉しくも、自己受容できるような気がしました。

多くの人に解らない「気配」や、「違い」を解ることが、
今いる環境では、不気味だと言われたり、気味悪がられてり、
怖がられたり、嘘つき系におもわれたり、
でも、その解ることを、うまく説明、解説できなかったりして、

無闇に否定されることに、疲れて、

ここ数年は、人の解らないことを、解るということが、
自分を負にしているような気持ちにもなっていました。
ここ数年、音に耳を塞ぎ、ものに焦点をあわさず、
本来の自分を否定して、にぶいの人になろうとしていた、自分がいました。

自分の本質を、否定してしまっていた。
「察知」は、誰にも通じない、ことだった。
それは、私を孤独にしていた。
けど、自分の本質を否定するのは、自分を殺すのと同じでした。

でも、その原因がわかって、納得できた。なんかすっきりした。
人と違う、自分を認めてあげることが出来そうな気分です。

--
新しい眼(人工レンズ)は、
医療の専門家の、すばらしい技術で開発された優れものなのだと思いますが、

やっぱり、人間の本当の眼は、精巧で、優れものだったと、失ってから感じます。

人工レンズは、とてもよく見えます。曇りもなく、色も深く美しい、
けど、ピントが固定なので、視力検査では、1.0でも、携帯メールの文字がみえない(笑)。
近くと、遠くを見るためには、メガネが欠かせません。

それに、今は、術後で、
まだ、眼の周りの筋肉が、焦点を合わせようと勝手に動作するから、
慣れるまでは、もの凄く、あちこち張って疲れます。

レンズの歪みや、レンズのエッヂの光のちらつきも、慣れてないので、
動作が伴う、視覚は、まだ酔ってしまいます。

そのうち慣れるといいなと思います。

けど、その代わり、眼をつむって、身体と脳をやすませるので、
しらないうちに、マインドフルネスが出来そう!。これは利点(笑)。
あと、眼をつむった世界が、
意外と、深くて心に優しい世界が広がっていたことにも気づきました。

たぶん、眼をつむれる世界って、安心できる世界なんでしょうね。

--

みなさんには、どんな出来事があったでしょうか?
そこから、どんなことを感じたでしょうか?

そんなことを話したり、聴いたり出来る日が来るといいな、と思っております。

どうぞ、今を感じる機会がありますように。

 

庭のみかん、最近の生活報告

うちの庭に、今年は、みかんが なりました。

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昨年は、初めて実がなって、3つでしたが、
今年は、沢山、こんなに・・。
まだ、すっぱいです!!。もう少しまってみます!。

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ちょっと前ですが、空に龍のような雲が、
鱗雲が、頭の上を、東西に長く大きく伸びていて、
これは、東側を撮ったもの。(10/14)
鱗雲の先が、龍の顔に見えるのは、私だけでしょうか?

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イメージを補足しますと、こんな感じにみえました。

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とっても、スケールが大きく感じて、気持ちが良い雲でした。
いいことありそう!!。

私の方は、

11月から、縁ありまして、早稲田にあるゲーム系の専門学校で、
「デッサン」の講師をさせていただいたおります!

哲学と、美術、3DCGと、心理学の、知識と技術が詰まった、
特別な、個性的な、私にしか出来ない授業内容になってます!!。
他の先生方の学生さんへの思いやりが、あったかくて、
とっても、ステキな雰囲気を感じます。
デッサンは、教室や学校のスタイルに合わせて、
カリキュラムを考えて、授業に取り組みさせていただいています!!。
ご縁を下さいました皆様に感謝です。

同時に、11月と、12月は、心理ガウンセリング関係の試験が続き、

なんと・・ ようやく・・

アートセラピスト、
心理カウンセラー2級、
インナーチャイルドファシリテータ
認定資格試験に合格し、視覚取得、叶いました!!。
(正直、がんばりました!!。これまで受からなかったので・・)

応援してくださったみなさまに感謝です。
資格をとったらやろうと思っていたことも、沢山あります。
徐々に、実現して行きたいです。

そして、3DCGのお仕事もさせて頂いています。
やはり、私は、「ものを作ること」が好き、天職だと思うぐらい。
しかし、心や想いが、大事、だから、心理学も、CGも、
両方が、今の私には、必要、どちらも自分の大事な側面と、
この1年、自己洞察を深めながら、改めて、思った次第です。
そして、そのバランスは、おそらく、
他の人には理解しがたいかも方もいるかも知れないけれど、
私にとっては、唯一無二の、私の個性なのだと・・自己受容して。
それを、活かしていく方向が、自分を活かすことなのだと、思ったわけです。
CGのお仕事関係の皆様、お仕事に支えてられています、感謝です!。

そして、先週末、白内障の眼の手術をしまして、
年末また、片方手術予定です。
今は、片目ずつ、見え方が違う状態なので、
結構、眼を使うと、いろんなところ(筋肉や筋や脳や・・)が疲れてしまうので、
そのお話は後日にします。

そんなこんなの最近です。
結構、それなりに、スゴイペースで動いている感じ。

感覚的には、波にのって行く手を冒険しているかんじです!。
手術の合間に、少し体をお休みさせていただこうと思ったりしてます。

今日は、自分のことばかりになりました。
心理学のテーマは、また後日にします。

どうぞ、自分らしい12月を楽しんでください!。

ハロウィン。「心の栄養」ストローク

11月になってしまいました!。

実家(山梨)の父が作って、送ってくれてたバターナッツカボチャ
ハロウィン仕様です。

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バターナッツカボチャの頭の方をスライスして、炒めました。
子どものアイデア!。

