ココロド_黄月家K's weblog

考えすぎ? ココロド_心理カウンセラー_黄月家Kの 思考いろいろ、ものづくり、カウンセリング心理学、時々庭、時々日記です。

「洞察力」と 活かすチカラ

花粉症を感じるこの頃ですが、空は、キレイです!。

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今日のお題は、「洞察力」


カウンセリング系の心理学では、「気づき」という言葉で解説されます。

ゲシュタルト療法ですと、
1)「外界」の気づき _ 出来事や場面など
2)「中間」の気づき _ 考えや思考として、理解していること
3)「内界」の気づき _ 気持ちや内面に関係すること、

「気づき」の深さや難しさのベクトルは、
「外界」→「中間」→「内界」、が一般的、
思考力や、感覚の得意不得意もあるので、順番が違う人も居ます。

その3つは、時々、矛盾していたりします。
だから、気づきづらく、
統合できために、気づくことを、無意識に回避したりする場合はあります。


次に、
JTCの体験スケール早見表を元にして、
少し言葉を変えますが、「気づき」を考察すると、

レベル1)事象(出来事)を言語化できる。
レベル2)「私は」という視点で言語化できる。
レベル3)「私の感情」を、内観できる。
レベル4)「私」が、「他者の感情」を察することができる。
レベル5)他者からの不快にたいして「私の中の原因」を洞察する
レベル6)繰り返しの問題パターンに築き、「今ここ」と区別できる。
レベル7)繰り返しパターンに、「気づき」が応用されていく。

「洞察」の深さのベクトルは、
「レベル1」→「レベル6」に方向。
レベル1.2については、自分と他人の境界が曖昧な性格傾向が覗え、
言語でのアプローチで「気づき」につなげるのは、やや難な傾向にあります。

こういう場合は、
身体の感覚や体験を通じ得て、
自分の存在を感じることから、始める場合が多いです。

 

レベル3では、大抵の場合は、考えと気持や行動などの、
矛盾に「気づく」入り口になりますから、
気づくことを、無意識に回避したりする場合はあります。

レベル4に至るためには、
立場を変えて、考察したりすることで、視野を広めることが可能になります。

 

レベル5、自分と他人の区別が出来ていれば、問題無く深まりますが、
「他人のせい」にしたい共依存傾向の強い方は、
自律的な洞察ができるようになるまでに、時間がかかります。

not OK の構えを 自分か、他人か、どこに抱えているか?
解る段階と言えます。

 

レベル6では、経過や時間軸という、概念で洞察の層が深まります。

レベル7では、改善の方向に、自分を導くことができる、
「真の自律」といいますか、
「活かすチカラ」の内在を感じます。
本当の、「I'm OK. you're OK」の状態。

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絵やデッサンなどを見ても、
質感や、時間や、空間など、どこまで、「観るえているか」
「観るチカラ」は、洞察力のレベルと、比例していると、感じます。

絵だけで無く、
文学や音楽も、精神活動の表現物である、芸術や文化には、
みな、洞察力の深さの深度が、表現に比例している、と私は感じます。

自己「表現」をすることで、自分を感じ、洞察力が深まる原理はよく解ります。
だからこそ、日本国憲法では、人間の精神の成長のための、
表現の自由」がうたわれて、補償されている訳です。

自分のことを「表現」することは、精神の成長に繋がるコトなわけです。
(だからこそ、他人のことを「表現」する必要性は・・あるのか・・少し考える必要があります。)

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少し、私のことを書きます。

私は「気づく」ことが好きで、「kizuki-ya」を名乗っております。

「気づき」は、私にとっては、発見であり、新たな世界への入り口だったり、
可能性への繋がりだったり、導きだったりします。
だから、好きなのです。


否定的な思い込みが強すぎると、
「創造力」が退化してしまい
防衛的なで保守的になり、「気づき」を怖がる人もいます。

「恐怖は、眼を曇らせる」ですね。


何事もそうですが、
「事実」を、肯定的に捉えるか、否定的に捉えるかで、
その人の未来は、別れますよね。

「気づき」も同じ、
肯定的に発展に繋げるか、否定的な要素として捉えるか?
「気づき」の意味も変わります。

私には、
「解りすぎる」ことが、つらいなぁと思った過去がありました。
「解りすぎる」ことが、損だと思った時期もありました。

今思うと、自分が歪みに飲まれた瞬間だった気がします。

その後、わざと、「観ない」ようにした時期がありました。
「観ない(傍観)」ことで、何が起こったかというと、

最初に他人の冷たさを感じました。
だから、観ないことにした。
自分の冷たさを感じました。
自分の心が凍りました。
自分では、心が溶けなくなりました。
何も感じなくなりました。
自分が生きているか、死んでいるのかさえ、感じられなくなりました。

そこから、解るのは、「感じること」自体が、
「生きること」なのだろうと、思います。


そして、今


「観たくないもの」を観るので無く、
「観たいモノ」に近寄っていくこと、
「感じたいこと」に近寄っていくことで、
自分が「生きている」ことを、肯定できるということを、
感じて、今に至ります。

つまり、「気づき」を、「活かすチカラ」が必要なのだというになります。

 

自他の境界を言えば、
他人の、特に否定的な部分が「観えること」は、
あまりメリットはないのかもしれません。

自分のことに、応用していける部分を、「観ること」が、
「活かすチカラ」なのかもしれません。
内部準拠か、外部準拠かの差があります。

 

「ポジティブ VS ネガティブ」 の極で判断するのは、ちょっと違う気がします。

違いがあるとすれば、「OK(肯定) vs not OK(否定)」なのだと、
今は、感じることができます。

「ポジティブ VS ネガティブ」 の価値観は、絶対的2分法思考の歪み=思い込み
主観的な要素に思えます。

客観性をもって観れば、それは、ポジティブでもありネガティブでもあり、
あるいは、そのどちらでもない、ただの事象にすきない。

それを、いかに解釈するか、意味を見いだすか、拒絶するのか、
「OK(肯定) vs not OK(否定)」の問題だと思えます。

他人に迷惑をかけない範囲で、
全てはOK!。
「I'm OK. You'er OK.」

自律において、
一人一人が活き活きと、その周りも活き活きとした繋がり(ストローク)の交流社会であったりします。

「愛あるものを創っていきたい」私が居ます。