ココロド_黄月家K's weblog

考えすぎ? ココロド_心理カウンセラー_黄月家Kの 思考いろいろ、心理分析、ものづくり、時々庭、時々日記です。

人生の構え「I am OK, You are OK.」TA理論

もう5月。

月に1度は、weblogを書こうと思っていましたが、
今月は、いろいろ重なって時間のやりくりが大変で、
久々に、脳みそが、茶ガラ状態のような感じを久々に感じました。
以前よりは、睡眠など、自分の生態機能を確保できるようにはなりましたので、
休めば、回復できる感じではあります。
ある程度、自己調整機能が使えていると思うと、
自分の変化もまぁまぁだと思えます。

今回は、余裕がなく、初の写真はなしパターンになりそうです。

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前回「自分ファースト」は、自律のためという内容のweblogを書きましたが、
「ファースト」は、目的が自律にあるから、成立するのであって、
他罰傾向のある場合の「ファースト」は、困ったなぁと
最近の情勢を観て、追記で感じおります。

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今日のお題は、
「I am OK, You are OK.」

 「交流分析」という心理学の、「人生態度、人生の構え」という理論です。
「人生の構え」とは、自分が他者にどのような結論を下しているか、
という思考パターンで、4つのパターンがあります。、
それは、人生に対する基本的な態度であり、人生の立場でもあり、
人は、その自分の「基本的な構え(態度)」を、
生涯にわたって、立証(確かめ)しようとする(立証を繰り返す)、
という理論です。

 

人生態度のパターンは、以下の4つです。

1)「I am OK, You are OK.」
2)「I am not OK, You are OK.」
3)「I am OK, You are not OK.」
4)「I am not OK, You are not OK.」

「OKである」と、
愛されている、価値がある、優れている、賢い、楽しい、役立つ、
成功する、(肯定的)・・etc

「OKでない」と
愛されていない、価値がない、能力がない、劣る、バカ、
安心できない、間違っている、(否定的)・・etc

などの感覚が、自分や他者に対して、あります。

それぞれ、
1)「I am OK, You are OK.」は、協調、共存
2)「I am not OK, You are OK.」は、回避、孤独
3)「I am OK, You are not OK.」は、独善、排他、
4)「I am not OK, You are not OK.」は、拒絶、自閉
という自他の関係の傾向を持ちます。

「人生態度、人生の構え」は、おおよそ7才ぐらいに、
決断すると考えられています。
つまり、自分の思考力で吟味した結果として成立するものでなく、
思考力が発揮される前の人間環境による影響が大きい、
時期の、成立と考えられています。


1)の、「I am OK, You are OK.」の構えの場合は、
自分を受容され、他者との違いに許容ある環境で育まれた傾向があるようです。

2)の、「I am not OK, You are OK.」の構えは、
後悔や、心配、謙そんすると、親か自分を認めてくれると思えた場合が
ベースにある傾向があるようです。

3)の「I am OK, You are not OK.」の構えは、
イライラや、他者を攻撃、かんしゃくを起こすと、
親が自分の存在を認めてくれた体験がベースになる傾向があるようです。

4)の、「I am not OK, You are not OK.」の構えは、
見捨てられ感や人間尊重の扱いを感じなかった環境や体験が
ベースになる傾向があるようです。

「構え」や「態度」に「気づいて」、
自らの在り方を変えていくことも、可能です。
その場合は、おおむね、4)3)2)1)の順で変わって行く傾向があるようです。


「I am OK, You are OK.」の構えは、お互いに尊重し合うことが出来るので、
人間関係が楽になり、生きづらさを解消できます。
それ以外は、何らかの否定を常に抱えているために、
なんらかの生きづらさを持つ傾向がうかがえます。

交流分析(TA)理論の、構造分析(自我状態)からすると、
CP(Critical Parent きびしさ)の高さは、You are not OKの構えと関係が深く、
NP(Nurturing Parent 優しさ)の高さは、You are OKの構えとの関係が深く、
FC(Free Child 率直さ)の高さは、I am OK の構えとの関係が深く、
AC(Adapted Child 順応)の高さは、I am not OK の構えとの関係が深いようです。

交流分析心理学を詳しく知りたい方のために、
参考的なwebページをいくつかピックアックしておきます。

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はじめての交流分析・エゴグラムを詳しく解説

交流分析 - Wikipedia

交流分析とは?エゴグラムから人生脚本まで分かりやすく解説 | カウンセラーWEB:心理学・カウンセリングの基礎知識

TA交流分析


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私の場合は、
結構、変化している感じがします。

5年ほど前、いろいろイヤな思いが沢山重なってしまったときからしばらくは、
4)「I am not OK, You are not OK.」で、自閉傾向にあったと思いますし、
カウンセリング心理学や、交流分析を学んだ今は、
FC(Free Child 率直さ)とAC(Adapted Child 順応)の高さが入れ替わって、
3)の「I am OK, You are not OK.」に変化していると感じます。
あとは、NP(Nurturing Parent 優しさ)が今よりもちょっとわずかに高くなれば、
「You are OK.」に反転する状況です。


元々は、どんな構えだったかと振り返ると、
私の母親は、私に謙そんや服従を求めましたので、
傾向的は、「I am not OK, You are not OK.」が内在するリスクは高いと考えますが、
実際の環境は、親の仕事の関係で、ほぼ放任状態でもあったので、
FC(Free Child 率直さ)も高く、
生徒会や部長など、まとめ役なども頻繁にしていたので、
NP(Nurturing Parent 優しさ)も高かった傾向もあり、
結婚前は、友達も人付き合いも多かった経緯から、
「I am not OK, You are not OK.」になったのは、
友達も人付き合いが変化した頃、と、自己解釈出来ます。

一般的に、
I am not OK が、I am OK に、変化する過程で、
これまで出来なかった自己主張をする際に、
You are not OK、つまり、他者否定の行程を通過する過程が必要になります。
ので、経過点としての、You are not OK、も存在するので、
You are not OK、だって、大事な時期があります。

ただ、それが、固定してしまうと、
やっぱり、生きづらさが伴う事実は否めません。

いじめや他者批判などは、You are not OK の構えの典型のように思えます。
そう考えると、些細なことが敵視される、最近の息のつまりそうな、日本社会は、
You are not OK の構えの人が多いなぁ、
という印象も受けます。
という指摘すら、私のYou are not OK の構えから来る感覚なのかもしれませんが・・。

You are not OK、の根底は、
CP(Critical Parent きびしさ)の高さがあるために、
CPの傾向として、きびしさや、厳格さ、規律的、と同時に、
批判・批評強く、支配的な要素も強くあるため、
常に、怒りを抱える傾向も、あります。

常に怒りを抱えている状態は、心理的にも、脳科学的にも、生態的にも、
負荷のある性格傾向で、
人間関係(交流)的にも、ストレスが高い状態と言えます。

なんとか、自他を尊重できれば、楽になるのになぁ・・と
自他共に、思う今日この頃です。


優しさの不足、感じているのは私だけでしょうか?
優しくされたいし、優しくしたい、そう思うのは、私だけでしょうか?

