ココロド_黄月家K's weblog

考えすぎ? ココロド_心理カウンセラー_黄月家Kの 思考いろいろ、心理分析、ものづくり、時々庭、時々日記です。

「思いやり」の「ホンモノ」

「思いやり」

今日のテーマは「思いやり」

「思いやり」には、「ニセモノ」と「本物」があります。

「思いやり」と聞いて、嫌な印象を持つ人は、
おそらく、ニセモノの「思いやり」、
押しつけや、見返りを目的として
他者コントロールとして、派生した「思いやり」が
身の回りに多い人なのでしょう、
と私は思います。

「思いやり」と聞いて、温かい印象を持つ人は、
心の伴った、行動や気持ちを受けとって、
心のチカラになった経験がある人、
と、私は察します。


たとえば、「手伝い」って、
本当に、手伝う対象のことを理解していないと、
逆に足手まといになります。
でも、気持ちがあれば、
理解しようという方に、言葉や行動が伴います。

やがて、

手伝う側と、手伝われる側ともに、
気持ちと結果が、結びます。

気持ちがあるということは、
カウンセリング心理学的には、
「感覚や身体」を見ていると解ります。

心が(ともなわ)ない人は、「感覚(感情)や身体」が、
考えや言動と、合わない状態「不統合な人格像」に陥っていると言えます。

知識優位、理想や規則、マニュアル(CP)優位になると、
「不統合な人格像」に陥りやすい状態となり、

自分の「感覚(感情)や身体」を、
軽視(ディスカウント=交流分析用語)して考えてしまいがちになり、

心と体が悲鳴を上げ初めても、気が付かないふりをして、
自分自身を壊していく傾向が増してしまいます。


「思いやり」って、なんだろう?


欲しいときに、丁度良い具合に、はまるものだよね。

それって、理解がベースあるから、丁度良いが解るわけだよね。

だから、「理解すること」なのだろう、
と私は思うのです。

自分が「手伝う」も、「手伝わない」も、
「やる」「やらない」も、「見守る」も、
対象にとって丁度良く、
自分にとっても無理のない可能な範囲であるからこそ、
それは「思いやり」として成立するのでは、ないだろうか?

「思いやり」が、「余計なお世話」の、思い込みの押しつけ
「思いやり」が、「やってやったのに」の、見返り共依存症
「思いやり」が、「もっともっと欲しい」の、依存症
「思いやり」が、「〇〇してくれない」共依存症候群←(欲求を伝える機能の未発達)

なぜ、「ありがとう」と心から感謝できないのだろう?

 

理解不足

↑ 観察力不全

↑ 考えるチカラの未発達

↑ コミュニケーション不全

↑ コミュニケーション力の未発達

という感じなのでしょう。


そもそも、

人の(身体に対して)精神の成長には、
「表現」が大事だということは、
憲法に書かれている通り。

人が人として(特に精神的部分が)、成長するためには、
コミュニケーションが不可欠、
だからこそ、「表現」が必要となる。
「表現」の原始的なものは赤ちゃんを見ていれば解りますが、
「不快」を「泣く」という行為で「表現」します。
もし、人間が、表現しなければ、何も伝わらず、
調整も出来ず、成長はおろか、「生きる」ということすら、
大変になります。

人の成長に「表現」が如何に大事か。
ましてや、精度が増す「調整」におちては、
更なる精度の「表現力」=コミュニケーション力が必要になると言えます。


だけど、最近の我々はどうでしょう?

コミュニケーション嫌いですよね。

何でだと思います?


みんな弱っているんじゃないかな?
みんな、コミュニケーションに参っちゃってるんじゃないかな?

ってことは、
質の悪い、コミュニケーション(表現)が沢山あるから、
コミュニケーション事態が、人の表現事態が、
嫌になりかけているのではないかな?

私は、自分の周りをみて、そんな風に思えた。


つまり、
「否定感」から、アンチ(否定の否定)に「肯定的」に
発想を切り返しますと、

「嫌なコミュニケーションは止めて、
良質のコミュニケーションを探せば良い」

ではないでしょうか?


「良質のコミュニケーション」を探しても、無いのなら、
自分で作り出せば良いではありませんか。

他力と自力の4WDで。
それが、自律ってやつな気がします。

一人では成立しなから、
やっぱり、上手く稼働するためには、
他力と自力の両方が、必要な気がします。

(他力の部分は、母学や、諸先輩方の教えも、
自分の中で、活きているんだなぁと、思います。)
自分も、他者も、活かす。これが、近頃の私のテーマのような気がしております。

 

では、
「良質のコミュニケーション」とは何か?


