ココロド_黄月家K's weblog

考えすぎ? ココロド_心理カウンセラー_黄月家Kの 思考いろいろ、心理分析、ものづくり、時々庭、時々日記です。

人生脚本、自分を「生きる」ために。

9月は、防災の月でもありますが、

東京都の「自殺対策強化月間」でもありますね。


母の亡くなった翌日、山梨の実家前から望む虹

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今日のお題は、交流分析心理学の「人生シナリオ(脚本)」です。

交流分析では、「脚本分析」のことです。

 

人は、知らず知らずのうちに、
「こう生きよう」と、既に自分の生き方のプランを持ち、
それを特に大事な場面で、強化して生きていると習性があります。


簡単に言うと、

自分で情報を吟味する能力が発達する前(物心つく前)に、
親や環境の影響を受けて、
無意識的に「このように生きよう」と、
無意識に自分に架してしまっている「人生プラン」のことを言います。


俗な言い方をすれば、
「刷り込み」であったり、
「思い込み」であったり、
昔の物語上でたとえると、
「呪い」に近いものであったりもします。


自分に不利な生き方を選ぶ方、
失敗や自虐を繰り返すクセがある方、
こだわりが強すぎる方、
などは、概ね、人生脚本に、自虐が組み込まれているかもしれません。


自殺も、うつも、人生脚本が多く見られます。


人生脚本は、
ドラマの脚本に似ています。
ドラマでも、展開は、人生脚本の装置(架せや条件)と、
同じ役割が、同じように使われます。


しかし、「人生脚本」は、
脚本に気づき、変えたいという気持ちがあれば、
シナリオを書き換えることも、可能になります。

 

自虐的なシナリオを、変えるために「再決断する」療法もありますし、

書き込んだ時の強いトラウマの記憶を、紐解くことで、
別の視線からの科学的な解釈で、
強い感情を癒やしながら、
望むシナリオに、書き換えることも可能になります。

 
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交流分析の脚本について、もう少し詳しく知りたい方のために、
参考文献と、webサイトを下記に紹介しておきます。

 

心理カウンセラーの種

脚本分析(人生脚本)とは|無意識に繰り返される人生のパターン - 心理カウンセラーの種

 

脚本分析 (Transactional analysis series (5))

脚本分析 (Transactional analysis series (5))

 

 

ビジネス心理学_人生脚本とは

人生脚本とは | ビジネス・心理学用語集:意味・解説など | ビジネス心理学

 

・禁止令、
・対抗指令、の他にも、
・結末(否定的な結果のイメージ)
・誘発刺激(否定的な結末を挑発する働き、悪魔のささやき)
・行動範例(親の行動モデル見本)
・脚本衝動(脚本からの脱却を壊す衝動)
などなど、他の脚本装置があります。

たとえば、

「人は早死にする」「自分は病気になる」
「自分は不幸になる」などと、言う人は、

「人生脚本」に、そういう否定的な要素が組み込まれている
ということになります。

紐解いていくと、原因が解り、その脚本を実行する必要性が、
本当にあるのか?、
今の視点と、現在の感覚や知識で、
再検討すれば、良いのです。

必要なら、新たな、
「心地よい人生脚本」に書き換えればば良いのです(笑)。

 

自分自身が、自分自身のために、選ぶ人生のために。

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--

この夏に、母が亡くなりました。
度々、実家に帰り、実家の人間関係に障ると、
ひどく、心が乱れたり、疲労したり、体調を崩したりします。

自分の心の整理も兼ねて、私自身の「人生脚本」を振り返りたいと思います。

 
母は老衰。徐々に弱っていたので、突然のことでもなく。

母が亡くなり、喪主の父のサポートをするために、
距離のある実家に、行ったり来たりしました。

いろいろ考えました。

 


一説には、人は「親を選んでくる」といいますが、
私にはその意味がわかりません。

 


私はなぜ、あの母の子に生まれたのか?

逆に、「子は親を選べない」ともいいます。
私には、その言葉の方が納得できます。

出来ることなら、親なんて居ない方が良いとさえ思い続けた日があります。
そう言うと、私の事情を聴きもしないで、
私のことを、人は「悪い子とか、ダメな子とか、不良」とか言うのでしょう。

 

何も知らないのに、
親が正しくて、子どもが悪いという、
親子の上下関係が固定化した
絶対的二分法思考(決めつけ)の自動思考(思い込み)が、
未だに、根強いと感じます。

自動思考(思い込み)で歪んだ人間ほど、
人の話や事情や言葉を聴かない(苦笑)。
思考しないから客観的で対等で平等な目線を持たないのが
認知の歪み(否定的自動思考)の特徴です。
考えないから、創造力がなく、決めつけが得意な思考です。


みなさん、そろって一方的に言います。
「あなたが立派になったのは、母のおかげ、母に感謝しなさい。」
その言葉を聴く度に、吐き気がし身体の節々が痛くなり、呼吸するのがやっとです。

 
--

今回感じたいのは、
私の知っている母と、他人の知っている母は違うのだという事実です。

参列くださった、他人は、母は面倒見が良い優しい人だったと言いましたが、
私の記憶には、怒り狂った鬼か妖怪か?という母の顔の記憶しか残っていません。

率直に母が亡くなったことは、私にとって、
「あぁ、もうあの人に傷つけられることはなくなる」という、平坦な気持ちでした。
私の平坦な気持ちを、非難する人も居るでしょうけど、

心理カウンセラーとして、この言葉を聴くと、「どうして?」と、
事情を聴きたくなります。
心を観る人と、心を観ない人の違いなのでしょうか?

 

誰だって、親に愛されたいし、
親に可愛がってほしいですから、
親におべっか使うことすら、覚えます。

 