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結構おいしそうで、実際においしかったです。
バターナッツカボチャは、あっさりしているので、炒め物にするとおいしいです。

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子どもの図書バック、ダイソーで買ってきたバックに
子どもがアクリル絵の具で、着色しました。

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なかなか、ステキなバックになりました。
裏は、「ひみつの本棚」、子どもとイラレでデザインした本棚の絵を、
アイロンプリントで貼り付けました。

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「ひみつ」が、子どもの中で、ブームらしいです。

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今日のお題は、「心の栄養、ストローク

 

この一年半、カウンセリング心理学を勉強しまして、
一番影響を受けた理論です。

 

ストローク」とは、交流分析(心理学理論)用語です。

「存在認知」の刺激と反応の一単位、という定義です。

「存在認知」とは、あなたがそこにいることを私は知っています、ということで、
肉体的は、水や空気や食物が必要不可欠なように、
精神的に必要不可欠な刺激、であり、
「心の栄養」という意味合いになります。

たとえば、あいさつもストロークだし、様々な表現も、ストロークです。

ストロークには、言語、非言語、身体的ストロークがあり、
さらに、それらは、肯定的、否定的なものがあります。

肯定的ストロークが十分でないときは、
否定的ストロークを受け入れてしまう
たとえ、否定的であっても、無いよりはまし、
飢えているときは、泥水でも飲むのと同じで原理のようです。
子どもが、注目を引くために悪さをするのも、この原理。
でも、否定的なストロークは、体に毒をため込んでしまうことになります。

職業がら、、人に会わず、PCワークばかりしていますと、
ストロークが不足します。
自分で、自分の存在認知をするためには、
オニのように時間を費やして、作品を完成させ、
自分で自分を讃えるしかないけど、その時は、遠いです。

やがて、心が栄養不足で、自分自身が揺らいでくる。
たぶん、そこが、私の感じていた、「メンタルが保てない」
要素だったんだなぁって、思えたり。

密度といいますか、
心の栄養度にも、法則があります。
これは、時間の構造化の理論ですが、
私たち人間は、ストロークを得るために、時間を構造化しているという理論です。

時間の使い方の種類は、
1)引きこもり、
2)儀式
3)社交
4)活動
5)ゲーム
6)親密

もう少し、解説すると、

1)「引きこもり」は、
 自分で自分にストロークを与える状態。たとえば、ほーっとしたり、睡眠したり、趣味をしたり、自己メンテナンス時間。
2)の、「儀式」は、形式的、習慣的な他者とのストローク
 挨拶や、朝礼?、ペットのえさやり?
3)「社交」は、
 形式的なストローク交換。儀式とは違い、場所やタイミングは固定されていない。
 表層の情報交換。様子伺い。未来への行動には結びつかない。
4)活動
 目標や任務などの、具体的成果を得るためのストローク交換の交流
5)ゲーム(交流分析用語のゲーム)
 繰り返し起こる、人間関係のトラブルパターン。
 ストロークの刺激は強いが毒素も強い。
6)親密
 心のふれ合いを目的としたストローク交換、交流。
 立場にとらわれることなく、対等に、本音で、気持ちや感情の話ができる交流。

それで、
6)が、一番、栄養価が高く、以下、5)4)3)2)の順、
1)が一番栄養価が低いとされます。

PC作業が全ての私が心の栄養不足に陥っていた構造が見えてきました。
PC作業は、活動ではあるけど、時間的には、作業なので交流のある4)活動というよりは、1)の引きこもり。
時間を費やす割に、得られる栄養素は薄い。

あとは、自己認知の質にも、いろいろありそうです。
他者の作品をつくっても、
自分の存在認知度を実感できないから、更に、時間の割に、栄養価が低いので、
私は、自分を出せる、作品を好む傾向があるのかもしれません。
同じ時間を費やすなら、自己認知度の高い、
栄養価の高い方を選んできたのかもしれません。

そう考えると、私自身
いろいろ割り切れたり、選ぶモノも変わって来た気がします。

そんな感じで、この1年半で、根底で影響を受けた理論が
交流分析の「ストロークの理論」でした。

もっと言えば、ストローク経済の仕組みがあります。

ストロークをコントロールして、
人の心をコントロールしようと、する人もいます。
「飴と鞭?」、肯定的ストロークと否定的ストロークの使い分け?
でも、これ、大抵、信用できない人を作ってしまいます。
否定的ストロークをため込むと、毒をためることにもなります。

ストロークは、貯金できるとのこと。貯めることができるのです。

しかも、与えても与えてもなくなることはありません。
本来、ケチる必要が無いものなんです。
なのに、ケチるのは、心に何からしら抱えているということになりますね。

エリック・バーン交流分析の提言者)が言うには、
1)他者に与えられるストロークは惜しみなく与えましょう
2)自分のほしいストロークは、素直に欲しいと伝えましょう。
3)欲しいストロークが来たら、喜んで受け取りましょう。
4)欲しくないストロークが来たら、拒否(NOといえる)できる自分になりましょう。
5)自分自身にもストロークを与えましょう。