 

ちょっと、お疲れでそんな風に思ってしまうのかなぁ?・・私。

あぁ、優しくされたいですね・・
みなさんは、いかがですか?。

インナーチャイルドファシリテータ的には、
自分自身を優しくいたわってあげて下さい・・
という、くくりになるところですが・・。

 

「自分ファースト」の真意。アスファルト土筆。

あっという間に、3月も終わり、もう春ですねぇ。

硬いアスファルトを、割って出てきたつくし、
なんか、すごいなぁ・・って、思います。

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家の中の胡蝶蘭も、咲き始めました。

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私の方は、状況は悪くないはずなのですが、
心がバタバタで、あせりを感じたり、
そういう時は、いろいろ空回りしたり(苦笑)。
落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせたこの頃の、最近でした。
もっと、春を感じる余裕をつくれば、いいのでしょうけど・・
自分のことは・・なんとやら・・ですね(笑)。

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4月から、心理カウンセリング分野を広げていこうと思いまして、
このweblogでも、タイトルや解説に、心理カウンセラーを追記しました。

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今日のお題は、「自分ファースト」

 

最近、政治などでは、小池東京都知事の「都民ファースト」とか、
トランプ米国大統領の「アメリカ・ファースト」なんて言葉がよく聴かれます。
そのファーストという考え方、カウンセリング心理学的に読み砕いてみます。


「人のコトで悩むのではなく、自分はどうすかを考える。」


これが、カウンセリング心理学的に考える、
「自分ファースト」の中味です。

この言葉に、不安や抵抗を持つ方は、
他人より、自分のことを優先させるとなると、
自己中心的で、ワガママで、無秩序な状態になってしまうような気持ち、
なりますか?


「人のコトで悩むのではなく、自分はどうすかを考える。」

という言葉の真意は、自分のアイデンティティーを確立する。
つまり、「自律」という意図があります。

「自律」は、自己中やワガママや無秩序とは正反対の
「良く吟味する」、「客観的に考えること」が必要になり、
そして、選択や行動の「責任」を自分で負うことなので、
決して、子ども返りを意味することではありません。

 

「人のコトで悩む」ことは、他人の分野のことをあれこれ考えて操作を試みる状態、
つまり、外部準拠の共依存傾向が根底にあります。
あとえば、アドラー心理学で言うところの、
他者のことは、基本的には「他者の課題」で、他者が決めること。
というわけです。

「人のことで悩む」方の大多数は、
自分のことを決める判断基準が、自分の外にあるために、
「人のことで悩み」、外部に自分をあわせて、
失敗すると、自分の選択の責任を、
他者に押しつける、という、
外部準拠の共依存傾向のパターンが、隠れています。

 

だから、
他人がどうであれ、他人に対しても、
理解しつつ、どう対応するか、
自分の考え方を吟味して、「自分がどうするかを考えて」、
自分の考えと行動に責任を持つ、ことが大事ということです。

つまり、責任が自分にあるのだから、
状況を理解しながら、
よく考えて、慎重に行動するという、
自律した行動ができるようになります。


東京都も、アメリカも、自分も、
他者をコントロールせずに、
他者を理解しながらも、
自分のことを考えていける、自律を、
実現できたらいいなぁと思います。


「過去と他人は変えられない」という交流分析の言葉があります。


他人を変えようとしないで、
自分の人生をどう生きていくのかを考えると、
「自分の生き方」が見えてきます。

自分の行動や考えに責任をもつことがその一歩です。
つまり、これが、「自分ファースト」。

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他人の不快に自分が被害を受けていると思うときは、
不快な気持ちと理由と要望を適切に伝えて、
自分の自分に対する責任を果たしましょう。
伝えたあと問題を解決しないのは誰なのか責任がはっきりします。

「して欲しい」、「してくれない」気持ちは「お願いします」、
心が勇気づけられたときは「ありがとう」、
違っていることに気づいたら「ごめんなさい」、
の気持ちを伝えて、自分と他人の関係を区切ると、
ずっと続く気持ちにもキリがつけられます。

私は私、他人は他人だと解ってくると、伝える必要性も感じます。

 人のために生きるのでなはく、自分を生きながら他者につながる領域が大事です。

 「不快な関係」には距離を置く、必要性も感じます。

「不快な」状態の中にいると、
どんどん「嫌な自分」になって行きます。
怒りや嫉妬や劣等感や恨みやねたみや束縛感、嫌な感情、
嫌な気持ちにきづいたら、
関係から距離をおけるような自分になることが大事です。

 距離をつくれない「さみしい自分」に気づいたら、
気づいた勇気ある自分は「ステキ」です。とってもステキです!。
優しくしたり、褒めたりしてあげたいです。

自分に気づける人はステキですばらしいです。

そして「さみしい自分」に向き合ってあげて下さい。
実はそのさみしさは、
過去の「本当の自分」の気持ちを、
気づいてもらえなかった寂しさだとわかるかもしれません。

「さみしい」と言えずに「なんでもないや」と言った、
「愛して」といえずに「嫌い」といった、
本当の自分に嘘をついて、本当の自分を置き去りにした、
置き去りにされた「本当の自分」の寂しさだと解るかもしれません。

「本当の自分」をひとりにぼっちにしているのは、
自分自身だと。

今できることは、本当の自分の「さみしさ」に気づいてあげたことで、
本当の自分に「さみしいんだね」と声をかけてあげることで、
本当の自分の心に寄り添ってあげることができることに、
繋がる気づきなのですから。

自分を知ることが、自律の第一歩(ファースト)で、あったりします。

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明日からは、新年度ですね。
どうぞ、季節や、自分を、感じる時間を大事に!。

 

 

 

