ココロド_黄月家K's weblog

考えすぎ? ココロド_心理カウンセラー_黄月家Kの 思考いろいろ、ものづくり、カウンセリング心理学、時々庭、時々日記です。

グーズベリージャム。 随筆_「信じる」とは?

庭のグーズベリー。(元々植栽で植えてあったもの。)
いい色になりましたので、

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今日、収穫しました。↓、結構な量が採れました。約700g

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結構おいしいので、またもやジャムにしようと思いまして、
フードプロセッサーで、ペイスト状になりました。
ジャムにした時、種や皮が結構、口に当たるので、
結構、細かくペーストにしました。

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ペイストは、練り梅ぐらいの堅さ、水分が少ないベリーです。
このままだと、飴のようなジャムになっちゃうので、
水をベースとの量の1/2足しまして、同量の砂糖と、レモン汁と加えて、
鍋でグツグツ。

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こんな風にまりました。

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過去のグーズベリーのジャムのweblogは、

 

kizuki-ya-k.hatenablog.com

 ついでですが、ミニトマトは今こんな感じ。↓

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ブドウも、こんな感じ。

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いつもの黄月家ギャラリー、リニューアルしました。
作品も若干追加公開しました。

黄月家ギャラリー“闇と光”

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「信じる」とは、
いったい何でしょう?

“「信じて」と言う人間ほど、信じてはいけない”
というのが、私のこれまでの人生経験から得た教訓です。

「信じて」と言う人ほど、不信に意識が有り、
それが弱点であるということを示すのかもしれません。
(もちろん、例外もあるのだと思いますが・・。)

「信じる」ということは、
「期待」と同義であってはならない。とも思っています。
期待を他者に押しつける人間ほど、
「信じてる・・信じてる」と口にするように思います。
そして、期待通りでなくなったとき、
「裏切り」だと口にするのだと思います。
これ、当該本人のことは何も考えてない一方的期待のズレから生じる問題で、
「信じる」とは何か? という疑問を余計に生み出してしまうように思えます。
「信じる」の反対語は「裏切り」ではありません。
「裏切り」という思考は、たぶん危険(問題)のサインです。

では、
「信じる」とは、いったい何でしょうか?

親は子どもが自ら育つ力があると「信じ」ればこそ、
過剰保護を抑制して、見守ることが出来るようになります。

先生と生徒の関係も同様、
社会のしくも同様、
そこに「信頼」があれば、
封建的な権力的圧力を用いなくても、みんなで成長し合えるよう、
自ら考えるて行動する力を発揮させることができます。

心理カウンセラーも、クライアントの内的力を信ずればこそ、
クライアント自らが、自己実現に向かって、
進んでいけるようになる状況を作ることができるのだと知りました。

「信じる」とはなんでしょう?
「信頼」とは何でしょう?

ふと気づけば、まぁ、ここ数年いろいろあって、
情報が過剰だったり、物騒な事件も多かったり、
情報が勝手に流出して、意図に反した領域で、不用意に拡散する時代だったり、
いろいろなこともあるのでしょうけど、

最近、私、人を信頼するってこと、なかなかなかったなぁと
気がつきました。
自分の気持ちや言葉を伝えることを躊躇したり、
自分の情報を知らせることをことを躊躇したり、
自分から働きかけをすることを躊躇してしまったり、
人の連絡先を聞くことも、躊躇してしまったり、
自分の話をすることはおろか、人の話を聞くことさえ、躊躇してしまったり、
人が自分を受け入れてくれるとも思ってなかったし、
自分が人を受け入れることも、出来なくなってた気がします。

心を閉じきっていた、と。

ま、知る人ぞ知るですが、そうなったには、紆余曲折あるわけですが・・。

心を閉じている状態というのは、つまり、
信頼のない状態なのかもしれません。
信ずるものがない状態なのかもしれません。
と、ふと思ったりしました。

では、いったい
「信じる」とは、いったい何でしょう?
「信頼」とは何でしょう?

思うにたぶん、それは、
相手が、ご自分の判断で自立しうる能力を有していると、
思うことなんだろうなぁ・・と、
何となく理論的にわかりかけたところです。

だから、私が思うことがあれば、適切な方法であれば話していいし、
それに、過剰に左右されない他者は、「信じる」に足る他者であり、
人が私に思うことがあれば、それを聞いても、私が無理に左右する必要はない、
それが、自立した信じるにたる関係なのだと思う訳です。
だからこそ、自分を出せる。他人の話を聞ける。
そういう信頼関係。

そういうことなのではないかと、
今週は考えた次第です。

自分の思うことが、人に影響するなんて、
恐れもありました。でも、それは思い上がりととらえることもできます。
人の言葉に傷つき、人を恐れていた部分もあります。
だけど、恐怖から逃れるあまり、暖かい太陽の届かぬところにいた気もします。

もっと、自分の言葉で話そうと、思った次第です。

他者が、他者でいられる自立した人間であると「信じる」ことは、
結局、他人を尊重していることなのだと思うのです。
他人を「信じない」ということは、つまり、
他人への尊重の欠如なのかもしれません。

そんな状態では、自分も尊重してもらえることも遠い。

紆余曲折あったにせよ、
心を閉ざし続けるということは、
他者を信頼できないのか、しないのかわかりませんが、
いずれにしても、そこに他者を尊敬し重んじる気持ちは生まれないのかしれません。
と、想い感じた今週でした。

とはいえ、まだ、理屈上の気づき、
実際には、バランスむずかしそうですが・・。

さて、来週はどんな週が待っているのでしょう?

内観期、まだまだつづきます。

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今年のこの季節、いつもとはちょっと違う予感がしているのは、
私だけでしょか?。

みなさま、どうぞ、良き6月をお過ごしください。