ココロド_黄月家K's weblog

考えすぎ? ココロド_心理カウンセラー_黄月家Kの 思考いろいろ、心理分析、ものづくり、時々庭、時々日記です。

ニセモノの世界

だいぶ、暖かくなりました。

毎回思うけど、クリスマスじゃないのに・・(笑)
うちの庭、玄関わきのクリスマスローズが、満開です。

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もう、たぶん3年か、4年目ですか(ど忘れ)

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上から見ると、この量。

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こんな色も端の方に咲いてます。(ピンぼけ)

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玄関アプローチの入り口の、ムスカリもかわいい。

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ハッピークローバーも、冬越えして元気です。

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今日のお題は、「ニセモノの世界」

この世は、ニセモノだらけ、張りぼてが並んでいる仮想世界。
そんな、感覚が、私の中でずっとありました。

そして、自分もひょっとしてニセモノなのではないかと・・。

カウンセリング心理学を勉強しながら、
最近わかってきたことは、
「考え(思考)」と、「気持ち(感情や心)」と、「行動」、「意味」が、
一致していない状態が続くと、心や、身体や、行動に、不具合が出てくるのが
人間なんだということに、私自身気づいてきました。

私自身も、もちろん、いろんなしがらみがあったり、
簡単じゃない経験が沢山あったり、
複雑な感情が積もっていたりしているので、
一致してない部分を沢山、持ってす。

しかし、その別々なものが、一つの身体の中に、宿っている以上、
別々のままを続けて行くと、どこかが分離してしまう訳です。

そして、そういう場合に、
いろいろ、折り合いを見つけ出して、
現状・現実の状態の自分を納得して、
歩き出すことができる心と体の状態にすることを、
心理学では、「統合」といいます。

単純に、心(思っていること)と、考えと、行動が、一致していると、
足し算じゃなくて、乗算的な、力が入ります。
自分の能力を100%、発揮出来る状態というわけです。


しかし、最近の、現実社会は、なかなかそうはいかない。

まず、現代社会は、結果主体で、行動と思考が、優位で、
感情や気持ちがおざなりな部分を感じます。

マニュアル社会の弊害ですかね?

表面的。

そこで、私が「ニセモノ」と感じているのが、何なのかを言語化できました。

「行動」と、「思考・考え」に、「気持ち(心)」が伴っていない状態を
私は、ニセモノと感じていたのだと。

こういった、表面的な状態だと、心底の力がないので、
途中で果てて、中途半端になったり、
心を無下にしているので、人を物扱いして、
マイナスな心のエネルギーを駆ったりして、足止めの結果になります。

前回のweblogで、書きましたが、
「人の心を動かすのは、心だ」と、私が改めて、感じたのは、そこです。

結局、人は、思考や論理では、とりあえず、動いたとしても、
心が伴っていなければ、長続きはしない。
思考や論理を支える心が見えなければ、
思考は論理は、時代の価値観とともに朽ち果てる。
だけど、心があれば、
自分の想いと同時に、他者の心も想像できて、柔軟な変化を遂げつつ、
お互いに成長してゆけるものになるといったところでしょうか?


では、心は、どいったものか?

心とは、情緒部分、感情部分、などなどで、
本来なら、動機などに関わる部分です。

つまり、私がこれまで使っていた言葉に置き換えると、
方向=ベクトル。どちらを観るかという、向きとでもいいましょうか。

そして、心の成長は、
考えや思考、行動のスキルと同じように、
心も、経験をつむ必要がります。
まず、感じること、
次に、感じたことを表現すること、
その経験のくり返しで、感覚も、育ちます。

しかし、幼児期などに、心を軽視した環境で人間形成をすると、
なかなか、心=情緒が育ちません。

具体的には、
感じることを禁止されるケース、や、否定されるケース。
心を無視されて、コントロールされるケース。などがあります。

具体例としては、
子供が「痛い」と感じたとすると、
親が、「痛くない!」「痛くない!」と
たちまち、否定したり、
子供が、「悲しい」と感じたことを、
親が、「そんなことが悲しいのなら、生きてゆけないぞ!」とか、
親の感覚を押しつけたり、

ありがちですね。
私も、されたし、したと思います。

親は、親の、強くなって欲しいとか、いろいろな子への想いがあるのでしょうけど、
実際には、子供の情緒(心)の成長を、阻害する結果になってしまって、
こうした中で、大人になると、
思考優先で、自分の気持ちもよくわからい、
よって、人の気持ちも想像できない、という、
偏った成長になってしまう訳です。

あるいは、
自分の心が感じられたとしても、
それを表現しても、受け入れてもらえない環境だと、
自分の心を、無下に、よって、人の心も無下に、
そんな、心の伴わない、生き方をしがちになります。