「認知の歪み」と、うつ傾向に。春の気配

2月になりました。家の庭でも、ちらほら春の気配です。
スノードロップ、寒いのに、凛として可愛い。

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クリスマスローズ、地植え、まだつぼみです、楽しみ。

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クロッカス、今日、咲いてました。今年初咲き。

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今日のお題は「認知の歪み」


これは、心理カウンセリングの療法の
認知行動療法(米/Aaron T Beck博士がうつ傾向に対して開発した療法)の
理論の中で出てくる用語です。

なんか最近、私の心の中で、ヒットしてます。


どういう風にヒットしたかと言いますと、

ちょっと前まで、私の中で、心の絶望感が
陰ではあるけれど、ずっと心の奥深くに煙っていた感じがあったのですが、、
それの原因が、解ったという感覚と、
原因がわかったことによって、改善でき、
また、それを発展させることで、希望的な未来を描くことも出来る
と、思える見通しを得た気がしたからでした。

認知行動療法とは、認知、つまり、思考的な部分にアプローチする療法で、
いくつかの質問を通して、自分の考えや考え方を改めて意識することで、
否定的に考えてしまうクセ(認知の歪み)に、気づいてもらい、
思いグセに、生きづらさがあるのなら、
事実を客観的に吟味し、熟考することで、
思いグセ =「認知の歪み」を修正していくという仕組みです。

私ふうの解釈を入れて、説明しますと、

「認知の歪み」とは、否定的に考える思いグセで、
理論的には6種ほどありますが、

たとえば、
メリット・デメリットの両方を吟味せず、
何でも悪い方悪い方へと考えてしまう傾向や、
「自分は呪われている」など、
根拠のない迷信や運命づけ的な考えで判断したり、
「全ての人間が○○だ」と、一部の人間が、全てに思えてしまったり、

これ、私にも経験があります。
ママ友のコミュニティーで、、
「あなたは、みんなに悪く言われている。
私はあなたのために忠告している、あなたを変えなさい。」
と、言われたことがあり、
これ、そもそも、批評して、あからさまに他者をコントロールする
外部準拠(共依存傾向)の方の独特の言い回しですし、
自分が「悪く思って」いるのではなく、
「みんなが」と、他者に軸をおく言い回しも、
心ない説得力のかける外部準拠(共依存傾向)の方の独特の言い回しで、

私は、それに気づいていて、
「本当に私のことを思っていてくれているかは、
あなたの行動をみれば、わかりますよ」と返答したのですが、
知らず知らずのうちに、心にダメージを受けてしまって、
「みんなに悪く言われている」という気持ちをぬぐえない時が3年ほど続きました。

考えてみれば、彼女の言う、「みんな」の真実は、「1名」でした。
あとは、傍観者の方が、多かったとも言えますが、
私に励ましの言葉をかけてくれる方もありましたので、
客観的に考えれば、「みんな」ではなかったのは、事実ですが、
私の劣等感といいますか、自信のなさが、
「みんな」という誇大・誇張した言い方に、
怯えをもったことが原因だと思います。
つまり、「認知の歪み」の状態が私の中で、腰を下ろしてしまっていました。

他のパターンの認知の歪みは、
自分の良いところを謙そんしてしまって、
自分を褒めるコトが出来ず、自分を責めるクセが強いとか、
なんでも「自分のせい」と考えがちなタイプや、
「絶対」とか、「必ず」とか、「完璧」とか、
物事を極端に仕分けしてしまう非柔軟な思考グセも、
「認知の歪み」になります。

 

私は、複数個の「認知の歪み」傾向を持っていることに気づきます。
たとえば、私の場合は、
CGを始めてからは、職人気質の「完璧思考」な部分もかなりありますし、
上手く行かないと、「自分のせい」と自分を責めるクセもあります。
意外と従順なところもあり、
人の言うことや迷信を受け入れてしまうところも少なくないです。

この、「認知の歪み」傾向は、
客観視でない状態に時に、起こります。
つまり、不安な状態や、緊張状態や、余裕がない状態、心身共に疲れている状態、
そういう時は、客観的な吟味が出来ずに、
思考がパターン化してしまう、自動思考状態という訳です。

自動思考とは、パターン化思考のことですが、
往々にして、形成された時は、思考力が発達する前の人格形成期つまり、
思考力を強化するのが小学生高学年だとすると、
10才以前に、思考パターンとして入り込んでいる可能性が高いものと言われている、
いわゆるスキーマ

仮に「歪み」傾向が、トラウマを経て、
性格傾向としてプログラムされていたとしても、
気づいて、意識的に書き換えれば、修正できるということです。

そして、私が一番、強く思ったのは、
「認知の歪み」は次の「認知の歪み」を産んでしまうということ、
たとえば、
理不尽が曲がり通るものや人、組織、社会では、
「認知の歪み」は、強化されるということを痛感します。

出来るなら、個人的に、
時間を作って、「歪みのない」人や、モノや、作品や、社会や組織を、
体験する時間を、少しでも増やすことをオススメします。

「歪みのない」人や、モノや、作品や、社会や組織は、
「認知の歪み」の特効薬となると私は考えます。

そして、私自身、CGの仕事やアートでエンターテイメントを
創っている端くれとして、
私は、「歪みのない」エンターテイメントを創っていこうと、
更に、強く思ったのでした。

ま、私が、黄月家Artsを始めた時は、
「愛あるモノをつくる」なんてキャッチで始めましたが、
やっぱり、そこに私の主軸があると再確認したこの頃でした。
「歪みのない」世界が希望であり、
エンターテイメントは「希望」であって欲しいと、個人的に思っているのです。


--
さて、節分も過ぎ、私的には、いよいよ今年に、本格的に突入です。

当たり前(思いグセ)の外に、「希望」はある。と、

つくづく感じるこの頃です。
そんなこんなで、CGと心理学二刀流で、私らしく。

2月を感じて参りましょう。

今の自分。「白内障」手術を終えて

2017年になりました。

以前つくった「ハートのはなし」という絵本の内容を
黄月家artsのHpにアップしました。1から7まで。

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黄月家Arts_TOPページ

心のお話しです。

--

昨年の自分の一年を振り返って、漢字一文字に表すと「己」という漢字にでした。
昨年は、いろいろな変化もあり、いろんな意味で、
自分を見直す年となりました。

仕事して、育児して、家事して、勉強して
自分を見つめたり、自分を振り返る時間はほぼ皆無に等しく、
ここ10年ほどの時間が過ぎてきまして、
体も、心も、大変な状態だったのに、メンテナンスすらしていなかった・・
なんてことに・・気づいたり、
かつての自分と、環境の違う今の中で、
自分がどうあるべきか、自分自身を再構築の時期だと、気づいたり、
発達心理学的には、アイデンティティーの再構築の年頃)
そんなこんなで、自分をみつめる一年になった気がします。