時々に、自分のコトを伝えることが、
相手にとって、一時的な打撃になることがあります。
どう解釈されるかは、特に、相手の思考ぐせに寄ります。

でるだけ、相手に都合が悪くないように伝えたいけど、
そうも行かない、お互いの利害が完全に合うことは、
なかなかないから、相手に不都合なことも、
伝え無ければならない場面があります。

つまり、「NOを伝える」こと。

「私は、違う意見を持っている」ということを、
伝えることが、必要な場面があります。


それは、「良」なの「悪」なの?


「良」「悪」の基準は、
価値感によるので、一概には判断は出来ない。
むしろ、メリットと、デメリットの両方を見えていることが、望ましい。
片側だけの視点では、「偏っている」思考に過ぎない。

だとすると、

「良」「悪」の基準は、
真実か、嘘か、の方が、解りやすい。

つまり、「ホンモノ」と「ニセモノ」。

真実なら、都合が悪くても、
受け入れざるを得ない。
嘘の上に、本物は建設できないよね。

嘘は、次の嘘を産む。
嘘は、信用できない。
嘘は、嘘の「思いやり」。


往々にして、
機能不全家族で育ってしまった人は、
NOと「言えない」
NOと「言わない」
ように、適応して育ちます。
自律的な意見を持つことが難しい状態です。


なぜなら、言えば、
「無関心(無視)」または、
「暴力的・威力的、理不尽的」に
出くわしてしまうからです。

(無関心と、暴力的な言動や行為をみると、
 コミュニケーション不全をおこす人格傾向が見えてきます。)
自分の傾向に、気づいているかいないかで、
その人がどんな人間関係を作っていくか、ある程度察することができます。


このように、負の連鎖を生むものを、
「悪質なコミュニケーション」と定義すると、

「良質なコミュニケーション」は、
正の連鎖を有無ものと定義できます。


正の連鎖とは、「心の栄養」になるもので、

 

「良質なコミュニケーション」は、つまり


交流分析用語で言えば、「心地よいストローク」と言えます。


ストロークについては、過去の記事を参照してください。
ストローク経済の法則で言えば、
「心地よいストローク」は良いストロークを産み、集まる。
ストロークが枯渇すれば、心も枯渇する。

水も、気も、お金も、ストロークも同じなのかもしれません。

 

私もふだん、
なるべく、「心地よいストローク」を創っていこうとしているけれど、
利害が合わないとき、「NO」な場面はある。

自分に無理をして、
自分を落として(I'm notOK)の立場で相手を持ち挙げるストロークも、ニセモノ。

他者比較の優劣の価値感で、
出口のない競争苦に陥っている世界の価値感に過ぎない。

やがて、自分か、他者のどちらかを滅して
終止符を打とうとする価値感に繋がります。

奪い合いとでもいいましょうか、
奪い合いに疲れたら、投げ出すという結末でしょうか。


自分を大事に、他者を大事に、
私もOK(これでいい)、他者もOK(それでいい)と自他を両立して、
時々、足りないところで助け合い、思いやって、
そこに、素直に感謝できて、感謝を伝えることができる、
そんな状態が、

「良質なコミュニケーション」なのだと
私は感じます。


人から奪わなくても、ケチな人から貰わなくても

ストロークは、自分の中にあるし、どんどん作り出せる。
自分がマイッてきたら、
自分自身に良質なターゲットストロークを与えたら良いんです。


ターゲットストロークとは、
丁度欲している、必要なストロークのこと。

休みたければ、自分に「休んでいいよ」と声をかけてやればいい。
泣きたいなら「泣いていいよ」と、
怒りがあるなら「なんで怒ってるの?」って、
自分を怖がらず、自分の話を聴いてやればいい。
誰も気づいてくれなっくても、
「自分、がんばっているね!」って、自分を認めてあげたらいいんです。

 

自分OK、他人OKを、知る過程で、
自分の足りない所を知る必要もあるでしょう。
自分の出来ないことを、他人が出来ることを知る必要もあるでしょう。

その時に、
他人を、少し尊敬して、
また、自分も、少し尊敬できる。

そんなことの積み重ねだと、私は思います。

「尊敬」というと、
服従」関係を思い浮かべてしまう人は、
上下の、人と比べる共依存社会に、適応しすぎてしまっていると感じます。

「尊敬」と「上下」と、「服従」は、それぞれ、独立して
考えたり、感じたりできることが、
「良質なコミュニケーション」のコツだと言えます。

そして、その精度も、もう少し、細かく
考えたり、感じたりできると、
更に、「豊かなコミュニケーション」が出来ると思います。

 

「思いやり」って?

