ココロド_黄月家K's weblog

考えすぎ? ココロド_心理カウンセラー_黄月家Kの 思考いろいろ、ものづくり、カウンセリング心理学、時々庭、時々日記です。

「怒り」と「怒りの意味」

学校のバラが美しいです。

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今日のお題は、「怒り」


理不尽なモノゴトに、「憤り」を感じます。

 

「憤り」とは、「怒り」のことです。

 

「怒り」は、醜いものと、
抑圧している方もいるかもしれません。
でも、「怒り」は、理不尽なことに直面すると、
誰でも、感じるものです。
人間は「怒り」という感情があります。
不必要なものなら、なぜ、退化しなかったのでしょう?

 

「怒り」にも、意味があり、役割があります。
必要だからこそ、我々人間は「怒り」を感じます。

 

「怒り」を感じることは、気づきのサインでもあります。
何かに気づく、サイン。
全ての感覚が、サインだったりします。

そして、感じる段階で、感情に優劣や善し悪しなどないということです。

 

では、なぜ「怒り」は、嫌悪の対象になるのでしょうか?

それは、「怒り」のエネルギーが、
抑圧などで、蓄積されすぎると、破壊的なエネルギーになり、
その破壊的エネルギーが、大きすぎたとき、
理不尽に廻りを巻き込んでしまい、
理不尽をばらまいてしまうからです。


その理不尽は、更なる「怒り」となり、理不尽さが、ループしてしまう歴史を
我々は、知っているからです。


交流分析心理学で、エリックバーンの言う、
つまり、「トレーディング・スタンプ」


今の言葉に置き換えると、嫌な気持ちは、会員カードのスタンプのように、
心にたまり、溜め込み過ぎると、「キレる」理由付けとなる。

その貯めてしまう嫌な気持ちや嫌な記憶のことを、「トレーディング・スタンプ」
「グレースタンプ」ともいいます。

私流の言葉に置きかけると、
「トレーディング・スタンプ」は、「毒」に置き換えて考えると、
解りやすいです。

たとえば、ネガティブストローク交流分析用語)的な、
嫌な言葉や、嫌な態度、理不尽な扱いと感じた場合、
「毒」として、心に作用します。
だけど、人と関係で、嫌なことが全くないこともまた難しい。

「毒」を感じたら、
その都度、休ませたり、回復させたり、デドックスしてやれば大事にいたりませんが、
「毒」を我慢、あるいは、無視して溜め込むと、
気が付いたときには、心が「毒」に犯されている
みたいな状態になる。
つまり、自分が「毒」(=理不尽や嫌気)をばらまく方になっている。

という訳です。


「怒り」


厄介だと思うでしょう。


「怒り」は、感じてイイです。
けど、自分が「怒り」に飲まれないような自分で居る必要もあります。
自分の未来と希望のためにです。

希望を手放さないで欲しい。
(私の心にも、そう言い聞かせます。)


「毒」がたまりすぎると、
もう希望なんて、夢にしか思えなくなったり、
ただ、ただ、今の苦痛から逃げ出したいから、
あきらめ、もうどうでもいい、
自分を放棄したくなる、
そんな時もある。

だけど、
自分の考えと行動の先に、自分の未来が待っている。
自分の道は、自分で選べる。
選べる。
自分らしい自分で居よう。
そう、願う。
願うことぐらいなら、何もなくても出来る。


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行き所のない たまってしまった「怒り」は、どうするの?

そう思うよね。

 

少しずつ、適切に、合法的に、デドックスしましょう。

 

たとえば、少しの愚痴ぐらいは、自分に許す。
たとえば、専門家(心理カウンセラー)に理解して貰う。
たとえば、「怒り」を言葉や手紙で伝えてみる。
たとえば、自分だけの「日記」に、「怒り」を書きまくる。
たとえば、アートや音楽、文学で昇華する
たとえば、自分が自分自身を取り戻すまでは、何かに没頭する
たとえば、スポーツや、ゲームで、合法的に戦う。
たとえば、散歩して、忘れる
たとえば、楽しいことを想像する。


インナーチャイルドセラピー理論だと、
他の心理カウンセリング理論もそうですが、

「怒り」は、安全な場所で、出してあげるという、手法をとります。

「怒りの対象」に近づくと、自分を忘れてしまうこともあるので、
自分を忘れても良いところで、「怒り」を出して、
「怒り」が、自分にとって、何を意味しているのか、
感じ取れるようになれたら、「怒り」が少し消化できます。


そして、「怒りの対象」
「毒=ネガティブストローク=自己否定感」を感じるものからは、

できるかぎり、物理的な距離をとりましょう。


物理的な距離が取れないときは、心の距離を取りましょう。
「私は私、あなたはあなた」「私は、あなたと違って良い」
「私は、あなたと違う気持ちや考えで、いい。」

そして、
「私は私を、投げ出さない。自分のことを、人のせいにしない。」
自分を守れるのは、自分自身なのだと、
私は、自分を守れると、自分を信じて欲しい。

 

自分のまわりが、


「怒り」だらけの世界にみえることもある
理不尽がはびこっているようにも思える時もある
弱肉強食の世界にみえることもある

 

だけど、
前の時代より、理不尽さを当たり前にしない傾向も出てきてる。
理不尽が何か? 「認知の歪み」や学問的に理解できる時代にもなってきた。
脳科学が、人の感情や心を解明しつつある。

 

2極化しつつある社会にみえるけど。

だからこそ、

自分の生き方を選択できるんだ。

自分の選択する力を信じて。
自分を信じて。
信じれる自分で居て、
信じれる自分になる。

 

それが、人になるというコトなのではないか?

 

人は、苦虫と共に、人は悲しみも、喜びも、同時に、
人は、矛盾を抱えた生き物で、人は、決して片面じゃない
だから、人なんだ。

と、私の思うのです。


さて、自分の中の幼い頃に溜め込んだ「痛み」や「怒り」と
どう向き合いましょうか。

対象を変えて、姿を変えて繰り返す怒りの正体を、
ご存じですか?

 

自分に組み込まれしまった、痛みのカケラと、
いつも戦っているような・・。
新しい私が、助けてあげればいい。
私は、常に新しく、でも、私は私自身のままで

ね、矛盾しているでしょ

でも、矛盾が可能なのが、人間でもあり。

 

私は、私であることを選択したいです。
信じれる自分。
そのために、何ができるかな?

 

私の「怒り」の意味は、
今日のブログの内容から感じるに、「自分を保つ、自分になる」ために
感じた怒りなのかもしれませんね。
私が、理不尽に怒りを感じてしまうのは、
理不尽に自分を奪われるコトへの懸念なのだと、感じるとることができます。
だからこそ、自分が、理不尽になることへの嫌悪も感じたり

今日は少し、最近の私にしては、ちょっと感情的かな?

 

痛みを抱えた自分を、私は、受け入れようと、しているんだね、きっと。


「怒り」についての過去のブログ

 

kizuki-ya-k.hatenablog.com

 

 

kizuki-ya-k.hatenablog.com