しかし、そうして、本当の自分と、否定的な親に好かれたい私の、
二つが分離してしまうと、病理になりなります。

そうして、母のもう一人の子ども(私とは縁の遠い兄弟)も、
統合できない自分を抱え、不統合な状態になって行きました。

人格の同一性が無い状態では、
依存か、共依存か、いずれにしても、自律は難しくなります。


依然、答えの見つからない疑問、
「私はなぜ、母の子どもに産まれたのか?」


私が「物心ついたとき」から、
「私はなぜ生まれたのか?」という疑問がありました。

後に、大学で哲学を学び、実存主義「人の存在」を研究する発端になった
疑問だったと思います。


幸せな人は、自分がなぜ生まれれたかなど、考えないですよね。
私は「自分を疑う」、根底が、「物心つた時」からあったことになります。


「私はなぜ生まれたのか?」
の答えは、未だに分かりませんが、
生まれて良かったとか、思えないから、
生んでくれてありがとうと思うことができません。

依然、なぜ、「私を産んだのか?」
私の否定をつづけ、私が居るために、母の苦労が増すと言う、
「お前のために、苦労している」と恩を売る母、

なおのこと、なぜ、「私を産んだのか?」
私に知識が増えるほど、疑問の強さが増します。


私は愛された記憶はありません。
学費などは、出して頂きましたが、
幼い頃は抱っこされた記憶も、
手を繋いだ記憶も残っていません。
あったのか、なかったのか。

両親は忙しく、私はいつも一人でした、


小学生の頃は、犬と夕方の空や夜の星を眺めて毎日を過ごしました。
ご飯はテレビと共に。
私は居なくてもよい存在でした。

私の家は、家業があり、両親の仕事場で、
私にとっては家ではありませんでした。

私の居場所はありませんでした。

私の友達は、風と、水と、山と、空。
夜の月と星。

家に帰るより、夕暮れや夜の空を見ている方が、心が楽だった。


私が忙しい母を気遣って、「何か手伝おうか?」と、
幼いなりに、声をかけたら、
むしろ、
母は忙しい時に、子どもの私を見ているとむかつくらしく
「お前の顔を見ているとムカムカする、あっちへ行け」と、
言い捨てました。

私は存在してはいけない存在でした。

これ、交流分析的心理学の、人生脚本でいう、
禁止令の一つ、
「存在の禁止」がかかる状況です。
「存在してはいけない」という、
親の未熟さから発せられた言葉を、
物心ついていない幼心には、命令のように潜在意識に組み込まれます。
そして、この禁止令が、無意識に、自分の人生に作用して行きます。


私の中の「存在の禁止」は、かなり、ガッツリ強かった。

私は物心ついた時から、「死のう」「私は死ぬ」と思っていました。
子どもの頃から、17才になったら、死ななければ、とも思っていたし、
私は、必要ない人間で、死んだ方が良いと、子どもの頃からずっと
なんとなく思っていました。

大人になってからも、
「死」を意識して生きました。
「死」の近い危険な深い海の仕事を選んだり、
「死」が近づくまで、自分を駆使して、過労を続けました。
まるで、「死」に急いでいるように。


人生脚本を紐解いて行くと、
もっと、いろいろ出来てきます。

私が生まれて、嫉妬した10才年上の訳あり兄弟が、
私に言い続けた言葉は
「お前なんて死んじまえ!、お前なんて死んじまえ!」
あげく、私が初めて覚えた言葉が
「お前なんて死んじまえ!」だったとか、
後に聴かされた。

家の人は、その兄弟を哀れんで、放置。

虐待は、それを放置する人の存在で、強化されるもの。
兄弟の行為を放任した家族。
母の言動を放置する家族、親を美化するた親類。
家族という、闇。


母は常に私に言っていた。
「そんな子は、要らない。」
「お前は、橋の下から拾ってきた。」
「お前は、ダメな子」

私が、小学校から帰っても、
「おかえり」の言葉もない。
私は、いつも存在していないのと同じ。
母や兄弟のためにも、存在しては、いけなかった。
ずっとそう感じて来た。

母の気持ちに添わない時は、
目上に逆らうな、
という母のルールを忠実に守る無抵抗の私を
母は、乱暴にたたきつけ、
私の髪をつかんでコンクリートの床を引きずった。
翌日、私は唇腫らして中学に登校した。
友達に、お前んち変だな、と言われたけど、
その時は、私は、変の意味が分からなかった。
そんな、変な家だった。

結局大人になっても、

私は、母に好かれたいために、
優秀でありたいと思い、
優秀を示す職業について、知識を沢山つけた。
だから、母のご機嫌取りのために、
実家の仕事を継ぎたくはなくなった。


私が結婚した後、

母は言った、
「あ~あ、結婚するなんて・・大学行かせて損した。」
と、私の幸福を望まず、私自身の気持ちを知ろうともしなかった。
性別の偏見も、強かった。

そもそも、後取りの私が、女だったことで・・・
たくさんの、職業や結婚など、
差別的な言い方を、沢山された。

ということで、
私には、「性別の禁止」(禁止令)もかかっている。

私が、幼い頃から、男勝りであったり、
現在も中性的なのは、性別の禁止の、影響は否めない。

生徒会もやって、大学も卒業して、
教員免許も取って、就職もして、結婚もして、
親の描く良い子は叶えたと思うが、
私のどこが「ダメな子」なのか?
と 突き詰めると、親の私への偏った欲求を感じざるを得なかった。


母は、いつも、私にはヒステリーで、
結局、母の意に沿わない私に、
自分の目が黒いうちは、家に帰ってくるな!、出て行け!
二度と返ってくるな!!。と、
私を、追放した。
それが、私と母の、関係の最後です。

 

母の言葉をたどれば、

最初から、私は、橋の下で拾われた訳で、
私には、親は居ない訳で、

ただ、私が18才まで育った、環境から、
排除されたこと、
返る故郷がなくなったことで、
私が思うより、私の心がダメージを受けたようで、
母が繰り返した「お前はダメ」という、メッセージを
無意識に入ってしまっていたのもあり、

その出来事の後、私は、
18才以前の、楽しい事が思い出せないという、
部分的な記憶を失った。
実家の友達や知人のとの縁も遠くなる。
私の18才以前の人生が、暗黒に書き換わった、
という、いわゆる、「ウツ」に陥った。
18年ほど前のことだった。

「ウツ」に陥った2年間、
私は「死」ばかり、追った。

まんまと、私の人生脚本に組み込まれている、
「存在の禁止」という、禁止令に導かれ、
「死」を望む、時期が、あった。


私の「人生脚本」を、更に、紐解くと

私の、禁止令への「対抗指令」は、「頭が良い」こと、だった。
「対抗指令」とは、禁止令をかいくぐる、条件として働く。
導き手でもあり、「ドライバー」でもある。

母は、常に私を「ダメ」と言い続けたが、
学生時代、私はIQが高かったという話を先生から聴かされて、
心が救われたこと、
その先生が、私を認めてくれたこと、
そんな経験が、「頭が良い」がドライバーになっているのかもしれない。

(私なりの「頭が良い」が、成績の概念でなかったことは救いでした。)

そして、私は、
母の意に沿わず、私なりの「頭の良い」道を選び、
沢山のことを学び、ウツも克服し、生き続けて来た。
ことになる。

ただ、「ドライバー」はドライバーで、
強すぎる場合、負荷もあるので、
一概に、良いだけのものでも、ないのですが・・。

私が「ウツ抜け」した時、思ったのは、
自分のが生きているのは、「奇跡」だと、
それほど、自分が「死」に呑み込まれていた時期があった。
18年経つ今は、忘れつつある痛みもあるけど、
確かに、そう思った、時があった。