人の心や情緒が成長するためには、
「感じること」の自由と、「表現の自由」が、大事なのですね。

かといって、
法律やルールやマナーを害する、行動が伴うモノは、
社会性の中での、行動との調整が必要だし、
表現だって、攻撃性や、暴力性があるのは、
他者の気持ちへの配慮ができないという意味で、
未発達な心理がある状況なのかもしれません。

それも、ありがち、なので、
心の成長とともに、バランス良く、行動や、思考も、
社会性的部分の成長が必要になるのも、うなずけます。

心だけでも、行動・思考だけでも、中途半端な状態という人間の仕組みですね。

 
「本音」と「建て前」
そんな、文化もありますね。
昔の私なら、「建て前だけ」の人間を「ニセモノ」と感じていたと思います。
だけど、その「だけ」が、キーなんです。
「本音」がどこかに見え隠れしていれば、
おそらく、「完全なニセモノ」ではないのかもしれません。

 

最近、メディアや、SNSや、ワイドショー、様々な場面で、
表面的なコメントだけの、人々が多い気がすると、
感じているのは、私だけでしょうか?
いわゆる、「ニセモノ」を感じます。

かといって、心を話す、自由度が、社会の仕組みになくなってしまったような。
失言をすると、炎上して、根掘り葉掘り掘り起こされて、
人の足下をすくって、情け容赦なく、窮地に追い込む、
社会から乾させる、ような風潮もあります。

建て前ばかりの、言葉。
これは、心理の深層で、恐怖から防衛している姿のようにも見えます。

体裁を気にして、心を話さない。
本音(心)を、話せる場所がどこにもない。

今のこの国は、「ニセモノ」を創り上げるように機能しているのかもしれませんね。

そして、この国ごと、「ニセモノ」になってしまうのかもしれません。

おおっと、これの発言↑は、否定的コントロール調でした、すみません。

このように、恐怖や、不安をあおる、事態を連想させて、
人の気持ちをコントロールしてしまうことを、
カウンセリング心理学で、分析しますと、
「否定的コントロール」という言います。
共依存症や、アダルトチルドレンが持つ、行動の傾向です。

子供の時(人格形成期)に、
自分の心や思考を、自律する方向で、経験すると、
人間関係において、
①自分のことを話す
②他人の話を聞く、
③違いを、わかって、調整する
ということが、出来るようになるのですが、

人格形成期に、
まず、自律的存在に扱われずに、「話を聞いてもらえない」
と、上記の①、②、③が、できなくなってしまう傾向にあります。

「自分のことを話すこと」は、情緒(心)に深く関係しています。
なぜなら、自分のことを話す(言語化する)ためには、
まず、「自分のことを感じる=自分のことをわかる」必要があるからです。

情緒も、経験値があって、
経験して情緒(心)を感じることを、繰り返すことで、
心が成長します。

こうして、人の情緒が、健全に成長できる家族や社会が、人間の成長には必要です。

そして、情緒の成長の機能を持たない、家庭環境のことを
カウンセリング心理学では「機能不全家族」といます。

だから、情緒の成長の機能を持たない、社会のことは、
「機能不全社会」と言えそうですね。

長くなりました。

今日のお題をまとめると、

まず、自律的に「話を聞いてあげること」が、
この「ニセモノ」製造社会には必要なのかな?と。

社会のひとりひとりが、成長していけるために、
「話を聞くこと」をする、そのためには、
自分の感情や思考は、他人の感情や思考とは別物なのだと、
区別できる距離感を持ちつつ、自分も機能する必要があるのだと思うわけです。

他人のことで、心が動くのは、心が機能しているということだし、
それは、それで健全だけど、
「・・すべき」とかといって、思考や、行動を押しつけたり、
それに、従わない他人を、けなしたり、攻撃するのは、
「否定的コントロール」なので、共依存症の傾向が見受けれる人、
と言う心理学的な解釈になります。

否定的な社会は、怖いですけど、
「自分を感じる」ことを止めないでほしいです。
「自分のことを話す」場所を持って欲しいです。

「否定的コントロール」の実態を知ってほしいです。
恐怖は眼をふさぎますが、それが、全てじゃないということです。

つい、「否定的コントロール」的なこと言っちゃいますが、
矯正や、強制や、攻撃や、必要以上の否定をする必要は、ないのです。

だって、私は私、それと同じように、あなたはあなた。人は人、
私の心は私のモノ、私の人生は私のもの
あなたの心はあなたのモノ、あなたの人生は、あなたのもの
私とあなたは、違って良いのです。
あなたと私も、ちがって良いです。
あなたも尊重されるべき人間で、
私も尊重されるべき人間です。
みなさん、そうですよね。


さて、
あなたは、「ニセモノ」?
私は「ニセモノ」?

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だんだん、春になってきました。
花粉ショー大変ですが、
花や、空や、風景に、眼を向けてみたくなりました(笑)。

どうぞ、ステキな3月をお過ごしください!。