でした。
みんながこうできたら、いいのにな。

少し前の私は、他人には与えるものの、
欲しいと言えず、受け取れず、NOも言えなかったかもしれません。
自分にストロークを与えることも、なかなか出来ませんでした。
これでは、心の栄養が不足するのは、
当然でした(苦笑)。
意図的ではないけれど、
クセ的に、ストロークの授受を制御していたことに気づきます。

最近、頑張っていることは、
極力、気持ちの話をしようと・・。
つまり、6)親密 な交流をこころがけようと。

結局、親密な交流をすると逃げていく人というのは、
人の心や状態に右往左往したり、
いろいろ深く影響されてしまうのが嫌だったり、と
自他の境界がはっきりしていのも、
ストロークをコントロールする人も、立場や、上下で、仮面を作るのも、
上下や、善し悪しの概念で、人を批判する人も、
価値を、人と比べることで定義する、共依存傾向の強い人なので、
そういう人は、心の話を嫌う傾向があります(笑)。

逆に、気持ちや本音を話しあえる人は、
自分の価値観がしっかりあって、他人の価値観と区別できて、
他者も自分も、それぞれだと認めあえる部分を持っている人なんです。

解りやすく言うと、
アイデンティティーの確立された人。
根底に自己肯定感を持っている人。

そんなこんなで、
心の栄養を、意識しているこの頃です。

交流分析」関連の本が参考になります。

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みなさま、どうぞ、心の栄養を、楽しんでください!。

 

ぶどうジャム。「怒り」について

10月になりましたね。
私の方は、夏は制作ができなかったせいか、
9月は映像制作が楽しくて、心が映像作りにはまってました。
10月になりまして、また心理カウンセラーのトレーニングも始まり、
心が、内観にシフト中です。
9月に、1年学んでいた、インナーチャイルドセラピーワークを終えまして、
「もう、自分に嘘はつかない!」って思いまして、
自分を感じながら、生きていますと、いろいろ発見があったり、偶然があったり、
ほんと、どきどきわくわくなんだけど、実感があって、
無理せず、自分を隠さず、大きく見せず(笑)、小さく見せず(笑)、
でも、まだ、小さくなる傾向を、ぬぐえなかったり、
そんな、よちよち歩きの毎日を送ってあります(笑)。

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少し、バタバタで、時差でてしまいましたが、
この夏も、うちの癒やしの庭、ぶどうが豊作でした。8/23頃のぶどう

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今年は、玄関アプローチまで、枝が満ちました。

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収穫してみましたら、バケツと洗面器3杯。8/23

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ジャムにします。皮を取って、中味だけ、一度煮て、種を取るために、こします。
一度煮ると、種とりやすいです。

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今年は、バタバタで家にある砂糖を使いました。きび糖。
コクがあり、白砂糖より、深みのある美味しいジャムになるので、
この砂糖を買い置きしてあります。

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そしたら、せっかくの、半透明なぶどうが、こんな色に!。

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今年のぶどうジャムは、こんな色に!。ま、味は美味しいんですけどね(笑)!。

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ちなみに、昨年のぶどうぢゃむは、こんな感じ、

 

kizuki-ya-k.hatenablog.com

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今日のお題は、「怒り」。

 

強い感情は、フタをすると、心のモヤモヤになって、
自分自身に雲をかけてしまいます。

その人が、気持ち良く、全身全霊で前進出来ない時は、
大抵、くすぶった感情が雲やキリとなってモヤモヤと邪魔をしています。

こういう状態は、「感情の浄化が必要な状態」と見立てます。

感情を浄化するには、その強烈な感情のために、時間をとって、
安全な場所で、じっくり感じて、
充分に自分のその時の感情を汲んであげる、
または、(カウンセラーなどに)汲んでもらうことによって、
その感情を持った自分を一人にしないで、追いやらないで、
そんな自分も含めた自分をいたわることが、感情の浄化に繋がります。
本当の癒やしは、
1)向き合う勇気と、
2)安全な感情の行き場所をつくること(カウンセリングなど)と、
3)充分な嘆き、
4)その後の新たな気づきにより、
5)気持ちの再生という行程をたどります。

しかし、大抵の場合は、向き合いたくない理由があって、封印しているわけで、
1)から、5)まで、どこの課程でも、「抵抗」が起こります。

さて、
「怒り」も、出しにくい感情、ため込みやすい感情の代表例です。

過去に、たとえば、「怒るのはカッコ悪い」とか、
「怒るな」とかと、重要人物に怒りの感情を禁止された、
禁止令(交流分析用語)を持っている場合もあります。

「怒り」は、もの凄いパワフルな感情です。
だから、やり場を間違うと、いろんな弊害を伴うことがあります。
だから、厄介と感じる。

私の場合もそうでした。
私の母が、怒りを「復讐的行動(自他に破滅的に投げ出して遮断すること)」に
変えやすいクセを持った人で、
それに翻弄された経験から、私の中で、「怒り」は人も自分も傷つけるという、
思い込みを持ってしまっていたからです。

他に、怒鳴ったり、暴言や暴力で、
怒りを「攻撃」に変えてしまうクセのある人もいますし、
怒りは、厄介と感じてしまいます。

単純に、自分が弱っていると、怒っている人を「恐い」と感じてしまう習性もあります。

だけど、人間だから、自分が軽視されたりと感じたりもすれば、怒りも沸きます。
その怒りを、適切に処置できないで、ため込んで蓄積してしまったり、
自分が悪いのだからと、怒りを自分に向けてしまうようになる人もいます。

