ココロド_黄月家K's weblog

考えすぎ? ココロド_心理カウンセラー_黄月家Kの 思考いろいろ、心理分析、ものづくり、時々庭、時々日記です。

きのこ と コンプレックスと

隣接する公園の植え込みの中に

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キノコが沢山、植え込み中にはえています。
そういう季節ですねぇ。
きっと、ジメジメした季節にはえるキノコですね、
毎年この季節にみます。

キノコといえば、夢占いとかですと、
コンプレックスの象徴とか言われたりします。
ジメジメしてるからかな?
カエルも、葛藤の象徴と言われたりします。

私もある時期、カエルさんに
妙に、心が引かれる時期がありました。

生きていれば、死にたいと思うことも沢山あります。
少なくとも、私は沢山ありました。
だけど、最近奇妙な感覚が私の中にあります。
「生きることも死ぬことも同じだ」と。

見た目にも、現実的にも違う物が同じと感じるのは、
「ある定義においては」ということなると思います。
むやみに突っ込まれると、「生と死は違う」という
結論にしかなりません。だって、違うんですから。
その、本来違う.ものを同じと感じてるところに、
何らかの意味があるだと思っています。

どういうふうに同じかというと、

我々の認識している全ては、
実は、脳内で構築された認識にすぎないです。
人間の認識機能は、五感・六感も含め、
機械化不能なほどに、きわめて奇蹟的な高精細でる
優れた機能です。
優れすぎていて、見方によって見え方まで変化する
非常に優れた曖昧さを加味しています。
だから、人によってとらえ方が変わります。
真実はどこにあるのだろう?
なんて出来事はざらにあります。

結果、私の認識しているこの世界は、
私の脳が認識している世界に他ならない。
だけど、他人と共有して構築されている。
だけど、他人が私と同じように、
この世界を捉えているわけではない。
ということになります。
簡単に言えば、十人十色。

人は、人間形成時において、
強烈な経験を通して、物のみかたや想い癖を習得して、
大人になります。
そうして習得した、捉え方の技術は、
後から修正の必要が生じても、ものすごい時間と苦痛を伴います。
だから、簡単に修正できないという現実があります。
大人になってしまうと、時間もないし、
苦痛も受入がたくなりますし。
何より、苦痛を避ける防衛本能機能も発達している訳ですから。
その前に、自分の想い癖(当たり前感覚)に気づくことすら、希かもしれません。
自分の経験からいうと、それは、きりのない作業でもあり、
その修正が生きるということでもあるのかもしれません。
もしくは、その自分の中のバクを許容する方法もあるのかもしれません。
許容したところで、自分が生きていゆくことは許せても、
感情の狼狽に対しての、繰りかえす強烈な感情は変わらぬままです。

といわけで、
全部私内部の認識の問題だから、
その想い癖というか、認識のパターンというか、
ものの見方というか、解釈のパターンが変わらない限り、
死しても、苦痛は苦痛のままだと思えるのです。

現実私を悩ますのは、
全て、子供の頃の強烈な体験で焼き付いた強烈な感情が、
姿形を変えて、やってくるだけ。
そんな感じがしています。
つまり、苦手なことはいつも同じ。
私は過去の狼狽に、苦しんでいると
言ってもいい気がしてます。

死んでも過去が変わる訳じゃないですから、
その面においては、苦痛は一緒かなと思えたりするわけです。
結局、内面の問題といいますか・・・
そう、思えるわけです。(今の段階では。)

たぶん、想像するに、
過去のことは生きていても死んでいても同じなのかもしれません。
だけど、生きていれば、
その記憶を上書きできる体験が出来る可能性は残るのでは。
その点において、生と死の違いがあるのだと今は漠然と思っています。

今日は、朝からヘヴィーな随筆になりました。
すみません。
哲学科出身なもので。

では、気分を変えて、今日もがんばります。

みなさん、良き水曜日を!!