人は、生きるために忘れてしまうことも・・あるね。
不思議だけど。
生きていけないぐらい・・強い出来事や環境も・・
人生のうちに、起こったりすることもあるね。

--

私自身の話、

私は感性豊かで、音楽やものづくりが好きで、

母は、それが嫌いで、
私のやることなすこと、否定しました。
「「哲学」「芸術」気違いのやること」
そう言い放たれた私は、それでも
「哲学」も「芸術」も選んだ私は、
いつも、自分は狂ってしまうのではないか、と、
どこかで思っていたりした。
これも、
母の言葉が、根底にある人生脚本の、「結末」だったと、解ると、
私は、狂わない、と、自分の脚本を決めることで、
私の維持できる範囲での活動で、自分らしい自信を持つことが出来た。


---

人は人の中で生きて、
だからこそ、

多かれ少なかれ、人の影響を受ける。

それが、もし、不必要で、不自由な、否定的な未来なら、

脚本を見直して見るのも、一つの手だということを、
今回は、ここに記したいです。

--

そして、


今回一連のことで、
子どもの頃からの疑問の答えを、
今回、自分に出した気がしました。

あぁ、私は、家を出て良かった。

あのまま、あの家にいたら、
間違いなく、(脚本を実行して)「死」を選んでいた。


あぁ、私は、親に排除されたのでなく、
私は、親の描いた人生を捨てて、
自分の人生を、選んだのだ。


私は、家を出て良かった。

 


家族の優しさは結局得られなかったけれど、
家に居たとて、家族の優しさはなかったと、
やっと解った。

子どもに犠牲を強いる、そんな風潮は、
あの場所では、今でも顕在だと感じた。

 

何より、母自身も、母の「人生脚本」に囚われていた人なのだと思う。
彼女自身、家族や姉妹から、幼さを否定され、
否定的な扱いを受けていたことを、母を知る旅の中で知った、時があった。

---

そして、
私がなぜ、あの母の子に、生まれたのか?


その疑問の答えは、
私が、自分で自分の人生を生きる、今のため、じゃなかろうか?。

その、知識と知恵と、チカラと心意気を、
私は手に入れたのではなかろうか?

私は、今、「本当の私と共に生きている」

--

不統合とか、
統合失調とか、

あっちの世界に行ってしまった感覚、

あっちの世界とは、
「本当の自分が不在の世界」なのだ、と
今回感じました。

いろいろな研究を見ると、

不統合とか、統合失調とか、
否定的な圧迫が、発症の原因になることが見えてきます。

 

「自分を、空け渡してはいけない」・・と、
苦しい時に聴いたamazarashiさんの歌詞が、頭の中に流れます。


--

前回のweblogから、随分間だが空きました。
とにかく、忙しかったです。

徹夜続きになってしまったり、ようやく、
夏休みかと思った矢先に、母の訃報。
お盆前日の夜に亡くなり、お寺や葬儀が都合が付かず、
葬儀まで1週間かかり、いろいろバタバタと、大変な日々が続いておりました。

徹夜や多忙が続きますと、やはり、
脳も心も体も疲れます。
実感します。

人間ですから。
身体も心も、お互いに作用しますね。

--


災害も多く、
大変な方も、おられると思います。
その唐突で、理不尽な痛み、どうお声をお掛けしたら良いか・・。


-- 

 

「私になる!」_自己実現。

あっという間に、5月になりましたねぇ。

白いちご、育ててみました。

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なかなか、おいしいです。
赤いイチゴは、赤くなったら鳥に先に食べられてしまうのですが、
白イチゴは、今のところ鳥に食べられることはなく、
収穫できるのが、とっても嬉しいです!。
味も、なかなか、ステキです!。

こんな品種でした。四季咲きってことは、更に楽しみ。

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赤いイチゴも、もう24年ほど育てております。

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みかんの花が咲いています。香りが良いのです。私は好きです。

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大輪のクレマチス、以前母の日に貰いました。毎年、その季節に咲きます!。
今年は少し早いか?

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weblog久々になってしまいました。

多忙でした。
昨年いろいろ試みましたこともあり、
いろいろな道が広がりました。

しかし自分の時間やキャパは有限で、
自分は、どう生きたいのか?を考える機会でもありました。

私自身は、活動することによって自分の存在を認知したいタイプ
いわば、仕事依存の傾向があります。
思うままに突き進むと、心身が限界越えしてしまう、経験を何度かしております。
ゆえに、やりたいことは、やりたいけど、
生気や体力を維持できるだけの、メンテナンスも必要性、
自らセルフケアすることが大事なことも、
心理カウンセラーや、メンタルヘルス指導員として、知っております。

ですので、
多忙だったといえ、それなりに、コーピングや息抜きは、
心がけて来ましたので、それなりです。大丈夫。

---

さて、今日のお題は、「自己実現

 

自己実現とは、心理学的には、
ユングの考えが元になておりますが、

多くの心理学者、哲学者、芸術家、同じように考えています。

 

自己実現」とは、
自分らしさを活かして、社会に調和している状態といいますが、
つまりは、
自分らしさとは、自分自身そのものの意味で、
「自分を実現する」という意味になります。

 

「自分になる」とでもいいましょうか。

 

私は私であるけれど、
元から私であったわけでなく、多くの影響を受けて今の私が存在します。
そして、今も影響を受けながら生きている。
常に、一つの私であることは、むずかしく、
いやむしろ、一つの面に限定されてしまうと、歪みが生じるゆえに、
人の身体は個体でありながら、人は流動的な存在でもあり、
毎日、変化していくものでもあり、
しかし、それでいて、ある一定性というますか、
特性といいますか、
そのようなものが、私を私づけているものであったりします。

人からみた私らしさもあれば、
自分の中に、理想もあれば、理想とは逆の許容に時間のかかる私もいます。
そして、自分の気づいていない自分もあります、
可能性や潜在的なものを含みます。

 

人は、考えや気持ちや身体などがあり、
葛藤や不統合を起こしやすい性質の生物です。

ゆえに、常に、悩んだり、迷ったりしながら、
小さな選択を重ねて成長していると言っていいでしょう。

そして、過去が今に繋がってきたように、
今日が明日に、今が先に影響していきます。
変わって行くことが出来るわけです。

つまり、人は、未確実な不確かな未来だからこそ、
今に意味が生じると言えます。

 

「今をどう生きるか?」

 

つまり、「自分はどう成りたいのか?」と同じ意味があるというわけです。

そしてまた、自己が確定のものでない現実、
自己にも、過去、今、未来、未知があり、不確実で不確かで、
だからこそ、可能性があるともいえる、自己。

どこに向かっていくのかは、
自己を創ることと同じ。

私の時間とキャパは有限。
何でもチャレンジしたいし、何でも知りたい。
けれど、私は有限。
私は、今をどう生き、どこに向かうのか?