 

「本物」と「ニセモノ」がありました。

「思いやり」とは「理解すること」でもありました。

「本物」とは、「真実」と捉えました。

「真実」とは、
「良い」「悪い」でなく、メリット・デメリットの両方を理解すること。

「尊敬」とは、「上下や服従」とは、独立しているものでした。

 

そして、私が、今日書きたかった内容は、

本物の「思いやり」とは、「プチ尊敬」なのだろう。

 

理解が伴って、本当の「思いやり」は成立する気がします。

理解するには、多少の「尊敬」が必要で、

たとえば、
「がんばっているなぁ」
「一生懸命だなぁ」
「応援してるよ」
「ステキだな!」
「もう少しだ」
「君の夢は素晴らしい」

みたいな気持ちが、理解から生じた気持ちが、
「思いやり」なんじゃないかな。

そんなことを思った、今日この頃でした。


--
最近、子ども関係の学校説明会などに行く機会が多々ありまして、
現実の日本社会が、これからどうなってくのか、
子ども達が、大人になった頃、
この日本はどうんな時代になっているのかな?
なんて、データを、目にします。

自己犠牲を強いる日本社会の限界点、
海外との経済(心理)の成熟の違い。

子どもがいなくなり、企業がなくなっていく傾向にある日本、

自分の眼で、本当(真実)を観る勇気、大事なだぁと思います。

自分は何を貢献出来るか?と、欧米の大学入試では問われるらしいですが、
自分に何が出来るのか?、

自分の真実(メリットとデメリットの両方)を理解できるって、
素晴らしいと思う。
自分の活かし方を知っている人だと思う。


「21世紀は〇〇の時代」なんて言葉もよく聴きます。
〇〇に当てはまるものは、本当に多様だと思う。

多様だと、理解力も多様性が必要になるよね。
だけど、我々の理解力は、逆行している部分もあったり、
広がってる部分もあったり・・と感じたり。


コミュニケーションが負に傾いていると、
やっぱり、それが本当に「負」なのかどうか、
「ホンモノ」観る眼が育つ方へ、自分を向けることも必要かなと思いました。


私は、何が貢献出来るか? と考えますと、
やっぱり、私の哲学に、行き着きます。

「愛あるものを作る」という黄月家の方針に戻ります。

やっぱり、「作る」ことで「愛あるもの」であること、
それが、やっぱり、私の心がむく方向なのだと、確信するのでした(苦笑)。
私にも、得意不得意があります。
保守より、「作る」でチカラを発揮できます。
実際には、毎日の現実の日々をなんとかするのが、めいっぱいではありますが(笑)・・

着実に、昨年も今年も、少しづつですけど・
地域や子ども達が自分に自信がもてるようなことに役立つ方向で、
「つくる」に取り組んだつもりですし、
今も作っている最中でして・・
相変わらず・・バタバタと過ごしております。

全然、時間ないけど、
あふれてくる気持ちや言葉の整理がてら、
書いてしまいました。

また、みなさんの哲学、聴かせてください。

「人は、何のために生まれたか」

「私は何のために生まれたか?」

青春時代の課題であり、
自己アイデンティティー確立時には誰でも想うこと。


「人は、何のために生まれたか」
人は「愛されるため」に生まれるのではなかろうか?。

だから人は単独から発生しない仕組みを用いて、
単独で成長できない仕組みを背負っているのではなかろうか?。

人は愛され成長する仕組み。
しかしながら、「愛」は充分でなく、
だいたいはほどほどで、

 

だからこそ、
その満たない愛を獲得するために様々な技能を身につけ
迷いながら成長するのではなかろうか。

成長する自分を愛することで
迷う自分を愛することで

愛を生める人になり、
成長する他者を
迷える他者を愛せる仕組みではないだろうか。

 

愛を、奪いつづける人になるか、

愛を作り出せる人になるかの

分かれ目は、

成長つまり、自我アイデンティティーの確立という境目なのだろう。
つまり自律性。


愛が充分感じられない人は、
自分の生まれた意味=自分を活かす方法をみつけることが
ぼんやりと遠く感じられる。

生きる意味などないとすら思うコトもある。

 

だからこそ、言おう、
人は愛されるために生まれたきたのだよ。
ニセモノの愛(条件付の愛)に踊らされないために、
人からニセモノの愛を貰うために自分を滅しないために、


本当の自分を

本当に愛せる自分になればよいのだろう。

 