今年は、相変わらず、やりたいことが沢山有ります。
心理カウンセリング分野、CG分野、アート分野、育児分野。
考えると楽しくやる気がみなぎる一方で、
そのための、稼働時間をどうするのか、なんて課題もあります。
一つづつ、積み上げて行きましょう。
私は、やりたいことは、やります!。
でも、今は内緒。カタチにしていくことで、表したいと想う次第です。

稼働時間は、ムリするという私の悪いクセを、変えてゆくために、
工夫が必要になります・・これが今年課題ですね・たぶん。
結局、体や心がまいってしまうと、
なかなか上手くいかなくなってしまうものなんですよね・・

わかっているんですけどね・・(苦笑)。
わかっているけど・・やってしまう・・というのが、「悪いクセ」。
いわゆる、否定的自動思考が隠れています。
「ダメ」という気持ちがどっかにある。
「認められたい」の裏側にも、「ダメ」という否定的自動思考が隠れていますね、
ダメと自分を評価しないために、頑張り過ぎる。
そのうち、体が心が悲鳴をあげていることすら気づかない状態になります。
私も、自分で気づけない状態だった気がします。

でも、ありがちですよ・・、
「24時間戦えますか!」なんて、CMのキャッチコピーがありましたね、
私も、そんな時代の仕事戦士だったから・・。

でも、今は、時代の知識も大事なことも変化してきている。
自分の心と体も変化している。
しみついた否定的自動思考を、再思考吟味して、
本当に行きたい方向へ、柔軟に、変わりましょう!。と、想います。
それでも、変わらないものがあるなら、それは、自己の本質、本当の私です。
ホンモノは、チカラ強い。それを、最大限活かしたらいい。

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年末に「白内障」の手術をしました。

白内障は、眼の水晶体が、本来は柔らかいアミノ酸でできている部分が、
結晶化してしまい、光が乱反射してしまい、
光が膨張してまぶしくなり、白っぽくかすんで見えたりする症状があります。

一度結晶化してしまうと、元に戻ることはなく、治療は、薬で進行を遅らせるか、
手術して、水晶体を人工レンズに交換するというのが、現状の治療にです。

白内障の原因は、老化や、紫外線や、ステロイドなどの薬など、
いろいろありますが、私は、どれもこれも、思い当たります。

若い頃はスキューバダイビングのインストラクターもやってましたから、
紫外線浴び浴びでしたし、
ここのところ身体にムリを続けてきたのもあるし、いろいろ老化もあるでしょう。
おまけに花粉症がひどく、病院で処方さたステロイドが入った目薬を
知識なく使っていましたから・・。

私の感覚だと、寝不足の時に、
眼がピキピキと結晶化して亀裂するような痛みがあったりしたし、
あとは、花粉症の目薬の後も、ピキピキ痛んだし、
プールや水道水で眼を塩素にさらした後も、ピキピキしました。
まぁ、寝不足や身体もムリが大きな原因のような気もします。

そうはいっても、年を取れば、
80才以上ではほぼ90%以上の人が白内障になるというくらい、
老化のポピュラーな症状でもあります。


しかも、CGや、アート、仕事で、眼が要ですし。
眼の変化には敏感でした。
最初、眼科に行ったときは、
眼科の医者も見逃して「ドライアイ」と診断されまして・・
早めの対処治療の時期を逃しました経緯があります。

白内障が進んで来るにつれて、一番不便に感じたのは、夕方や夜の車の運転。
まぶしいので、いろいろ見えないことがあります。
あとは、逆光での会話、逆光だと人の表情が全く見えませんでした。
どれも、映像制作では、情緒をつくるために、
わざわざ作り込みような視覚効果ですが、現実は情緒的でというより、不便です。
心理カウンセリング試験の時、昼間で逆光で、全く相手の表情が見えなくて、
気持ちがくめず、その時の試験は落ちました(苦笑)。

CGや、アートは、意外にも、あまり苦労はしませんでした。
色はそもそも、比較視覚ですし、デジタル上では数値化されているので、
デジタル化で、安定した色彩を、使う事ができましたし
RGBは、色認識もしやすい。
ただし、近くに窓や強い光があるとモニターが反射するので、
作業部屋のカーテンは遮光カーテンに変えて、
昼もカーテン閉めっぱなしになりましたけど。
CGで、とくに、不便を感じたコトはありませんでした。

日常で光に埋もれて、見えないものが増えていくのを感じて、
仕事で、眼が要という意識も有り、手術を受ける覚悟をしました。

左、右と、順番に数日おいて、手術しました。
手術をしてくださる先生は、直感で信頼出来る感覚があり、
不安もなく順調に終わりました。

先生は、手術中「頑張りましょうね」「私も頑張りますよ」なんて、
優しい口調で術中、ずっと声かけしてくださって、
本当に、丁寧で心のあたたまる感動がありました。
安心して手術を受かられたことに感謝です。

--

それで、ここからが本当に書きたいことなんですが・・。

術後の眼、今までとは違いました。
私の場合は、術前の眼より、ものが小さく見えます。
片目だけ手術した時は、両方の見える大きさが違うので、
眼がとても疲れたし、ものの距離感が混乱したり、動作すると酔ったり。

視野の端、光が歪んでいて、少し明るくなり、光を吸収するカーブが見えたり、
視野の端が暗く見え、その部分から外側が、ものが2重に見えます。
しかも、それが、眼球を動かすたびに、チラチラと光を拡散します。

そいつの正体は、なんと
眼の中の、新しいレンズのエッジ。見えるんです。外側、120°ぐらい。

人工レンスが、人のアベレージサイズに作ってあるとすると、
レンズのエッジが見えてしまう人が時々まれに、いるらしい。
私は、まれな人・・らしい。
それで、判明したことは、
私は、アベレージ方よりも、これまでは視野が広かったのだっ。
という事実。
(術後の今となっては、レンズのエッジがあるので視野が広い利点はない)

正直、視野なんて、人と比べたことがないから、
なかなかそれをデータとして認知することは無かった。
だけど、想いおこせば、いろいろなことがあった。

私がスキューバダイビングのイントラの試験を受けたときのこと、
25年ほど前のことですが、
当時私の所属する協会は、プロ志向で、マイナーな協会で、
試験のコースディレクターは半数以上が沖縄の米軍基地の方。
昔のことですし、能力テストも兼ねていろんなやんちゃな取り組みがあって、
パニックの耐性や冷静な判断ができるかなどをチェッする為に、
背後から、空気タンクのバルブを閉められたり、
パニックになった生徒役の方(本当はコースディレクター)に、
無茶な動きをされたりなどなど、いろいろありました。