抑うつは、実は、怒りを抑制して、自分に向けている状態のことです。
自分では、「怒り」を自覚できない状態かもしれません。


私が、うつを煩った時も、自分を責めて自分に怒りをぶつけて
自分を激しく嫌悪(批難)している状態だったと、
今だから、振り返ることができます。


抑うつから、脱する課程では、
自分に向かった怒りが、
方向を変えて表出する課程が必要になります。
自分の中の怒りの存在を、認める段階です。
その時、ためていた怒りがあふれ出ます。
だけど、当時の私には回復の知識もなく、
怒りを表出させることが、うまくできず、長い間、
自分を責めて、自分で自分のエネルギーをうち殺していた状況だけが続いていた
気がします。

正直、怒りの対処法を学んだ今でも、まだ上手く自分の「怒り」に対処できませんが、
怒ってもいいのだよ。ということは、自分に言っています。

だけど、怒り(感情)と、行動、思考は、別物だと思ってください。
怒りと、暴力的要素は、別物だと、ぐれぐれも理解する必要があります。

怒りの感情は、あっていい、人間だもの。
だからといって、
他者を攻撃したり、他者が健やかに生きる権利を奪ったりする行動に出るのは、
暴力(的)行為で卑劣になります。

なら、どうやって表出させるかというと、

1)とにかく、「怒っている」自分の気持ちに気づいて、
 怒りを認知してあげてください。「怒っているだね」って。
 自分の気持ちを無視しないで、あげてください。
2)次に、どうして「怒っているのか?」何について「怒ってるのか?」、
 些細なことでも、くだらないことでも、全部、箇条書きしてみてください。
3)そして、そんな怒りが生まれる環境や、関係を嘆いてください。時には、
 他者の悪口になるかもしれませんが、それも、経過課程の1つです。
4)とことん向き合って、考えて、嘆き尽くすと、
 怒りに隠れていた別の側面が見えてきたりします。
5)気づきがあれば、新しい視点で、新しい明日を構築することが、
 可能になっていきます。


私もカウンセリングを受けて、表出の課程をたどりましたが、
2)の場面で、怒っている自分の自己否定も根強くぶり返しましたし、
 こんな細かいことを考えるのはくだらない、と、表出への嫌悪もありました。

逆に、怒りの相手への、怒りが膨張してしまうのでないかという不安も出てきたり、
自分の怒りを、コントロールできなくなるのではないか、
という、気持ちも感じたりもしました。


これ、実は、全部、「抵抗」です。「抵抗という課程」です。
それだけ、自分を強く押さえ込んでいたので、道のりはそんなに簡単でなかったです。

でも、それの「抵抗」を感じて意識することによって、
「制御」を経験して覚えていく課程なんです。
制御できる安全な場所(心理カウンセラーと一緒になど)で行うことが、
助けになります。

 

でも、まだ、やっぱり、私の中で「怒り」の表出には、
まだまだかなりの抵抗があるのを感じます。

できるなら、人を責めたりしたくなし、
できるなら、平和でいたし。


しかし、そうすると、やっぱり、自分が負をため込んでしまうので、
生きるエネルギーを無くして行きます。

結局のところ、
「怒り」だって、存在していいし、
なかったことにはできない感情なのだということです。

そして、適度な「怒り」の気持ちを打ち明けることは、
まわりに、自分を解ってもらう切っ掛けにもなります。
(怒りを感じていることを、伝えることと、
 相手を、攻撃する言動や行為をすることは、別物です。
 区別してください。)

あと、「怒り」を適切に表現出来ない場合の事例として、
共依存関係に陥っている場合があります。
共依存関係とは、共依存の性質のために、世話をする側とされる側のペアで、
上下関係を構築した関係です。
上下関係のために、言えない、言ってはいけない、
言える立場にないという思考になり、
主張ができなくなる機能不全な関係です。

共依存症の症状として
「自己ケアの障害(自分の欲求を適切に伝えられない)」に陥ると、
その場合、押し込められた怒りが蓄積して、
やがて「恨み」という症状行動の元になってしまいます。

そういう意味でも、「怒り」は、適当な段階で、
適切に、向き合っておきたいと思います。

「怒り」の感情に向き合うと、
相手に伝えたくなることがあります。

心理カウンセリング養成講座の先生は、「怒り」を当該関係者に向けると、
受け入れてほしいという、欲求とは裏腹に、
もっと、傷つくことになる、と言ってました。

まぁ、怒りをぶつけて、解ってもらえるなら、
最初から、怒りを抱え込むことにはならなかったと思いますから、
そうかもしれません。

そういう場合に、有効なのが、
「怒り」を「欲求」に、変えて、伝えることです。

「怒り」とは、実は、第一感情でなかったりするという、くせ者です。

たとば、人が「怒り」を感じる時は、多くの場合、
欲求の障害が発生した場面なんです。

たとえば、○○したいけど、上手く行かないとか、邪魔が入ったとか。
あるいは、「言われたくないことを言われた」とか、
これも、自分で向き合いたくないこと、隠している行為の障害ですね。