見せかけでなく、
それは格好悪い部分も含むけど、

理想でない愛は、
現実の愛は、
痛みを知って居る。

格好悪い自分にそっと寄り添うことだたりする。

内側の本当の自分と一緒に泣いてくれることだったりする。

とりとめの無い、本当の心の話を、聴いてあげることだっだりする。

ただ耳を傾けることだったりする。

(考えと行動は別だから、それができる。)

---

あっという間に年の暮れになりました。
とにかく、私はむちゃむちゃのムチャクチャ忙しかった。

他者と自分へ愛を得るためであっただろうし、
他者と自分の生活のためであったと思うし、
他者と自分の未来のためと思っていただろうし、
向上心であっただろうし、
愛される自分になるためであったり、
愛せる自分になろうとしていたのだろう。

つまり、自分の存在意義の模索であったのかもしれない。

 

それでも身体が資本とはよく言ったものです。

人は身体という物理的な制限の中で、生きている。

そこんところ、まだ、自分で今ひとつ・・現実が遠く、
気が付くと、身体がボロボロになってたり・・
身体とココロは繋がっているから、ココロもボロボロになりがち・・。

自分でケアできるのが、本当の大人(自律性)でしたよね(笑)。
メンテナンスも大事ですね。

みなさまも、自分自身のメンテナンスも大事になさってください!。

明日もがんばれるために。

「怒り」と「怒りの意味」

学校のバラが美しいです。

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今日のお題は、「怒り」


理不尽なモノゴトに、「憤り」を感じます。

 

「憤り」とは、「怒り」のことです。

 

「怒り」は、醜いものと、
抑圧している方もいるかもしれません。
でも、「怒り」は、理不尽なことに直面すると、
誰でも、感じるものです。
人間は「怒り」という感情があります。
不必要なものなら、なぜ、退化しなかったのでしょう?

 

「怒り」にも、意味があり、役割があります。
必要だからこそ、我々人間は「怒り」を感じます。

 

「怒り」を感じることは、気づきのサインでもあります。
何かに気づく、サイン。
全ての感覚が、サインだったりします。

そして、感じる段階で、感情に優劣や善し悪しなどないということです。

 

では、なぜ「怒り」は、嫌悪の対象になるのでしょうか?

それは、「怒り」のエネルギーが、
抑圧などで、蓄積されすぎると、破壊的なエネルギーになり、
その破壊的エネルギーが、大きすぎたとき、
理不尽に廻りを巻き込んでしまい、
理不尽をばらまいてしまうからです。


その理不尽は、更なる「怒り」となり、理不尽さが、ループしてしまう歴史を
我々は、知っているからです。


交流分析心理学で、エリックバーンの言う、
つまり、「トレーディング・スタンプ」


今の言葉に置き換えると、嫌な気持ちは、会員カードのスタンプのように、
心にたまり、溜め込み過ぎると、「キレる」理由付けとなる。

その貯めてしまう嫌な気持ちや嫌な記憶のことを、「トレーディング・スタンプ」
「グレースタンプ」ともいいます。

私流の言葉に置きかけると、
「トレーディング・スタンプ」は、「毒」に置き換えて考えると、
解りやすいです。

たとえば、ネガティブストローク交流分析用語)的な、
嫌な言葉や、嫌な態度、理不尽な扱いと感じた場合、
「毒」として、心に作用します。
だけど、人と関係で、嫌なことが全くないこともまた難しい。

「毒」を感じたら、
その都度、休ませたり、回復させたり、デドックスしてやれば大事にいたりませんが、
「毒」を我慢、あるいは、無視して溜め込むと、
気が付いたときには、心が「毒」に犯されている
みたいな状態になる。
つまり、自分が「毒」(=理不尽や嫌気)をばらまく方になっている。

という訳です。


「怒り」


厄介だと思うでしょう。


「怒り」は、感じてイイです。
けど、自分が「怒り」に飲まれないような自分で居る必要もあります。
自分の未来と希望のためにです。

希望を手放さないで欲しい。
(私の心にも、そう言い聞かせます。)


「毒」がたまりすぎると、
もう希望なんて、夢にしか思えなくなったり、
ただ、ただ、今の苦痛から逃げ出したいから、
あきらめ、もうどうでもいい、
自分を放棄したくなる、
そんな時もある。

だけど、
自分の考えと行動の先に、自分の未来が待っている。
自分の道は、自分で選べる。
選べる。
自分らしい自分で居よう。
そう、願う。
願うことぐらいなら、何もなくても出来る。


--

行き所のない たまってしまった「怒り」は、どうするの?