陸で、コースディレクターが、私の背後から、
やんちゃに、水をかけようとしたときに、
私は、影の動きを察知して、とっさに、避けました。、
「君は、後ろに眼があるのか!、すごいな!」と言われました。
その方は、元グリーンベレーの方。

そんな記憶が思い出されました。

そうそう、最近忘れてましたけど、
実は、私、以前は「気配」とか察知するタイプで、
感覚の鋭い人だった(過去形です)ことを思い出しました。

同じような、耳の話もあって、京都での学生時代、
音楽やっていたのですが、音はよく聞こえるのに、
人の話を、聞き間違いすることがあったりして、耳がおかしいのかな?と思って、
大学の保健室に相談にいって、聴力を検査してもらったら、
「むしろ、人より聞こえる周波数の範囲が広いですよ」と
言われたことも思い出しました。
(今は、年相応に聞こえなくなっている音もあるとおもいます。)

たぶん、嗅覚も同じように、においで気配を察知できた出来事が沢山あった。

つまり、標準?な人より、データ的には、
授受している情報量が、視野と、聴覚では多かったということになり、
それが、「気配の察知」の根底にあったのでは、と、
なんだか、妙に、納得できて、嬉しくも、自己受容できるような気がしました。

多くの人に解らない「気配」や、「違い」を解ることが、
今いる環境では、不気味だと言われたり、気味悪がられてり、
怖がられたり、嘘つき系におもわれたり、
でも、その解ることを、うまく説明、解説できなかったりして、

無闇に否定されることに、疲れて、

ここ数年は、人の解らないことを、解るということが、
自分を負にしているような気持ちにもなっていました。
ここ数年、音に耳を塞ぎ、ものに焦点をあわさず、
本来の自分を否定して、にぶいの人になろうとしていた、自分がいました。

自分の本質を、否定してしまっていた。
「察知」は、誰にも通じない、ことだった。
それは、私を孤独にしていた。
けど、自分の本質を否定するのは、自分を殺すのと同じでした。

でも、その原因がわかって、納得できた。なんかすっきりした。
人と違う、自分を認めてあげることが出来そうな気分です。

--
新しい眼(人工レンズ)は、
医療の専門家の、すばらしい技術で開発された優れものなのだと思いますが、

やっぱり、人間の本当の眼は、精巧で、優れものだったと、失ってから感じます。

人工レンズは、とてもよく見えます。曇りもなく、色も深く美しい、
けど、ピントが固定なので、視力検査では、1.0でも、携帯メールの文字がみえない(笑)。
近くと、遠くを見るためには、メガネが欠かせません。

それに、今は、術後で、
まだ、眼の周りの筋肉が、焦点を合わせようと勝手に動作するから、
慣れるまでは、もの凄く、あちこち張って疲れます。

レンズの歪みや、レンズのエッヂの光のちらつきも、慣れてないので、
動作が伴う、視覚は、まだ酔ってしまいます。

そのうち慣れるといいなと思います。

けど、その代わり、眼をつむって、身体と脳をやすませるので、
しらないうちに、マインドフルネスが出来そう!。これは利点(笑)。
あと、眼をつむった世界が、
意外と、深くて心に優しい世界が広がっていたことにも気づきました。

たぶん、眼をつむれる世界って、安心できる世界なんでしょうね。

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みなさんには、どんな出来事があったでしょうか?
そこから、どんなことを感じたでしょうか?

そんなことを話したり、聴いたり出来る日が来るといいな、と思っております。

どうぞ、今を感じる機会がありますように。

 

庭のみかん、最近の生活報告

うちの庭に、今年は、みかんが なりました。

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昨年は、初めて実がなって、3つでしたが、
今年は、沢山、こんなに・・。
まだ、すっぱいです!!。もう少しまってみます!。

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ちょっと前ですが、空に龍のような雲が、
鱗雲が、頭の上を、東西に長く大きく伸びていて、
これは、東側を撮ったもの。(10/14)
鱗雲の先が、龍の顔に見えるのは、私だけでしょうか?

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イメージを補足しますと、こんな感じにみえました。

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とっても、スケールが大きく感じて、気持ちが良い雲でした。
いいことありそう!!。

私の方は、

11月から、縁ありまして、早稲田にあるゲーム系の専門学校で、
「デッサン」の講師をさせていただいたおります!

哲学と、美術、3DCGと、心理学の、知識と技術が詰まった、
特別な、個性的な、私にしか出来ない授業内容になってます!!。
他の先生方の学生さんへの思いやりが、あったかくて、
とっても、ステキな雰囲気を感じます。
デッサンは、教室や学校のスタイルに合わせて、
カリキュラムを考えて、授業に取り組みさせていただいています!!。
ご縁を下さいました皆様に感謝です。

同時に、11月と、12月は、心理ガウンセリング関係の試験が続き、

なんと・・ ようやく・・

アートセラピスト、
心理カウンセラー2級、
インナーチャイルドファシリテータ
認定資格試験に合格し、視覚取得、叶いました!!。
(正直、がんばりました!!。これまで受からなかったので・・)

応援してくださったみなさまに感謝です。
資格をとったらやろうと思っていたことも、沢山あります。
徐々に、実現して行きたいです。

そして、3DCGのお仕事もさせて頂いています。
やはり、私は、「ものを作ること」が好き、天職だと思うぐらい。
しかし、心や想いが、大事、だから、心理学も、CGも、
両方が、今の私には、必要、どちらも自分の大事な側面と、
この1年、自己洞察を深めながら、改めて、思った次第です。
そして、そのバランスは、おそらく、
他の人には理解しがたいかも方もいるかも知れないけれど、
私にとっては、唯一無二の、私の個性なのだと・・自己受容して。
それを、活かしていく方向が、自分を活かすことなのだと、思ったわけです。
CGのお仕事関係の皆様、お仕事に支えてられています、感謝です!。

そして、先週末、白内障の眼の手術をしまして、
年末また、片方手術予定です。
今は、片目ずつ、見え方が違う状態なので、
結構、眼を使うと、いろんなところ(筋肉や筋や脳や・・)が疲れてしまうので、
そのお話は後日にします。