もう、平均寿命の折り返し地点を越えていた。

過去に実行を望んだことも含め、
どうしたいのか?を再構築していく必要がある訳ですね。

そして私は思う、
「私らしく居られる、時間、仕事、関係を大事にしよう」と。
私が私であるために、私が私の全てを発揮して世界と繋がっていけるために、

私は私になるために、生まれてきたのだと、
私は私になるために、これまでの痛みと出会ってきたのだと、
私は他の誰でもない、私になるために、
私は、私らしさを活かして、必要とされ、
私の足りないところは、誰かに助けていただき、
感謝しなながら、生きいける、
そんなふうに、私らしく有りながら、
他者に感謝できる、そんな私であれる場所を好もう。

私は、つくることが好きで、
私は、強くないけど、不思議がある。
私は、考えることが好きで、
私は、型破りで、
私は、発想が自由
私は、人が好きで、
私は、助け合うことが好きで、
私は、繋ぐことが好き
私は、ハイセンシティブでありながら、ボケている。
私は、心を描くことが出来きる。

そんな私でいられることやものや、関係を大事にしよう。

心ちぎれても、消え残った意味は、きっとそこにある。

 

今、そんな気持ちが、心の底に流れております。

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どうぞ、ご自分を感じる時間を、
自分づくりのために。

自分メンテナンスの時間は、
自分の「心に栄養」になりますよ。

みなさんの、自分らしさ談、お逢いしたときに、是非聴かせてください!!。

「トラウマ」の何が、何?

うちの庭のクロッカス、今年も咲いてくれました。キレイです。

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スノードロップも、寒さに負けず、

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クリスマスローズも、寒空に、大輪です。

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 変わりなく、咲いてくれること、
特にお世話してないのにもかかわらず・・・
ありがとう!。勝手に、癒やされます。

 昨年はこんな感じでした↓。

kizuki-ya-k.hatenablog.com

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今日のお題は「トラウマ」

 

「トラウマ」の何が何って・・

「トラウマ」とは、心的外傷、つまり、心のキズのことです。

 

トラウマの何が厄介かと言うと、
トラウマ(傷ついた経験)によって、禁止令(幼児決断)や、
否定的自動思考(認知の歪み)を生み出し、

その後の思考や気持ちや行動に、制限をかけてしまうことだと、
感じます。

 

禁止令についてのweb上の情報はいくつか見つけました。ご参照ください。

脚本分析(人生脚本)とは|無意識に繰り返される人生のパターン - 心理カウンセラーの種

「~~するな」という思い込み 禁止令について | カウンセリング 大阪の心理オフィスステラ

TA再決断療法とは?

否定的自動思考 認知の歪みについてのweb

認知の歪みの定義10パターン ~ 思考のマチガイを見つけるツール | Fernwelt

認知行動療法で自分の考え方のクセを知ると、心がラクになった - 30代女性が過労でうつ病になってから復職するまでの記録

 

 

人間が、実現傾向に応じて、
「自分らしさ」を認知し、受け止め、
「自分らしさ」を活かしながら成長しつづけるという、
本来の人間の傾向を、制限・抑制してしまうのは、
この、トラウマによる「自分らしさ」の抑制である場合が多いです。

「自分らしさ」を抑制すると、ストレスが生じるという構図から、
トラウマを抱え続け、自らに制限や抑制をしていると、
ストレスが増すという仕組みです。

「自分らしさ」とは、自己の得意不得意や、好み、快不快、性格・思考傾向や、潜在的なものや、成長段階や、先天的なモノ、後天的なもの、身体的なもの、内部的なもの、
いろんなものを含んでいるその人の特性、「あるがままの今の自分」です。

自分の価値観にとって、
肯定的な内容もあれば、
否定的な内容もあるかもしれません。


たとえば、
私の今の、「自分らしさ」で思うと、
やっぱり、「創ること」が好き、「自由」が好き、冒険好き、ドラマテレビ好き、理論好き、外面より内面好き、太陽よりも月が好き、歳や性別、体つき、体力、経験値、など・・
これが自分、と思う訳ですが、
この「自分らしさ」を、抑制することは、結構ストレスです。

たとえば、私にとってストレスフルな状況は、
拘束的な場面、ルーチン的な作業、外面だけの世界、
という感じです。

必要に応じて、一過的にストレスフルな状況に関わることもします、
しかし、成果も結果もないストレスフルな状況が継続するのは、
やっぱり、ストレスフル!フル!です。

 

「自分らしさ」を制限し続けると、おそらく、
心身症や病理に近づく傾向となることが多いです。

だから、
出来るだけ、自分の好きな方(心地よい方)を選ぶ、ように、
自分にあうものやことを選ぶように、
生活していくことが、「自分らしさ」を活かして成長する
選択の目安になるという訳です。

 

その、「自分らしさ」の抑制になってしまう、
トラウマで生じた、思い込み(禁止令や、認知の歪み)は、
恐怖心が、拭えない状態では、繰り返し、強化されてしまう傾向もあります。

 

歳を重ねていくと、頑固で頭が硬くなるという、傾向もありますが、
それは、禁止令や認知の歪みなどの、経験を
繰り返し、強化した状態のようにも感じます。

TC(交流分析エゴグラムでいう、
CP(Critical Paren)の高い状態と言えます。

「生きやすく」なるためには、その「自分らしさ」の制限になっている、
「否定的な思い込み」を、外していくことが、的確ですが、
恐怖心や防衛心がある状態ではなかなか、
「否定的な思い込み」に気づくことすら難しいのが、現状です。


人の、好き、苦手も、実は結構、自分の選択肢を左右します。

おそらく、人は人によって成長し、人によって傷つくからだと私は思います。

 

私の場合は、
人のコトを苦手と思うと、世界が狭まりそうなので、
「苦手」と思わないようにしようと、ムリに、自分に言い聞かせてきたのですが、
やっぱり「苦手」には、理由がありました。