そう思うよね。

 

少しずつ、適切に、合法的に、デドックスしましょう。

 

たとえば、少しの愚痴ぐらいは、自分に許す。
たとえば、専門家(心理カウンセラー)に理解して貰う。
たとえば、「怒り」を言葉や手紙で伝えてみる。
たとえば、自分だけの「日記」に、「怒り」を書きまくる。
たとえば、アートや音楽、文学で昇華する
たとえば、自分が自分自身を取り戻すまでは、何かに没頭する
たとえば、スポーツや、ゲームで、合法的に戦う。
たとえば、散歩して、忘れる
たとえば、楽しいことを想像する。


インナーチャイルドセラピー理論だと、
他の心理カウンセリング理論もそうですが、

「怒り」は、安全な場所で、出してあげるという、手法をとります。

「怒りの対象」に近づくと、自分を忘れてしまうこともあるので、
自分を忘れても良いところで、「怒り」を出して、
「怒り」が、自分にとって、何を意味しているのか、
感じ取れるようになれたら、「怒り」が少し消化できます。


そして、「怒りの対象」
「毒=ネガティブストローク=自己否定感」を感じるものからは、

できるかぎり、物理的な距離をとりましょう。


物理的な距離が取れないときは、心の距離を取りましょう。
「私は私、あなたはあなた」「私は、あなたと違って良い」
「私は、あなたと違う気持ちや考えで、いい。」

そして、
「私は私を、投げ出さない。自分のことを、人のせいにしない。」
自分を守れるのは、自分自身なのだと、
私は、自分を守れると、自分を信じて欲しい。

 

自分のまわりが、


「怒り」だらけの世界にみえることもある
理不尽がはびこっているようにも思える時もある
弱肉強食の世界にみえることもある

 

だけど、
前の時代より、理不尽さを当たり前にしない傾向も出てきてる。
理不尽が何か? 「認知の歪み」や学問的に理解できる時代にもなってきた。
脳科学が、人の感情や心を解明しつつある。

 

2極化しつつある社会にみえるけど。

だからこそ、

自分の生き方を選択できるんだ。

自分の選択する力を信じて。
自分を信じて。
信じれる自分で居て、
信じれる自分になる。

 

それが、人になるというコトなのではないか?

 

人は、苦虫と共に、人は悲しみも、喜びも、同時に、
人は、矛盾を抱えた生き物で、人は、決して片面じゃない
だから、人なんだ。

と、私の思うのです。


さて、自分の中の幼い頃に溜め込んだ「痛み」や「怒り」と
どう向き合いましょうか。

対象を変えて、姿を変えて繰り返す怒りの正体を、
ご存じですか?

 

自分に組み込まれしまった、痛みのカケラと、
いつも戦っているような・・。
新しい私が、助けてあげればいい。
私は、常に新しく、でも、私は私自身のままで

ね、矛盾しているでしょ

でも、矛盾が可能なのが、人間でもあり。

 

私は、私であることを選択したいです。
信じれる自分。
そのために、何ができるかな?

 

私の「怒り」の意味は、
今日のブログの内容から感じるに、「自分を保つ、自分になる」ために
感じた怒りなのかもしれませんね。
私が、理不尽に怒りを感じてしまうのは、
理不尽に自分を奪われるコトへの懸念なのだと、感じるとることができます。
だからこそ、自分が、理不尽になることへの嫌悪も感じたり

今日は少し、最近の私にしては、ちょっと感情的かな?

 

痛みを抱えた自分を、私は、受け入れようと、しているんだね、きっと。


「怒り」についての過去のブログ

 

kizuki-ya-k.hatenablog.com

 

 

kizuki-ya-k.hatenablog.com

 

「運命」、「イメージ」と「声」の人生脚本

原宿のふくろうさん、すっごくふわふわ!。

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原宿ふくろう

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清正の井

清正井、心が透き通るぐらい、美しい透明感、スゴ過ぎです!。
相変わらず、余裕のない性分ですけど、近場で魅力的なところへちょこっと参りました。

--


今日のお題は、「運命」

 

自分の運命は決められてると思うか?
自分の人生は、自分の選択によって変えていけると思うか?

「運命」が決まっていると思う人より、
「自分の選択で変わる」と思う人の方が、
自己実現の可能性が高いという話があります。


また、「運命」と「宿命」は違う、なんてお話しもよく聴きます。
「運命」vs「宿命」の場合の、
「運命」の意味は、自己選択結果としての巡り合わせによって運ばれてくるもので、
可変可能なの部分
「宿命」の意味は、生まれる前を含むベーシックな部分
たとえば、親とか家族の構成や生まれた時の状況など、既にあるモノ・コト


いかがですか?
「運命」って変えられるって、思えて来ましたか?