そんなこんなの最近です。
結構、それなりに、スゴイペースで動いている感じ。

感覚的には、波にのって行く手を冒険しているかんじです!。
手術の合間に、少し体をお休みさせていただこうと思ったりしてます。

今日は、自分のことばかりになりました。
心理学のテーマは、また後日にします。

どうぞ、自分らしい12月を楽しんでください!。

ハロウィン。「心の栄養」ストローク

11月になってしまいました!。

実家(山梨)の父が作って、送ってくれてたバターナッツカボチャ
ハロウィン仕様です。

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バターナッツカボチャの頭の方をスライスして、炒めました。
子どものアイデア!。

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結構おいしそうで、実際においしかったです。
バターナッツカボチャは、あっさりしているので、炒め物にするとおいしいです。

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子どもの図書バック、ダイソーで買ってきたバックに
子どもがアクリル絵の具で、着色しました。

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なかなか、ステキなバックになりました。
裏は、「ひみつの本棚」、子どもとイラレでデザインした本棚の絵を、
アイロンプリントで貼り付けました。

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「ひみつ」が、子どもの中で、ブームらしいです。

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今日のお題は、「心の栄養、ストローク

 

この一年半、カウンセリング心理学を勉強しまして、
一番影響を受けた理論です。

 

ストローク」とは、交流分析(心理学理論)用語です。

「存在認知」の刺激と反応の一単位、という定義です。

「存在認知」とは、あなたがそこにいることを私は知っています、ということで、
肉体的は、水や空気や食物が必要不可欠なように、
精神的に必要不可欠な刺激、であり、
「心の栄養」という意味合いになります。

たとえば、あいさつもストロークだし、様々な表現も、ストロークです。

ストロークには、言語、非言語、身体的ストロークがあり、
さらに、それらは、肯定的、否定的なものがあります。

肯定的ストロークが十分でないときは、
否定的ストロークを受け入れてしまう
たとえ、否定的であっても、無いよりはまし、
飢えているときは、泥水でも飲むのと同じで原理のようです。
子どもが、注目を引くために悪さをするのも、この原理。
でも、否定的なストロークは、体に毒をため込んでしまうことになります。

職業がら、、人に会わず、PCワークばかりしていますと、
ストロークが不足します。
自分で、自分の存在認知をするためには、
オニのように時間を費やして、作品を完成させ、
自分で自分を讃えるしかないけど、その時は、遠いです。

やがて、心が栄養不足で、自分自身が揺らいでくる。
たぶん、そこが、私の感じていた、「メンタルが保てない」
要素だったんだなぁって、思えたり。

密度といいますか、
心の栄養度にも、法則があります。
これは、時間の構造化の理論ですが、
私たち人間は、ストロークを得るために、時間を構造化しているという理論です。

時間の使い方の種類は、
1)引きこもり、
2)儀式
3)社交
4)活動
5)ゲーム
6)親密

もう少し、解説すると、

1)「引きこもり」は、
 自分で自分にストロークを与える状態。たとえば、ほーっとしたり、睡眠したり、趣味をしたり、自己メンテナンス時間。
2)の、「儀式」は、形式的、習慣的な他者とのストローク
 挨拶や、朝礼?、ペットのえさやり?
3)「社交」は、
 形式的なストローク交換。儀式とは違い、場所やタイミングは固定されていない。
 表層の情報交換。様子伺い。未来への行動には結びつかない。
4)活動
 目標や任務などの、具体的成果を得るためのストローク交換の交流
5)ゲーム(交流分析用語のゲーム)
 繰り返し起こる、人間関係のトラブルパターン。
 ストロークの刺激は強いが毒素も強い。
6)親密
 心のふれ合いを目的としたストローク交換、交流。
 立場にとらわれることなく、対等に、本音で、気持ちや感情の話ができる交流。

それで、
6)が、一番、栄養価が高く、以下、5)4)3)2)の順、
1)が一番栄養価が低いとされます。

PC作業が全ての私が心の栄養不足に陥っていた構造が見えてきました。
PC作業は、活動ではあるけど、時間的には、作業なので交流のある4)活動というよりは、1)の引きこもり。
時間を費やす割に、得られる栄養素は薄い。

あとは、自己認知の質にも、いろいろありそうです。
他者の作品をつくっても、
自分の存在認知度を実感できないから、更に、時間の割に、栄養価が低いので、
私は、自分を出せる、作品を好む傾向があるのかもしれません。
同じ時間を費やすなら、自己認知度の高い、
栄養価の高い方を選んできたのかもしれません。

そう考えると、私自身
いろいろ割り切れたり、選ぶモノも変わって来た気がします。

そんな感じで、この1年半で、根底で影響を受けた理論が
交流分析の「ストロークの理論」でした。

もっと言えば、ストローク経済の仕組みがあります。

ストロークをコントロールして、
人の心をコントロールしようと、する人もいます。
「飴と鞭?」、肯定的ストロークと否定的ストロークの使い分け?
でも、これ、大抵、信用できない人を作ってしまいます。
否定的ストロークをため込むと、毒をためることにもなります。

ストロークは、貯金できるとのこと。貯めることができるのです。

しかも、与えても与えてもなくなることはありません。
本来、ケチる必要が無いものなんです。
なのに、ケチるのは、心に何からしら抱えているということになりますね。

エリック・バーン交流分析の提言者)が言うには、
1)他者に与えられるストロークは惜しみなく与えましょう
2)自分のほしいストロークは、素直に欲しいと伝えましょう。
3)欲しいストロークが来たら、喜んで受け取りましょう。
4)欲しくないストロークが来たら、拒否(NOといえる)できる自分になりましょう。
5)自分自身にもストロークを与えましょう。

でした。
みんながこうできたら、いいのにな。

少し前の私は、他人には与えるものの、
欲しいと言えず、受け取れず、NOも言えなかったかもしれません。
自分にストロークを与えることも、なかなか出来ませんでした。
これでは、心の栄養が不足するのは、
当然でした(苦笑)。
意図的ではないけれど、
クセ的に、ストロークの授受を制御していたことに気づきます。

最近、頑張っていることは、
極力、気持ちの話をしようと・・。
つまり、6)親密 な交流をこころがけようと。

結局、親密な交流をすると逃げていく人というのは、
人の心や状態に右往左往したり、
いろいろ深く影響されてしまうのが嫌だったり、と
自他の境界がはっきりしていのも、
ストロークをコントロールする人も、立場や、上下で、仮面を作るのも、
上下や、善し悪しの概念で、人を批判する人も、
価値を、人と比べることで定義する、共依存傾向の強い人なので、
そういう人は、心の話を嫌う傾向があります(笑)。