トラウマが生じるパターンの人間関係を、
私の無意識は、既に、「苦手」と感じていたのです。

「苦手」なパターンに当てはまる場合は、
十中八句トラウマを強化するタイプの人間関係の場合です。


カウンセリング心理学の、
「近づかない」「距離を取る」という対応も役に立ちます。

--
私の中でのことですが、

以前、コミュニティーでご一緒した人の言葉の意味が、
今も解らず、時々、頭をよぎることがあります。
その言葉の意味が知りたいので、
自分の感覚とは、逆だった、あの人の言葉を確かめるために、
「苦手」に近づく、ということを、
しばらく繰り返していた自分に気が付きました。

しかし、やっぱり、「苦手」に近づいても、
結果は、毎回、後味の悪さだけが重なります。

 

やっと、自分なり答えがでました。

 

あの人の言葉の意味は、理解出来ないままだけど、
あの人の言葉を、いつまでも気にしている(囚われている)自分に気づきました。

結果的に、あの人が、あの時、どう思ったかは、
あの人の問題で、私の課題ではなかったのではないかと・・。

必要以上に、自分との関わりを感じていた
(自己関連づけ=認知の歪み)のかもしれないと

 

あの人が、たまたまあの時、私とは違うことを思った言葉は、
私にはそんなに大事な意味がなかったのかもしれいと。

 

そう思うと、

私の中で、あの人を、過大視(気にしすぎ)していたのかもしれないと。


そう思うと、
もう、その言葉に囚われる必要性のなく、
自分の感覚を信じれば、良いのだと、思えるようになります。

 

そう思うと、
私は自分の選択に、自信がなかったから、
あの人の言葉の意味を探りたかったのではないかと思えて来ます。

 

さぁ、
自分に自信を持って・・「自分らしさ」を自分で選んで進もう!
と、今日、改めて私は思いました。

 

トラウマってほどの出来事ではなかったけれど・。
あの頃の私からの、卒業なのかもしれません。

---

「防衛」は、必要な時は必要。

人間だもの。


心のキズが、小さくなるなら、防衛の時間も大事、意味がある。

継続し続けると、逆効果ですけどね。

---

寒い冬も、緩んできますかね?

どうぞ、みなさん、自分と会話する時間を大切に!。

 

不可解なことの、自己分析 「防衛機制」

あっというまに2月も中旬

冬は空がキレイですね。
うちから見える、夕暮れの空、
何気に、富士山見えます。

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これは、月食の、月、red moonです。

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 --
前回のweblogが、12/9でした。
月一で書こうと思っているのですが、
今回は、ちょっとムリでした。

それでも、なんとか、忙しいなりにいろいろこなしていたつもりでしたが、
大事な、心理学COの昇格試験が、不合格という結果に。

 

昨年は受かっていたので、
勉強もそれなりにしましたし、
受かると思っていたのですが、

回りの方も、私自身も、信じられない結果になり、
今の状況を解析すると、

「むむ・・私の無意識がなんかやらかした?」って感じです。


人は内面は、意識が1割、無意識が9割と言われています。

意識とは、違う事態が発生したとき、
たとば、ミスが連発するとか、
忘れ物が多くなる、
うっかり寝坊する、
何となく身体が不調、

そういう時は、無意識の仕業のことが多いです。

確かに、多忙ではありましたが、
多忙だからこそ
体調管理、睡眠管理の意識、食事の意識、コーピング、など、
気を付けていました。

だからこそ、何で? と思いますし、

だからこぞ、無意識の仕業と感じるわけです。

まぁ、自分以外の要素もありました、
天候不順や、他者のスケジュールの都合など、

そう考えると、「運」や「シンクロ」的な要素もあるのかも、とも思いますが、
これも、今のところ、私の中で意味付けが出来ませんので、客観的に解析不能です。

単純に、私の意識が思っているよりも、私の身体が疲れているのだろうと思います。
確かに、肩こりや、口の中の痛みや、胃痛など、思い当たる節はあります。

 

身体の疲れを、感じていないということは、
カウンセリング心理学では、
ホメオスターシス(生命維持機能)が機能していない状態」
という見立てですかね。
あるいは、「自己洞察が充分にできていない状態」とも言えます。

感覚が鈍っている状態ということです。
つまり、身体感覚と、意識がズレている
あるいは、身体感覚を無意識に無視している状態でもあります。

理想としては、
身体と心と思考の感覚が繋がれば、
問題にむけて、自ら調整が可能になります。

そのためには、
まず、心と体と意識を休ませる。

しかしながら、

休めない状態だからこそ、この状態になる訳ですし、
自分では、最小限ですけど、休んでいるつもりも、あったります。

が、身体と意識がずれているいうことは、
自分が疲れている状況に、気づいていないという理屈にもなります。

---

さて、無意識の自分は、いったい何がしたいのでしょうか?

---

 

前置きが長かったですが、
今日のお題は、「防衛機制

無意識と言えば、「防衛機制」ですかね?。


人の不快な行動は、大抵、「防衛機制」からなっている。
と、私は、感じます。

防衛機制」についてのwebでの解説例

 

防衛機制 - Wikipedia

防衛機制の一覧と例文 | カウンセラーWEB:心理学・カウンセリングの基礎知識

防衛機制 - 脳科学辞典 


意識しがたい不安や不快に対して、「防衛」的に生じる無意識的な働き、

ということにになります。

人の防衛機制は、防衛機制の知識持って、洞察すれば、ある程度は解りますが、
自分の防衛機制は、なかなか、意識しずらいところがあります。


なので、逆に、

理解出来ない状況や、意味不明の事態、など、
防衛機制という無意識君の、影と、捉えることができます。

思ってたのと違う、という時も、
逆に、クセになってしまっている時もあります。
でも、他人からみたら、意味不明。

さて、私の無意識くんは、今回どんな防衛をしたのでしょう?

可能性があるとしたら、
「抑圧」 : 不快な認知、感情、思考、記憶を記憶から忘れさせる
→疲れていることを、忘れさせていたのかもしれません。

「否認」 : 認めてしまうと不安になるので認めない。
→疲れていること、忙しいことを、認めてしまうと、スケジュール調整が大変なので、認めなかった可能もあります。

「隔離」 : 感情部分の切り離し、感情の麻痺
→疲れていることを感情として、認知していなかった。

「合理化」 : 本当の動機を自覚せず、理論で処理
→天候や、他の人の都合が関わって、うまくいかなかった

「反動形成」 : 反対の行動や傾向を表す
→忙しいから、勉強出来なかったと認めなく無いので、勉強した風の言動・行動?。

みたいな感じですかね?