評価的な言葉に怒るときは、大抵、軽視されたという感覚が伴います、
軽視されたいくないことを、軽視されるのも障害ですね。

「邪魔しないでください」とか、
「バカにしないでください」などの、欲求に変換することもスキルです。

だけど、いざ、相手に向かうと、、
結局、不満だけが連なって、欲求変換にいたらず、
相手の、防衛をあおって、相手の怒りを倍増させてしまう、ことがほとんどです。

私も、いつもそうなってしまいます
(反省、不器用ですみません)・・。

それでも、怒りが出せなかった頃よりは、関係や気持ちが、ましな気がします。

自分に嘘をつくよりは、関係も心も楽です。
(相手の共依存度合いにもありますが・・。)

 

つづき、


軽視されることの怒りについて、
コンプレックスがあることによって、
怒りを抱く場面は倍増します。

この場合は、怒りは第2感情で、根底には、劣等感という感情があります。
その劣等感を作っているのは、
軽視されるさみしさやむなしさという感情だったりします。

「怒り」とは、ちょっと複雑というか、実は仮面的で、
防衛的な要素もある感情なのですね。

真の要素がコンプレックスならば、
比較してしまう外部準拠的な思考から、
自己の価値観(アイデンティティーの確立)に成長することが、
「怒り」を減らす要素になったりします。

こう考えると、怒りっぽい人というのは、
感情と逆に、コンプレックス(劣等感)の固まりだったりしますね。

そう考えると、いつも怒っていて、恐い印象の人の、心の中が、察せますと、
恐怖も半減しますね(笑)。

私は、身内に「怒りん坊」な人がいて、いつも怒っていて、
何でも怒ります。暑いとか、駅に人が多いとか、そんなことまで。

いつも、怒られているうちに、
「私が悪い」という否定的自動思考になってしまっていたのですが、

こうして、後から、いろいろ学んでから考えると、
他人が怒っている原因が、自分のせいと、思うのは良くないなと、思いました。

他人の機嫌は、他人のものなので、案外自分とは、関係ないことがあります。

むしろ、自分が原因と思ってしまうと、
「怒り」の感情が、出せなくなるので、
「あぁ、機嫌がわるいんだなぁ」と距離をとって
察してみることも必要だと、最近わかって来た次第です。

正直、「虫の居所が悪い」なんて言葉もありますし、
ホルモンバランスや、体の状態、心の状態も、影響しますから、
全部が、他者のせいな訳もなく、「怒る」時もあるわけです。

なにより、怒る経験も、怒る権利も、怒る自由も、
感情や情緒の成長に必要不可欠な部分でもあるわけです。

それは、自分にも必要だし、他人にも必要なのだから、
全ての「怒り」を嫌悪しては、情緒や感情の行き止まり、
つまり、生きる原動力が生じない状態が発生してしまいます。

つまり、ここでも、
良い悪いでなくて、バランスということになります。

バランスの取れるところで、
ほどよく表出するスキルも、必要を感じます。

私は、まだまだです(笑)、
劣等感もありますし、
体や、ホルモンバランスや、寝不足など、他の要因も沢山ありますし、
まだまだ、「怒り」に右往左往してしまいます・・未熟者ですみません・・。

どうぞ、お互いの成長のために、遠目でみてください(笑)。
お互い様でお願いします!。

長くなりました。

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最近、東京多摩地方、曇りがおおくて、日照不足でした。
今日は、晴れ、心もたまには、天日干ししようかなぁ・・・(笑)。

では、また。

 

「上下関係」の悩み、謎の足跡

最近、雨多いですね。

夏に2Fのベランダの手すりに、発見した、謎の足跡

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2Fですよ、どうやら、雨樋の橋と伝って上ってきたようです。

2Fに食料はありません・・何のために? 何者?

猫? 猫は雨樋を上るのでしょうか?
狸? この辺りでは観たことないです。

謎です!。

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うちの庭には、カマキリが住んでいますが、

カマキリの足跡ではなさそうです。

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今日のお題は 「上下の関係」

 

身近に上下関係は、ありますか?

物事を「上下」「優劣」で、捉えるクセはありますか?

たとえば、親と子、先生と生徒、社長と社員、部長と部下、姑と嫁、
いろいろな関係があります。

これらは、確かに、責任の重みに、違いがあります。
他にも、違いはあります、が、どちらが偉い、とか、どちらが、ダメというものではありません。

子がいるから、親になれるわけで、
考えようによっては親になるチャンスを子に貰っている訳です。
先生と生徒、社長と社員も、部長と部下も、嫁姑も同じ。

違いはありますが、生きる権利や、情緒を持つ権利、考える権利、表現する権利、
それは、人間みな平等です。

平等な関係が、人間関係の中で、不自由な状態だと、
情緒や思考や行動が、成熟する機会を失ってしまい、
内面が発達不全になってしまい、大人になってからも、
内面の発達不全なところを、他人に依存してしまって、
自律できない、生きづらさを抱えた大人になってしまいます。

だから、むしろ、
上の立場の人間は、
生きる環境、情緒を感じる環境、考える環境、表現する環境を、用意してあげる、
それが、自律した人間を育むことになります。

上のものが、より弱きもの、未熟なモノのお世話をするときは、
それらの自律的な成長の妨げになるらぬよう、
お世話しすぎず、自律できる力を育むために、
おおらかでありながら、客観的な視点で、
お世話(面倒をみる)の境界を、見極めることが、
導き手としての、ファシリテータ力につながります。