逆に、気持ちや本音を話しあえる人は、
自分の価値観がしっかりあって、他人の価値観と区別できて、
他者も自分も、それぞれだと認めあえる部分を持っている人なんです。

解りやすく言うと、
アイデンティティーの確立された人。
根底に自己肯定感を持っている人。

そんなこんなで、
心の栄養を、意識しているこの頃です。

交流分析」関連の本が参考になります。

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みなさま、どうぞ、心の栄養を、楽しんでください!。

 

ぶどうジャム。「怒り」について

10月になりましたね。
私の方は、夏は制作ができなかったせいか、
9月は映像制作が楽しくて、心が映像作りにはまってました。
10月になりまして、また心理カウンセラーのトレーニングも始まり、
心が、内観にシフト中です。
9月に、1年学んでいた、インナーチャイルドセラピーワークを終えまして、
「もう、自分に嘘はつかない!」って思いまして、
自分を感じながら、生きていますと、いろいろ発見があったり、偶然があったり、
ほんと、どきどきわくわくなんだけど、実感があって、
無理せず、自分を隠さず、大きく見せず(笑)、小さく見せず(笑)、
でも、まだ、小さくなる傾向を、ぬぐえなかったり、
そんな、よちよち歩きの毎日を送ってあります(笑)。

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少し、バタバタで、時差でてしまいましたが、
この夏も、うちの癒やしの庭、ぶどうが豊作でした。8/23頃のぶどう

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今年は、玄関アプローチまで、枝が満ちました。

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収穫してみましたら、バケツと洗面器3杯。8/23

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ジャムにします。皮を取って、中味だけ、一度煮て、種を取るために、こします。
一度煮ると、種とりやすいです。

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今年は、バタバタで家にある砂糖を使いました。きび糖。
コクがあり、白砂糖より、深みのある美味しいジャムになるので、
この砂糖を買い置きしてあります。

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そしたら、せっかくの、半透明なぶどうが、こんな色に!。

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今年のぶどうジャムは、こんな色に!。ま、味は美味しいんですけどね(笑)!。

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ちなみに、昨年のぶどうぢゃむは、こんな感じ、

 

kizuki-ya-k.hatenablog.com

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今日のお題は、「怒り」。

 

強い感情は、フタをすると、心のモヤモヤになって、
自分自身に雲をかけてしまいます。

その人が、気持ち良く、全身全霊で前進出来ない時は、
大抵、くすぶった感情が雲やキリとなってモヤモヤと邪魔をしています。

こういう状態は、「感情の浄化が必要な状態」と見立てます。

感情を浄化するには、その強烈な感情のために、時間をとって、
安全な場所で、じっくり感じて、
充分に自分のその時の感情を汲んであげる、
または、(カウンセラーなどに)汲んでもらうことによって、
その感情を持った自分を一人にしないで、追いやらないで、
そんな自分も含めた自分をいたわることが、感情の浄化に繋がります。
本当の癒やしは、
1)向き合う勇気と、
2)安全な感情の行き場所をつくること(カウンセリングなど)と、
3)充分な嘆き、
4)その後の新たな気づきにより、
5)気持ちの再生という行程をたどります。

しかし、大抵の場合は、向き合いたくない理由があって、封印しているわけで、
1)から、5)まで、どこの課程でも、「抵抗」が起こります。

さて、
「怒り」も、出しにくい感情、ため込みやすい感情の代表例です。

過去に、たとえば、「怒るのはカッコ悪い」とか、
「怒るな」とかと、重要人物に怒りの感情を禁止された、
禁止令(交流分析用語)を持っている場合もあります。

「怒り」は、もの凄いパワフルな感情です。
だから、やり場を間違うと、いろんな弊害を伴うことがあります。
だから、厄介と感じる。

私の場合もそうでした。
私の母が、怒りを「復讐的行動(自他に破滅的に投げ出して遮断すること)」に
変えやすいクセを持った人で、
それに翻弄された経験から、私の中で、「怒り」は人も自分も傷つけるという、
思い込みを持ってしまっていたからです。

他に、怒鳴ったり、暴言や暴力で、
怒りを「攻撃」に変えてしまうクセのある人もいますし、
怒りは、厄介と感じてしまいます。

単純に、自分が弱っていると、怒っている人を「恐い」と感じてしまう習性もあります。

だけど、人間だから、自分が軽視されたりと感じたりもすれば、怒りも沸きます。
その怒りを、適切に処置できないで、ため込んで蓄積してしまったり、
自分が悪いのだからと、怒りを自分に向けてしまうようになる人もいます。

抑うつは、実は、怒りを抑制して、自分に向けている状態のことです。
自分では、「怒り」を自覚できない状態かもしれません。


私が、うつを煩った時も、自分を責めて自分に怒りをぶつけて
自分を激しく嫌悪(批難)している状態だったと、
今だから、振り返ることができます。


抑うつから、脱する課程では、
自分に向かった怒りが、
方向を変えて表出する課程が必要になります。
自分の中の怒りの存在を、認める段階です。
その時、ためていた怒りがあふれ出ます。
だけど、当時の私には回復の知識もなく、
怒りを表出させることが、うまくできず、長い間、
自分を責めて、自分で自分のエネルギーをうち殺していた状況だけが続いていた
気がします。

正直、怒りの対処法を学んだ今でも、まだ上手く自分の「怒り」に対処できませんが、
怒ってもいいのだよ。ということは、自分に言っています。

だけど、怒り(感情)と、行動、思考は、別物だと思ってください。
怒りと、暴力的要素は、別物だと、ぐれぐれも理解する必要があります。

怒りの感情は、あっていい、人間だもの。
だからといって、
他者を攻撃したり、他者が健やかに生きる権利を奪ったりする行動に出るのは、
暴力(的)行為で卑劣になります。

なら、どうやって表出させるかというと、

1)とにかく、「怒っている」自分の気持ちに気づいて、
 怒りを認知してあげてください。「怒っているだね」って。
 自分の気持ちを無視しないで、あげてください。
2)次に、どうして「怒っているのか?」何について「怒ってるのか?」、
 些細なことでも、くだらないことでも、全部、箇条書きしてみてください。
3)そして、そんな怒りが生まれる環境や、関係を嘆いてください。時には、
 他者の悪口になるかもしれませんが、それも、経過課程の1つです。
4)とことん向き合って、考えて、嘆き尽くすと、
 怒りに隠れていた別の側面が見えてきたりします。
5)気づきがあれば、新しい視点で、新しい明日を構築することが、
 可能になっていきます。