「運命」って言葉の響き、
否定的な環境にいた人にとっては、否定的なイメージがあるでしょうか?
それとも、「依存症的な王子様症候群」のように、
突然、他者(王子様や神様や何か?)のチカラによって
自分の運命を変えてくれる者を、
ずっと夢見る的なイメージもあるかもしれません。

 

「運命」ってどんなイメージを持っているでしょう?

 

私の学ぶ交流分析心理学の、エリック・バーンの言葉で言えば、
「過去と他人は変えられない、変えたいのなら自分を変えていく」

つまり、未来は自分次第で変えていけるわけです。


私の学ぶ交流分析心理学で、「人生脚本」という理論があります。
かなり要約すると、
自分が物心つく以前に自分のおかれる人間関係(環境)の中で、
「自分はこのように生きるのだろう」と漠然と無意識に刻んだイメージに従って、
生きているという理論です。

 

交流分析の新しい翻訳本がでまして、
訳監修の先生の講演会に行く機会があり、最近、「人生脚本」理論がらみに、
「運命」って言葉に、いろいろ感じました。

 

参考として、ご案内します。

 

エリック・バーン人生脚本のすべて 人の運命の心理学――「こんにちは」の後に,あなたは何と言いますか?

エリック・バーン人生脚本のすべて 人の運命の心理学――「こんにちは」の後に,あなたは何と言いますか?

 

 

私自身は
自分の人生は、自分の選択で変えていけると思っているタイプです。
交流分析心理学も、自分の「不具合な人生脚本」を変えるための、
「再決断療法」など、いろいろな療法があります。


また、
人は「失敗の場面」」を意識すると、「失敗」する確率が増え
「成功の場面」を意識すると、「成功」する確率が増える、
そんなデータもあります。

否定的なイメージを持つような環境で人格形成がなされたら、
否定的なイメージが現実化してしまう確率が高いということですね。

そして、「やっぱり」といって、自分の運命として固定させていき、
否定的な自分の人生を受け入れて、否定的な繰り返し強化していくという
人生のプログラムが展開される仕組みです。

そんな否定的なプログラムを、肯定的なプログラムに書き換えよう!
と考える、NLPという方法論もあります。

 

しかし、簡単でもない。

解っていても、肝心な時に、否定的だったり、自虐的なシナリオに
逆戻りして、元の木阿弥(呪いの運命)に戻る衝動や誘惑や固着・執着
キャストいろんな場面展開という、脚本の仕掛けを内包していたります。
自分の無意識にしみこんだ脚本を変えるのは、それなりに大変。
どこからどこまでが脚本なのかも、定かに切り分けでもできない。
脚本も反脚本も脚本のうち、みたいに、本当に複雑。


--
手塚治虫先生の、「どろろ」、今TVアニメでやっています。
私は、以前、マンガで読みました。
大好きですし、手塚治虫先生の深さに感動します。

どろろ」を、再び今の視点から、アニメで観て、感じることがあります。

亡き「母(両親の愛)」の思いを背負って生きるどろろと、
生きている親に存在の禁止(存在否定)を背負う百鬼丸の、
アンビバレントでありながら親なのない同士であるコンビ。

親の都合で心体を失った百鬼丸が鬼神を倒すと、
取り戻すものは、彼の感覚(心体)であり、それは心の基だったりする。

昔から、父との戦う物語は沢山ある。
古典にもあるし、
ダースベーターも父(敵)だったりします。

これ、交流分析的には、
父は、CP(critical parent 性格の一部)の象徴、CPが強すぎると、
否定的で批判的・支配的、の側面が高くなり、反抗を招きます。
CPが強い環境下で育つ子どもは、他人批判か、自己批判として影響を受けます。
そこから、notOK(苦しみ・苦悩)から、抜け出るために
父(CPの象徴)を倒す(超える?)という展開になる。
昔から、敵が父であり子であるのは、宿命であり、運命でもある。

 

心理学でも、
自律するのは、自分が必要。
「自分になる」という自己アイデンティティーの確立(青年期の成長課題)には、
自分の中の、CPと自分(CやA)の不均衡(せめぎ合い)が経験課題だったりする。

しかし、現代人我々に当てはめてみると、
結局のところ、父を倒しても、否定的な苦痛を上塗りことになるので、
苦痛から逃れることができない、脚本通りに生きるも、反脚本に生きるも、
脚本のうち、ということだったり・・。
けれど、理屈を知らないのなら、気づく機会を得がたい。