しかし、
上下の関係を、優劣にとらえるタイプの方もいます。
上が、下を、奴隷のように扱ったり、モノのように、消費物のように扱う場合,
いわゆる、弱肉強食思考ですね。
あるいは、お世話を仕切って、この自由がなく、
結果的に支配するタイプの場合もあります。

ここでは、
平等な上下関係と、
不平等な上下関係、と区別して言いましょう。

違いは何か、というと、
個人が尊重されているか、とうところです。

「平等な上下関係」では、個人が尊重されていることになります。
人間は、自ら自信をもって調整する力を養って、成長します。

しかし、尊重されなければ、感情が負に傾いて、
相手か自分かどちらを破壊するようになると、
(多くの事例を観て)私は捉えています。

なぜなら、人は、自分の能力を発揮したいという、実現傾向をもっているという、
(カール・ロジャーズの)理論があります。
それをベースに考えれば、
個人を、尊重される中では、より調整の取れた機能を身につける方向に働くけれど、
個人を、尊重されない中では、まず、発揮するための障害になっているものを、
壊すという段階を、必要とするからだと、私は考えます。

(人が実現傾向を持っているというのは、

新しいものが成り立つ前には、クライシスという段階が、
多かれ少なかれありますから。

では、「不平等な上下関係」とは、なんでしょうか?

1つめは、
上位者の劣等感が背景になります。
本当に、心身、能力、情緒、ともに、優れているなら、
下を卑下する必要がありません。
彼らが劣(下)を必要とするのは、自分が優(上)だと確認したいためです。
極めて個人的な外部準拠の満足のために、関係を利用しているだけ。

2つめには、
上位者が、アダルトチルドレンの要素を持っている場合が考えられます。
アダルトチルドレンとは、「養育者の間にトラウマを抱えた成人」という定義ですが、
アダルトチルドレンが持っている、思いグセの傾向に原因があると考えます。
つまり、人格形成期の養育環境の影響で、いくつかの、
機能に苦手感を抱えている、その苦手感(思いグセ)が、原因だと私は考えています。

具体的には、
1)自分の思っていることを伝えられない
 (言ってはいけないと思っている、おべっかや嘘を言ってしまう)
2)相手の思っていることを聴けない
 (きっとこうだろうと、勝手に解釈してしまい、
  相手の訴えを自分の概念に当てはめて歪んで捉える傾向、
  または批判されている気分になりすぐ感情的になる、
  または、かわいそうと感情移入して余計なお世話をしてしまう)
3)両者の話を客観的に並列して、調整できない。
 (優劣や、上下にすり変えて、調整しようとしない、
  喰うか食われるか思考。一方的)

単純に、自分の気持ちを伝えて、相手の話も聴いて、
利害のあうところを吟味して調整するば良いだけですが、
1)、2)、3)ができない、クセを持っていると、
トラブルが起こりがち、起こしがちになります。
そらが、生きづらさの原因になってしまいます。

だけど、大人になってから、そのクセや習性を直すのは、
とっても時間がかかるし、
ある程度の知識や、客観的な視点も必要になります。

私自身、母親が、親に意見すると、激怒したりする人でしたらから、
あまり、自分の意見を冷静に言える環境もなく、
1)が育つ環境はあまり良くなかったです。
そして、母は、人の話を客観的に聴くことができず、
下の立場が意見することに常に激怒していましたら、
私は話を聴いてもらえる環境が不十分だったので、
人の話を聴くという見本もなく、
2)を習知する環境が不十分だったと思います。

なので、大人になってから、心理学を学んだりして、色んな場面で
1)、2)、3)が大事という結論に至り、今、心がけているという段階です。

単純に、私もアダルトチルドレンの一人ということです(笑)。
だから、誰かを、批判や、批難するるために、
このブログを書いているわけではありません。

私自身の、内観を深めるために、整理しているという要素が一番大きいです。
あとは、自分の思っていることを、伝える、
つまり、1)の段階の訓練でもあります。

4年ほど前に、ある出来事があってから、
この、ブログの初期冒頭にも少し書いてありますが、
完全に心閉ざしていまい、自分を、自分の思っていることも、言うどころか、
心さえ、押し殺して、自分自身も消えそうだった、そんな経過があり、
やっとこんな感じ、という経過があります。
すみません。


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最近、いろいろあって、
ま、その、痛い方に働く思いグセをぬぐって、
自分の本当の気持ちを見つめていこうと、
模索してましたら、
また、いろんな気持ちにぶつかりまして、

だから、少し、内観して、自分自身を整理したいと思いまして、
今日は、時間を自分の整理のために使って、書いてみようと思いました。
こういう時間、大事なんですよね、本当は。

でも、やることが沢山合って、
自分のために時間を使うことに罪悪感がって
でも、この「罪悪感」は、実は、痛い方に働く思いグセなんです。
だから、ぬぐう必要があります。