私もカウンセリングを受けて、表出の課程をたどりましたが、
2)の場面で、怒っている自分の自己否定も根強くぶり返しましたし、
 こんな細かいことを考えるのはくだらない、と、表出への嫌悪もありました。

逆に、怒りの相手への、怒りが膨張してしまうのでないかという不安も出てきたり、
自分の怒りを、コントロールできなくなるのではないか、
という、気持ちも感じたりもしました。


これ、実は、全部、「抵抗」です。「抵抗という課程」です。
それだけ、自分を強く押さえ込んでいたので、道のりはそんなに簡単でなかったです。

でも、それの「抵抗」を感じて意識することによって、
「制御」を経験して覚えていく課程なんです。
制御できる安全な場所(心理カウンセラーと一緒になど)で行うことが、
助けになります。

 

でも、まだ、やっぱり、私の中で「怒り」の表出には、
まだまだかなりの抵抗があるのを感じます。

できるなら、人を責めたりしたくなし、
できるなら、平和でいたし。


しかし、そうすると、やっぱり、自分が負をため込んでしまうので、
生きるエネルギーを無くして行きます。

結局のところ、
「怒り」だって、存在していいし、
なかったことにはできない感情なのだということです。

そして、適度な「怒り」の気持ちを打ち明けることは、
まわりに、自分を解ってもらう切っ掛けにもなります。
(怒りを感じていることを、伝えることと、
 相手を、攻撃する言動や行為をすることは、別物です。
 区別してください。)

あと、「怒り」を適切に表現出来ない場合の事例として、
共依存関係に陥っている場合があります。
共依存関係とは、共依存の性質のために、世話をする側とされる側のペアで、
上下関係を構築した関係です。
上下関係のために、言えない、言ってはいけない、
言える立場にないという思考になり、
主張ができなくなる機能不全な関係です。

共依存症の症状として
「自己ケアの障害(自分の欲求を適切に伝えられない)」に陥ると、
その場合、押し込められた怒りが蓄積して、
やがて「恨み」という症状行動の元になってしまいます。

そういう意味でも、「怒り」は、適当な段階で、
適切に、向き合っておきたいと思います。

「怒り」の感情に向き合うと、
相手に伝えたくなることがあります。

心理カウンセリング養成講座の先生は、「怒り」を当該関係者に向けると、
受け入れてほしいという、欲求とは裏腹に、
もっと、傷つくことになる、と言ってました。

まぁ、怒りをぶつけて、解ってもらえるなら、
最初から、怒りを抱え込むことにはならなかったと思いますから、
そうかもしれません。

そういう場合に、有効なのが、
「怒り」を「欲求」に、変えて、伝えることです。

「怒り」とは、実は、第一感情でなかったりするという、くせ者です。

たとば、人が「怒り」を感じる時は、多くの場合、
欲求の障害が発生した場面なんです。

たとえば、○○したいけど、上手く行かないとか、邪魔が入ったとか。
あるいは、「言われたくないことを言われた」とか、
これも、自分で向き合いたくないこと、隠している行為の障害ですね。

評価的な言葉に怒るときは、大抵、軽視されたという感覚が伴います、
軽視されたいくないことを、軽視されるのも障害ですね。

「邪魔しないでください」とか、
「バカにしないでください」などの、欲求に変換することもスキルです。

だけど、いざ、相手に向かうと、、
結局、不満だけが連なって、欲求変換にいたらず、
相手の、防衛をあおって、相手の怒りを倍増させてしまう、ことがほとんどです。

私も、いつもそうなってしまいます
(反省、不器用ですみません)・・。

それでも、怒りが出せなかった頃よりは、関係や気持ちが、ましな気がします。

自分に嘘をつくよりは、関係も心も楽です。
(相手の共依存度合いにもありますが・・。)

 

つづき、


軽視されることの怒りについて、
コンプレックスがあることによって、
怒りを抱く場面は倍増します。

この場合は、怒りは第2感情で、根底には、劣等感という感情があります。
その劣等感を作っているのは、
軽視されるさみしさやむなしさという感情だったりします。

「怒り」とは、ちょっと複雑というか、実は仮面的で、
防衛的な要素もある感情なのですね。

真の要素がコンプレックスならば、
比較してしまう外部準拠的な思考から、
自己の価値観(アイデンティティーの確立)に成長することが、
「怒り」を減らす要素になったりします。

こう考えると、怒りっぽい人というのは、
感情と逆に、コンプレックス(劣等感)の固まりだったりしますね。

そう考えると、いつも怒っていて、恐い印象の人の、心の中が、察せますと、
恐怖も半減しますね(笑)。

私は、身内に「怒りん坊」な人がいて、いつも怒っていて、
何でも怒ります。暑いとか、駅に人が多いとか、そんなことまで。

いつも、怒られているうちに、
「私が悪い」という否定的自動思考になってしまっていたのですが、

こうして、後から、いろいろ学んでから考えると、
他人が怒っている原因が、自分のせいと、思うのは良くないなと、思いました。

他人の機嫌は、他人のものなので、案外自分とは、関係ないことがあります。

むしろ、自分が原因と思ってしまうと、
「怒り」の感情が、出せなくなるので、
「あぁ、機嫌がわるいんだなぁ」と距離をとって
察してみることも必要だと、最近わかって来た次第です。

正直、「虫の居所が悪い」なんて言葉もありますし、
ホルモンバランスや、体の状態、心の状態も、影響しますから、
全部が、他者のせいな訳もなく、「怒る」時もあるわけです。

なにより、怒る経験も、怒る権利も、怒る自由も、
感情や情緒の成長に必要不可欠な部分でもあるわけです。

それは、自分にも必要だし、他人にも必要なのだから、
全ての「怒り」を嫌悪しては、情緒や感情の行き止まり、
つまり、生きる原動力が生じない状態が発生してしまいます。

つまり、ここでも、
良い悪いでなくて、バランスということになります。

バランスの取れるところで、
ほどよく表出するスキルも、必要を感じます。

私は、まだまだです(笑)、
劣等感もありますし、
体や、ホルモンバランスや、寝不足など、他の要因も沢山ありますし、
まだまだ、「怒り」に右往左往してしまいます・・未熟者ですみません・・。

どうぞ、お互いの成長のために、遠目でみてください(笑)。
お互い様でお願いします!。

長くなりました。

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最近、東京多摩地方、曇りがおおくて、日照不足でした。
今日は、晴れ、心もたまには、天日干ししようかなぁ・・・(笑)。

では、また。