ま、自問自答は、時間が経たないと客観的な答えに至らないために、
今のところ、推測の範囲をでませんが・・。

と、こうして、自分の自己の防衛機制のせいにしようとしていること事態、
すでに、防衛機制「隔離」や、「合理化」の要素も感じます(笑)


んん・・今日も、現状、迷宮入りな自己です(苦笑)

 

結局のところ、防衛機制があるということは、

防衛したい、「不安」や「不快」があるということでもあります。

自分の弱さを認めざるを得ませんね。

 

結局、弱さを認めることを、防衛していたのかもしれません。

実は、結構凹んでいます(涙)

--

では、また、どこかで!。

 

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http://jtc-web.jp/news/shosai.php?id=220

「傷つきやすい人、怒りっぽい人」

あっという間に12月ですね。

先日、空の真上に、虹が・・ なんか、イイことありそう!

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うちの庭のモミジも、鮮やかになりました。

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--

今日のお題は、
「傷つきやすい人、怒りっぽい人」

 

一見、正反対のように思えますが、
実は、要因に共通点があります。

それは、

劣等感(コンプレックス)

 

自己受容出来ていない劣等感(コンプレックス)は、
心の状態として、I'm not OK の状態です。

解りやすく言うと、

「自己嫌悪感」が根底にあります。

 

心理カウンセリングで「自己嫌悪」がうかがえる状態を、
「実現傾向が発揮されてない状態」と見立てます。

「実現傾向」とは、
カール・ロジャーズの理論で、
「人は、自分の持っている潜在的な能力や、自分らしさを発揮して、
建設的な方向へ向かおう(成長しよう)とする傾向」を持っているという内容です。

私なりに解説すると、
本来、人は、自分の能力を発揮して、成長するチカラを持っている。

そして、その自分の能力を活かして成長するチカラを発揮する条件は、
自分が「本来の自分」で居られる状態、ということです。

逆に、自分の能力を活かせない状況というのは、
「本来の自分」で居られない状態、
つまり、本来の自分の要素を、否定的に偏って捉えている場合です。


人は、身体や、考えや、気持ちや、行動など、様々な要素の複合体で、
想いの外、矛盾を抱えやすい構造になっています。

例)
「頭とカラダは別」← 身体反応と、考えの、矛盾や不統合な状態のこと
「キモ可愛」← 思考と 嗜好(気持ち?) の不一致や矛盾
ツンデレ」← 行動・態度や気持ちの不一致
「建て前」← 思考や行動と、気持ちの矛盾や不一致
「忖度」← 共依存的思考(思い込み)や行動と、気持ちや実際の法律などの矛盾など

自分の中で、矛盾や葛藤や不一致の状態があるとき、
その矛盾した状態の、あるがままの自分を受容できる状態の場合は、

たとえば、
人間は矛盾がある生き物、こんな時もあるさ。
今回はやむ得ないところは残るが、次に活かそう。
納得いかないところはあるけど、今の裁量では、これがベストだった。

などなど、自分で自分を納得できたら、
次回に向けて、経験を活かして、裁量の幅も広がるし、
他者の苦しい気持ちや、苦い経験も理解出来る、人間の深みにもなり、
更なる成長へ繋がる可能性も高まります。


しかし、
自分の中の矛盾を自己受容できていないときに、
あるいは、思考がパターン化(否定的自動思考)して、偏っている場合に、
自分の中の、片方の自分の側面を、「自己嫌悪」するI'm not OK の状態になります。
(「I'm not OK」とは、交流分析心理学の用語で「人生の構えの理論」)


I'm not OKの状況は、
自分で自分を抑圧する、あるいは、
自分で自分を酷使する、あるいは、
自分で自分をいじめるといいますか、自分を大事にしないといいますか、
「本来の自分」を傷つける方向に作用します。

つまり、
自己ケアが出来ない、
自己内部でエネルギーを消耗する、
という状態になり、成長どころでない状態が、自己内部で発生しています。
そういう状態では、
他人と交流するエネルギーすら維持できなくなり、
更に内向的になったり、ひきこもたりしてしまうと、
自力でもエネルギーの確保が難しく、
外部からのエネルギーも届きにくくなるという、
悪循環にも・・。


「傷つきやすい人」は、
このI'm not OKの状態で、
ただでさえ、自己内のエネルギー量が少なくなっている状態で、
更に、自分を責めるタイプと、考えられます。
自分に自信がないので、他者の言葉に必要以上に過敏に反応してしまう
外部準拠の思考サイクルと言えます。


「怒りぽい人」は、
I'm not OKの状態で、
弱い方の自分(自分の一部)を切り捨てることで、
心を強くしようとムリをしているタイプと考えられます。
心理学用語でいうと、
防衛機制がはたらいているタイプ。
たとえば、
抑圧(弱い自分を拒絶する)
否認(弱い自分できない自分を認めない)、
隔離(弱さの感情を麻痺)、
置き換え(否の対象をすり替える)
合理化(他者を批判して正当化する))、
打ち消し(反対のことをしてなかったことにする)
反動形成(正反対の態度や行動)
などの無意識的に防衛機制が働いている状態と考えられます。

自分を維持する(守る)ために、
事実や他者を否定する態度や思考を持つ
外部準拠のサイクルと言えます。


どちらも、本人も周囲も辛い状態が、あると思います。


では、どうしたら良いかと考えますと、
1)まず、自分の「I'm not OK」の状態に気づく(自覚する)。

これ一番大事です。
人は、実現傾向を持っていますし、
生命維持機能の感覚が戻ってくれば、
バランスを維持しようとする生理的機能(=ホメオスターシス)も機能します。
いわゆる自己治癒力。
人は、本来なら充分な機能や能力が備わっているのですから。


もし、その先を、
私が心理カウンセラーとしてファシリテートするとすれば、

2)自分がどうしたいのか、自分の欲求や希望を探る(「I'm OK」の方向を探る)。
3)自分の内面や自分のカラダの状況など、自分の別の側面を知る。
4)2と3の調整点を、ひとつづつ、少しづつ試して、「I'm OK」を増やしていく。

という感じでしょうか。
(実際はケースバイケースですが・・。)

--
今回、
「傷つきやすい人」、「怒りぽい人」を、
お題にしたかった背景には、

そういう人多いなぁと、社会事情に感じるからでした。

たとえば、
あおり運転、ネットリンチ、過度な批判、
心が表現できにくい風潮、言いたいことを言えない人々、
裏アカウント

--
「I'm not OK」の構えの背景には、「You'er not OK」の構えの存在があります。
2つの構えが相乗して、増えているようにも感じます。

交流分析心理学だと解りやすいのですが、

クリティカルCritical Parent(厳格・支配的)な性質傾向は、
「You'er not OK」の構えとして発せられる傾向がり、
「I'm not OK」の構え(=Adapted Child 順応・自己抑制した性格傾向)を
誘発する交流傾向があります。