 

自分の「生きづらさ」のつまった脚本から、自由になる方法を、
交流分析では、「脚本フリー」って言い方をします。
「とらわれないで生きる」的な感覚だと思います。

でも、そこに至る過程の間で、
やはり、かかった禁止令なり、否定的な思いや固着を、
変えるために、否定を否定する段階(反脚本)も、一時的に必要になったりします。
理屈だけで、変わることが可能なら、みんな仙人になっているよ。


やはり、行動や感覚、そして、心が伴うために反対にブレる経験が
一時的に必要になるわけです。

肯定的な経験、愛される経験だったり、役に立つ経験だったり、
優しくできる自分の経験だったり、
肯定的な経験に繋がれば、自分の足基が少し見えてくる。

--

脚本は、どこに隠されているか?

エリック・バーンの訳本の講演で気になったキーワードは、


「イメージ」と、「声」


「音」じゃないんだね(笑)。

「声」とは、つまり、「言語」という意味
よく、神の声とか、悪魔の声とか、声が聞こえて、
事件や問題を起こす人も居ますが、
問題に繋がるのは「否定的な言葉」ということ、

 

そして、その「声」の正体は、

 

無意識(思考(10才)や言語(3才)が発達する以前に無意識に入り込んだもの)が、
「イメージ」であり「声」となって
自分の一部に存在しているってこと。

 

幼い頃の、環境から受け取ったメッセージだったり、

直接的に浴びた言葉だったり・・。

 

そして、その「イメージ」や「声」の影響を無意識に受けて、
物事を見ている(解釈)ということ。


そう考えて、自分(私)のイメージをふり返ると、
以前(青春期)、私はなんとなく、自分のことを「ブタ」と思えていた。
太っているわけでもないけど、

「エサを与えられて、太ったら食べられしまうブタ」

だからか、人からモノを貰うのが、苦手だったりする。
貰った後の自分の結末に良いイメージを抱けないからだ。

 

今、自己分析するなら、
条件付の愛情の押し売り感覚が、背景に見え隠れする。

 

よく、アバターとか、自分の化身としてのデジタルの姿も、
たぶん、自分の無意識に絡んだイメージから来ている気がする。

私の場合は、
最初は、ヤンバルクイナ = 飛べない鳥
その次は、キジムナー = 孤独な子ども妖怪
その次は、孤高の龍 = 破壊と創造

だんだんチカラは付いているし、飛べるように成って来たけど、
悲しさと孤独は依然そのまま・・。

自分の脚本も少しづつ変わって来てはいるんだろうね(笑)。

 

「イメージ」

面白いね。


なぜ、脚本を「イメージ」で持ち運ぶ、

って、フレーズが面白かったかというと、


つまり、
イメージが変われば、「脚本」も変わる。

その「イメージ」を変えれば、「脚本」が変わる。

「イメージ」を変えれば良い

といういことになる。


「イメージ」を書き換える。
「イメージ」を描き変える。

描き変える意志を持って、可能となる。

「描く」んだよ。

自分が、自分の脚本を「描く」んだよ。

「なりたい自分」のイメージを、描くことで、
成りたい自分に、近づくことが可能となる。


そして、無意識に混入した「声」については、
「声」は、「言語」、「言語」は「理論」

つまり、知識をつければ、理論で覆すことが可能。

思い込みや、刷り込みの言葉は、知識や理解によって、覆すことが可能。

 


人生は、変えたいのなら、変えられる!!!!。

 

「生きている」なら、遅い過ぎることはない。
いつからだって、変えられる。
変えたい気持ちが必要だけど・・・。

--

他人と過去は変えられない。
自ら変わりたいと思うことがあれば、
コトは変わるかもしれなけれど。


他人の脚本が見えてしまっても、
他人は変えられない。

むしろ、私を脚本に引き込むことを望む人もいる。
怒り、批難、脅迫、侮辱(ぶじょく)、暴力、あるいは、
世話を焼く、教える、ほめる、お世辞、誘惑などで、
私の心を動かそうとする人も居る。
被害者の顔で、迫害者の顔で、救護者の顔で、
私に役を求める人も居る。

自分がどうすることも出来ないことのあり、
自分も守らねばならない時もあり、
自分の無力さを感じることもある。
敗北的な気持ちに陥る時もある。

だけど、

もう一つ、エリック・バーンの翻訳の講演で、私が勝手に受け取った内容ですが、
深い内容がありました。

ただ、居るだけで、居続けるだけで良いのだと。
脚本に乗らない人間が、
そこに居続けるだけで、流れが変わることがある。
気づきのチャンスになることがある。
居続けることに、意味があると。