自分が、自分らしくあるために、
「罪悪感」は要らない。のです。

誰かに迷惑がかかりそうなら、
ありのままを1)伝えて、2)相手のご意見も伺った上で、
3)調整すれば良いです。

もし、その1)、2)3)が出来ない関係ならば、
それは、不平等な上下関係が作られていて、
それは、悲しいですが、建設的な関係でないと、気づく必要があります。

最近自分の心に耳を傾けると、
予想外の感情を発見したりしました。
へぇ、って。

事実を認知するって、簡単なようでいて、
結構、痛みを伴うことがあるから、抵抗や防衛が出てしまいますね。

自分の読みが間違っていたりすることを認めることであったり、
自分に思い込みがあることを認めることであったり、
自分の痛いところを、知ることになったりしますから。

だから、メンテナンスする時間が必要になりますね。
心が痛いときは。

--

みなさま、どうぞ、時々、ご自分の心の声を聴いてやってください。
聴くだけでいいんです。
聴いてあげるだけの方が、いいんですよ。

知っている、だけで、良いんですよ。
人は、認知されることが、心の栄養ですから。

余計なお世話が先にあると、逆に話せなくなっちゃうんで。

どうぞ、心と会話をして、心を認知してあげて、心に栄養をあげてください。

江ノ島の 龍

龍特集です。
龍のいるところ、パワーのあるところ、と言われていますが、
江ノ島も、パワースポットで有名なところ。
行くことが出来ましたので、江ノ島の龍を、感じて来ました。

島につづく、橋の入り口の大きな灯籠、早速、龍が守ってました。

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『江島縁起』、という江ノ島が出来たときの、
五頭龍と天女(弁天様)の伝説があります。

龍は、古いモノを壊して新しいモノを想像する時に現れる、
なんて、説がありますが、だから、龍は、
破壊する荒さと、創造するパワーの両方を持ち合わせていて、
荒々しさと守る強さの両方が内在する存在ですが、
江ノ島の五頭龍も、その内容と同じに思えます。

やはり、新しいモノを作るときは、
壊さなければならない課程があるのかもしれません(←心理的な投影)。

「銭洗い白龍王」の近くの手水舎の龍↓。

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そして、「銭洗い白龍王」↓。

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弁財天の使い、白龍王です。霊水の池を守っています。
かつては岩屋に奉られていたらしいです。

お金洗ってきました。
浄化・清めなのでが、つい御利益を期待してしまいます・・(スミマセン)。

どうか、清めたお金を用いたら、行きたいところへ繋がりますように・・祈り。

本来は、こんなことになるようです↓。

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中津宮、鮮やかで美しい拝殿の頭上に、右からの龍。
美しい龍です。

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中津宮、横の、水琴窟のところにある龍↓。願い玉しっかり持っていますね。
力強さを感じました。

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水琴窟の音って、本当に、心落ち着かせてないとなかなか聞こえてこないような、
かすかな澄んだ音ですが、こちらの水琴窟の音は、聞こえやすいです。
そして、こんな↓ご神効があるそうです。まさにパワースポットそのもの!。

たしかに、一人で、ゆっくり聴いたら、心が洗われそうです。

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昨日は、休日で結構人が多かったです。

そして、トイレの手を洗うところが、なんと龍!!。↓
ここでも浄化されちゃうんですね!。すごい。

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竜宮大神の横の灯籠も、龍。
しっかり、一周巻き付いての造形です。その上にも、龍の彫り物。
そして、窓はミツウロコ

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竜宮大神の横の樹。龍にみえるのは、私だけでしょうか?。

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そして、竜宮大神、龍の像。迫力あります。↓

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そして、いたるところに、ミツウロコのご紋。
ミツウロコ紋は、龍の3枚のウロコからなっています。

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岩屋の中の、天女と五頭龍の絵。↓ 

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五頭龍は龍口明神社として、鎌倉市に祀られているとのことです。

そして、第二岩屋の奥の龍神さま。
しっかりと願い玉を握って示しておられます。

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願い珠は、何でも願いを叶えることができる珠なんだそうです。

こちらの龍神様の前で、手を2回拍手し、2回とも光が出ると、
願いかかなうとか。

私は、2拍中、1拍、光りました。
1拍のときは、いずれ叶うだったような・・
努力すれば叶うだったかもしれません。

江ノ島、たくさんの魅力的で個性豊かな龍がおられました。

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最近、自分の気持ちのための時間をなかなか取ることができずに、
生活をこなしていたところで、
実は、ちょっと、休みたかったのだなぁと、気が付きました。
自分の心を見つめる時間は、自分の心を整理する時間だったりするから、
メンテナンス機能のための時間でもあり、必要枠なんですよね、本当は。

私は、ついつい、自分の気持ちを後回しにしてしまうので、
気が付いたら、バランス壊れてることあります(笑)。
そんな時は、心が鈍く硬くなってる。
硬くなるほど、折れやすくなりますから、
時々メンテナンスしてやらねば(笑)。

みなさまも、どうぞご自分の心のメンテナンス時間を持ってください!。

否定的自動思考。庭の癒やしスイカ。

あっという間に、9月になりました。
私の方は、作業部屋を引っ越したり、子どもの夏期休暇などもあり、
バタバタで、weblog、間、空いてしまいました(笑)。

うちの癒やしの庭で、スイカ育ちました!。7/29頃の写真、そろそろ食べ頃。

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手のひらサイズの可愛いスイカでしたが、味は、甘くておいしかったです!!!。
8/2頃、食べたときの写真。

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これは、台風一過の過ぎた夕暮れの空、8/22、18:32
一見くらいのですが、いつになくオレンジがとっても鮮やかで、美しく見えました。

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以前書きましたが、綺麗な空は、1日頑張った人へのご褒美なんて・・
あぁ、最近、空みれていませんでした・・。
ということは、ご褒美を受け取らずにいるのと同じでしたね・・