つまり、

「You'er not OK(批判的)」の人に近くに、
「I'm not OK」の人間が増える。
という構図です。

 

状態を変えるなら、
「You'er OK」(=あなたはあなたで良い)で交流を始めると、
「I'm OK」(=私は私でいて良い)が、増えて、

「I'm OK」が生まれて、
自分の内部で自信(自己への信頼)を少しづつ積み重ねるることできると、
他人を批判したり、自分を抑圧したり、交流を閉鎖しなくても、、
自分を維持できるようになります。

 
理論上は、こんな感じですが、
実際には、行ったり来たりを繰り返して
少しづつ・・変化を受け入れる過程の時間経過が必要なので、
「You'er OK」で受容的な見守り役が、
そばにいるといいのかなぁと・・
思ったりします。

他人のことを「あなたはあなたで良い(You'er OK)」と
思えない場合は、
自分自身が、共依存(外部準拠)に陥っている可能性があります。
自分自身の確立ができていれば、
他人をコントロールする必要もなくなり、
他人が、どうであれ、自分は自分、他人は他人と、
それぞれの人生の課題を分けて考えることができます。

「You'er OK」の人が、身内や先生だといいのですが、
そこがクリティカルCriticalな場合は逆効果なので、、
心理療法や、心理カウンセラーが
お役にたてる場面というか、時代なのかぁと思ったりもします。

---

私の方は、と、申しますと、
しばらく取り憑かれていた(笑)I'm not OK の感覚が、
ようやく、取れてきました。

手順は、自分の欲求を、とにかくあきらめず伝えて、
回りを囲っていた「You'er OK」の壁を、
少しずつ・・変えてゆきました。
私にとっては、ベルリンの壁さながらでしたが・・。

まずは、自分らしさを活かしたい・・と、願います。

--
1月にアートセラピーの講座を
東京神田で、開催できることになりました。

詳しくは、

http://jtc-web.jp/student/info/shosai.php?id=332

今回は、アートの体験がない方でも、楽しんで参加出来るよう
選んだパーツを使って、レジンで、
アクセサリートップをつくってみたいと想います。
交流分析心理学を応用した、アートワークです。
作ったアクセサリートップは、お持ち帰りいただけます。

--

季節は、寒くなって来ました。
こんどは、自分の心を温めて、みませんか?

 

「理屈じゃなくて・・」_心理学

10月もあっという間にハロウィン。

今日の庭、スノーポールが咲き始めました。

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昨年のこぼれ種からの花。
たくましさに癒やされます。

カマキリさんが、ボンネットに乗っていました。

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今年も、おんぶバッタが沢山、飛び跳ねていました。

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東京多摩地方、昨日木枯らし1号でしたか?

秋も深まって参りました。

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さて、今日のお題は、「理屈じゃなくて・・」


ここのところ、weblogで、ずっと理論系のことを書いて来ました。


私の学士は、哲学と美術なので、
左脳と右脳の、両脳派と言いたいところですが、

実は、ここずっと忙しく、忙しいと、合理的になってしまいまして、
割と左脳優位だった気がします。

どちらが良いとか悪いかという問題でもなく、
今の自分(気持ちや、カラダや、考え、行動などなどの自分の各属性)に、
あった脳の状態かが大事でして・・

私の場合、左脳優位になると、
自分の気持ちやカラダの状態を、無視しがちになります。

こうなると、結構、自分がバラバラになりかけ、
同じ事をしても、疲れる度合いが、違うので、
自分の中の、それそれの自分を見守りつつ、
右脳や左脳を切り替えれたらいいなぁと思うこの頃です。


という訳で、「理屈しゃなくて・・」

「もし、自分の活動時間が、あとわずかだとすると?」
私は、どんな私を選ぶかな?と、ふと想像してみました。

私の場合は、哲学や、母校(大谷大学)で仏教哲学などを勉強していたこともあり、
死生観は、哲学的です。
哲学的には、人は生まれた時から、死に向かってベクトルが進む訳ですから、
死ぬことは、未来にあることで、
「生きる」ということは、死ぬ時まで、「どう生きたのか」、ということ、
という具合に、いつも、「死」を意識して、
「生」を生きてきたところがあります。
(理屈っぽくてすみません・・(笑))

 

そう考えると、
結構、自分は、いつも一生懸命、精一杯、生きてきたと思います。

「もし、自分の活動時間が、あとわずか」だとしても、
今やっていることは、どれも大事で、あまり活動が変わらない気がするのです。

たとえば、クリエイティブも、講師も、心理学も、養育も、
たぶん、今と同じ、変わらない。

なぜなら、自分が全力でしたいことだから。

他は、後回しにしたいことは、家事ですかね・・(苦笑)

そう思うと、何も生活が変わらないので、疲れる要素はそのまま


もう少し、頭を柔らかくして、逆に
「もし、時間があったら、何をしたい?」と考えると、

映画やテレビドラマを見たいでです。
お友達や、新しいお友達と楽しく交流の場を築きたいです。

そう考えると、ようやく、埋もれていた自分が、ウキウキを感じ始めた気がします。
そう考えると、やっぱり、今は、頑張り過ぎているなぁと・・少し解ります。

全力でしたいことをしていても、
忙しくなり過ぎると、
自分のカケラをどこかに落としてしまうのかもしれません・・ね。

 

かといって、頑張り時も、あると思います。
物事や、自分の気持ちにも、旬があります。
機会やチャンスにも、タイミングがある。

 

というわけで、

自己分析するに、
そもそも「理屈じゃなくて・・」と思う時点で・・
「理屈じゃないもの」に眼を向けるタイミング・機会と言うことでしょうか・・ね。

ものごとは、
流れと、リズムとタイミングが大事(笑)!!。
ということで、次の流れが始まるまで、
しばし、頑張り過ぎないように・・、
ゆるくなってみようななぁ・・


なんて、感じた今日、この一瞬でした。

--

みなさんのこの頃は、いかがですか?

よかたら、頑張り屋さんの、ゆるめのお話し聴かせてください!。

どうぞ、秋の夜長に、自分メンテナンスのゆるめの時間を!。

私の「アイデンティティー」とは、発達心理学より

10月になりました。
みなさん、いかがお過ごしでしょうか?

今年も、庭にぶどうが沢山なりました。今年もぶどうジャムをつくりました。

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今年も、庭に、あけびがなりました。今年は3つなりました。
味は、甘いのですが、今年は少し渋みがありました。

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今年は、忙しく、庭もあまり手入れ出来ませんでしたが、
毎年、楽しめるものがあるのは、楽しいし、気持ちをいやしてくれます。
お庭さん、ありがとう!!。

---さて、--

 

今日のお題は、「アイデンティティー」

発達心理学の中心的な理論である
エリク・H・エリクソンの発達段階理論によれば、

12才頃~20才頃の青年期に、
アイデンティティーの確立 対 アイデンティティーの拡散という
発達段階があります。

 
この「アイデンティティー」なるもの、
よく聞くようで、今ひとつ、日本語文化の中で解りづらいところを感じます。

一人の人間として、また社会の中で生きる上で、
あるいは、人として、自分自身を活かしながら、
社会と調和できる統合した人格像の基礎となるもの、なのですが、

ピンとこない人も多いと思いますので、
解説したくなりました。

発達段階の全容については、下記で参照できます。

 

発達心理学 - Wikipedia

エリク・H・エリクソン - Wikipedia


アイデンティティー」とは、辞書では、
「同一性」「主体性」「自己同一性」「個性」「連続する同一のものであること」
などの意味になります。

人間は、
身体、考え(認知)、気持ち、行動、などの複数の要素の複合体なわけですが、
これらが、同一性をもっていること、あるいは、
確立された同一性のある概念の存在が、「アイデンティティー」です。

 

人間は複雑なことに、
その複数の要素が同じ方向で、作用しない場合があります。

たとえば、
内心今日は気が乗らないが、建て前で、相手に合わせよう。
もしくは、
今日は疲れているが、がんばらねばならない。
または、
弱さを否定している自分がどこかにいて、無意識にいつも怒鳴ってしまう。

などなど、

 

そのような、身体、考え(認知)、気持ち、行動がバラバラな状態を
心理学では、混乱、葛藤、不一致、自己不一致、自己否定、防衛機制、不統合、統合失調、かい離、ペルソナ、・・
などなど、さまざまな状態を表す、言葉があります。

人間は、成長段階で、
乳児期に、養育者の養護から、安心や信頼を、あるいは、不安や不信を経験し、
幼児前期に、幼い自律行動に対しての、養育者の受容か否定かによって、
自律性か恥かを学び、
幼児後期に、幼いながらの気持ちを、受容か否定かによって、
積極的か、罪悪感かのどちらかを学び、
児童期社会で、受容か否定かによって、
生産性か、劣等感のいずれかを学ぶという過程の先に、
学んだことを基盤に、
自分で判断し、自分で行動する判断力を持つ心理的な発達段階へと進みます。

他人対して、信頼や安心をある程度もてない場合も、
自分に対して、信頼や自信を持てない場合も、
自分の気持ちに、罪悪感を持ってしまう傾向も、
自分に劣等感を持ってしまう傾向の場合も、

自分の考えや、気持ち、行動、あるいは、身体に、
自信が持てない状況になるのは、解る気がします。

そのような状態で、
自分で自分のことを選んだり決めたりして自律的な自分に変容していくことに、
不安やためらいが生じるのも、解る気がします。

しかし、

自分の気持ちや考えに責任を持ち、自分で自分の人生を選んで行ける自律性が、
アイデンティティーの確立」、ということだったりします。

アイデンティティーの確立」とは、
言い換えると、自分の主を、自分できる、段階のこと。
自分の主とは、自分の思考や行動などの選択基準が、親の判断であったり、規則であったり、他人や外部の評価基準であったりした段階から、
様々な経験から学んだことを、自分の判断で、物事を調整・応用できるようになる成長過程のことです。

養育期に、否定的な環境であったか、受容的な環境であったかは、
アイデンティティーの確立に、大きく作用します。

しかし、仮に否定的な環境であったとしても、
否定的な要素から、物理的にも心理的にも距離を取ることで、
自己の自律性を育てることもできます。
心の成長には個人差も環境差もあるし、
早いことや遅いことに、固執する必要もありません。

現代日本の場合は、親の保護期間も長い環境もうかがえ、
日本の、アイデンティティーの確立期は、概ね30才前後という見解もあります。

アイデンティティーの確立」と、
アイデンティティーの拡散」を、
補足的に、比較して、多角的に説明してみます。


--「アイデンティティーの確立」の対比図_ココロド編集--

 

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最近の、
他者否定的な風潮や、排他的な炎上や、
他者への固執的な事件や、社会現象の背景にも、
繋がるところが多いと、私は感じるところもあります。

 

では、自己の「アイデンティティーの確立」をするために、
できることは、どんなことか?
あるいは、他者の「アイデンティティーの確立」をうながすために

と考えますと。

今日のテーマの冒頭の方に戻りますが、

人間は、
身体、考え(認知)、気持ち、行動、などの複数の要素の複合体なわけですが、
これらが、同一性を持つこと、

つまり、自分自身を統合していくことに繋がります。
そして、その判断基準が、内部準拠(自分の意向)であり、
自分の行動や言動、考えや気持ちに「責任」を持つこと

です。

自分自身に責任を持つと、自ずと気持ちや考えや行動が深まり、
一致してきます。

第一段階の、
方法としては、自分自身の好きなところも嫌いなところも、
受け入れる(受容する)ことから、始まります。
自分を知るということでもあります。

 

他者の「アイデンティティーの確立」をうながすためには、

他者の、考え(認知)、気持ちを、聴いて、
他者が自分の気持ちや考えを持つことができる、環境を作ることが必要です。

そして、その気持ちや考えに、責任を持たせる対応が、望ましいです。
対応することに、引け目または権威や加護を感じていると、
他者の自律が難しくなります。
対応する人自身も自律的モデルであることが望ましいです。

やがて、自分のことを、自分の技量や要領の善し悪しを知って、
自分にあったコトやモノ、
自分を活かせる環境を自ら探し出せるチカラを発揮するために、
自律していく方向で、見守ることが、
他者の「アイデンティティーの確立」に役立ちます。

--

とはいえ、
私自身は、エリク・H・エリクソンの発達段階理論に置き換えると、
成年期_中年期の、アイデンティティーの再構築期にあたります。

青年期の「アイデンティティーの確立」の後も、

家族環境が変わったり、カラダの状態が変化したり、
社会が変わったり、

これまでの、自分で居続けることが難しい状況も、多々出て来る時期でもあり、

もう一度、
自分とは、何者で、どんなことを望んで、どうなりたいのか、
どんな風に、生きていくのか、
自分の「アイデンティティーの再構築」をしている最中です・・。

でへへっ。

 

自分がバラバラになりそうな時は、

10分、時間をとって、
マインドフルネス、するようにしています。

--
秋の夜長と申しますが・・・

自分の内面と向き合ってみるのには、良い季節かもしれません。

どうぞ、ステキな秋をお過ごしください。