 

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さて、今日のお題は、「否定的自動思考」。

最近受けた、心理学カウンセラーの実践講座で出てきた言葉(言語)で、
なんか、妙に、納得したといいますか、
心に入ってきた、探し求めていた答えのような感覚のある言葉でしたので、
書いてみます。

意味は、否定的な思考を、吟味なく、自動的に自分に対して思ってしまう思考、
いわゆる、「否定的な想いグセ」のことでです。

たとえば、

「自分は、ダメな子」
「自分はどんくさい」
「自分はバカだ!」
「自分には、力がない・・出来ない」などなど、いろいろあると思います。

私にもあります。

「自分は嫌われている」とか・・「自分は変わっている」とか、

 

この、何の吟味のなく、自動的に否定的に評価してしまう思考は、
一見深そうですが、実は、浅い思考なんです・・って。

くり返し吟味を重ねてきたものと比べると、浅い幼稚な思考と言うことになります。

この、、「否定的自動思考」、つまり、「悪い想いグセ」が、
ウツや、諸々の心身的な、苦痛を作り出しているもののベースだと
知ったので、なるほど、といいいますか、
自分が、知りたかった、ウツからの回復の方法の具体的な道が、
見えた気がして、私の中の、最近のヒットワードになっています。

私自身も12年ほど前に、2年ほどウツを煩いまして、
その後、病院のお世話になってはいませんが、なんとなく、
心から、楽しさを感じられない日々を長く過ごして来まして、
真にウツから脱する、良い方法が解らずに、なんとなく今に至っていたので、
なんか、「否定的自動思考」を変える行動療法の話をきいて、
まだ続いているうす暗い心に光が見えた気がしました。

 

「否定的自動思考」とは、「悪い想いグセ」で、
「認知の歪み」な、訳ですが、
なぜ、「否定的自動思考」を持ってしまったかというと、大抵の場合、

子供の頃、思考が発達する前から、誰かに言われた言葉を
そのまま受け取ってしまって自己の中で習性化したり、

共依存関係(上下のある関係)で、
関係上の症状で、否定的コントロールとして、そういった言葉をくり返し
言われていたなどが原因です。

交流分析という心理学でいうところの、人生脚本だったり、

アダルトチルドレンで理論で言うところの、思考や吟味段階以前に身につけた
悪い意味での、役割的概念だったり、

その辺りの理論と、大枠で同じです。

親や他人が自分に言った否定的な言葉は、本当に絶対ですか?

 

逆に、「肯定的自動思考」を持っている場合もあると思いますが、
肯定的で前向きな自動思考の場合は、自分を否定せず、嫌悪せず、
逆に、力付けてつれるものであれば、心身的な苦痛な症状の原因にならないので、
問題ない、変える必要はないこととなりますね。

さて、

深く考えもしないで、否定的な思い、みなさんは、持っていますか?
いくつ気がつきますか?

もし、一つでも、思いあたったら、
まず、吟味してみることも、手です。
本当に、そうなのか?その裏付けは、どこにあるのか?。

 

私の、現在の否定的自動思考、で思い当たる
「自分は嫌われている」と・・「自分は変わっている」は、

思い返すと、数年前に、ママ友に言われた、
「あなたは、嫌われている」「あなたは変わっている、理解出来ない」という、
言葉そのままでした。
(ベースは、似たような内容の母からの否定的ストロークがあるのも確かです。)

ショックでした。
そのまま、私の心に入り込んで、ここ数年ママ友と話すことが出来なくなりました。

言葉の影響力ってスゴイですね。

その時は、どの辺がそう思うのか?聴いたり、冷静に受け答えしてましたし、
その方が、どても感情的になっていたのも解っていたし、
自分は冷静であろうと努めて、いましたし・・
でも、その言葉がショックで、自分の中で反復されて、
どうやら自動化していたみたいです。
自分、弱っていたと感じます。

今から思えば、たった一人の癇癪的な言葉に、
そこまで影響を受ける必要はないのに・・、
人の輪に入れなくなって、何を苦しんできたのだろうと・・。

こう思うと、自分が、心が弱いと、相手のせいにしてしまったり、
相手を悪者にしてしまう要素もありますね。

自分は、自分。
他人の影響はほどほどに(笑)。
それが、実は、他人のためにもなります。

 

では、せっかくなので、私の否定的自動思考を変えていきましょう。

「私は、あの人に嫌われているかもしれんませんが、それが何か?
そこには経緯と理由があります。私は冷静でした。それが嫌だったのかな?」

「私は、確かにあの人の癇癪や怒鳴りなどの否定的コントロール的行動に、乗らずに、勤めました。共依存的思考からすると、脅しに屈しない私は確かに変わっているように思えるでしょうし、理解出来ないでしょうね」

はい、ちょっと、吟味しなおしてみました。
第一歩です。

アドラー心理学で、よく言いますが、「嫌われる勇気」といいますか、
自分のアイデンティティーを確立することは、
自分で吟味して、その結論に責任を持つという重みの積み重ね・・なのでしょう。

アドラー心理学、最近本を読んでいるのですが、
私にあってるみたいで、心が前向きなれます。

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今日もちょっと、入り込んで、長くなりました。

どうぞ、自分らしい9月をお過ごしください!。