 

これ、私の解釈だと、見捨てないこと 放棄しないこと
という意味の様な気がしました。

これも、否定的な言い方だから、
言い換えるとするなら、
「存在する」ことが「愛の可能性」ってことですかね?。

 

肯定的に言い換えるなら、

「居ても良いし」「離れても良い」ことになる。

「変わって良い」し、「変わらなくても良い」ということでもある。

私の気持ちが在るならば、いずれにしても、私の存在に違いない。

--

さて、

「エサを与えられて、太ったら食べられしまうブタ」

そのブタが、飼い主に食べられてしまう運命は脚本、
「食べられないブタ」になるのは、反脚本
否定の否定に過ぎない

では、「脚本フリー」とはどういう状態か?

肯定とするならば、
喰われても良し、喰われぬも良し、別の人生も良し、
ってな、行程を選べる状態、なのだろう。
と、今の私は、思えます。
(現状理屈ですけど(苦笑)。

 

(内面としては、やはり、理不尽に喰われるのは嫌なんだよね。)

 

実際に、イメージだけでも書き換えてみよう、
やっぱり、イメージを意志(選択)を持って、描き変えるという、
私の解釈にしたがって、イメージを描きなおしておこう。

「頭の良い理解力のある人気者のブタで、人や物事に恵まれる」にしておこう。
もちろん、好きなときに、好きなように、いつもで、
描きなおすことができる。
ブタが、空飛ぶ鳥になったりもするし、龍になったりすることも可能。

 

脚本フリーとは、脚本に縛られないことかも、


いや、これも、否定的な言い方を修正すると、
自由な脚本、自分がステキなシナリオライターになること、
だったりするのでは・・と想う訳です。

 

---

 

なんと今回のweblog、平成最後の日に描き始めて、今日は令和2日目です。


4/28のビビッド(TBS)で、金八先生のドラマを通して、
昭和と平成をふり返るコンテンツをやっていまして、
金八先生大好きな私は、観てしまいました(笑)。

金八先生(武田鉄也さん)曰く、
「昭和は力の時代」「平成は、無音の時代」とおっしゃっていました。

私も、納得で同感です。

心理系哲学的な私の感覚で文字組みすると、
平成については、「NO コミュニケーションの時代」てな、印象です。
SNSとかで、コミュニケーションが多感なようでいて、
実は押しつけ一方通行だったり、仮面コミュニケーションだったり。

だから、来る新しい時代には、
「対等なコミュニケーションの時代」を願います。

なぜって、やっぱり、人は「人間」っていうだけあって、
人と人の間だで「生きる」生き物だから、
「生きる」ということは、人と人の間に存在すると言いますか、
その関係に影響されるといいますか、
交流分析心理学」に繋がるところでもありますし、
発達心理学にも通じることですが、
人が「人になる」には、人との(対等な)コミュニケーションが土台になると
思うからです。

心の成長には、心を感じる豊かなコミュニケーションを望みます。


同時に、豊かなコミュニケーションを見極める目や、

否定的な毒を内包するコミュニケーションから、
自分を守る知識やすべを、学ぶ必要性も感じます。
(心理学で、解毒しましょう!。)

知識も、すべも、他者との中で体験的に繰り返し学べることであったりします。

全くもって、人の社会は矛盾した構造で、人は矛盾した生き物ですね。
矛盾を内包しているからこそ、
バランス次第で、可変します(苦笑)。


令和、自分のイメージを描きましょう!。

みなさんそれぞれが、みなさん(ご自身)で有りながら、
他者に寄り添える(理解する)、優しさを内包した時代でありますように!!!!。

 

「愛」か 「憎しみ」か ?

そこにあるのは、愛か 憎しみか

(OK   vs not OK?)
(許容 vs 排他)
(向上 vs 回避)
(学習 vs 防衛)
(事実 vs 嘘)

見極めていきましょう!。

そこに、何かしらの愛があるのなら、
それでいい。

「洞察力」と 活かすチカラ

花粉症を感じるこの頃ですが、空は、キレイです!。

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--


今日のお題は、「洞察力」


カウンセリング系の心理学では、「気づき」という言葉で解説されます。

ゲシュタルト療法ですと、
1)「外界」の気づき _ 出来事や場面など
2)「中間」の気づき _ 考えや思考として、理解していること
3)「内界」の気づき _ 気持ちや内面に関係すること、

「気づき」の深さや難しさのベクトルは、
「外界」→「中間」→「内界」、が一般的、
思考力や、感覚の得意不得意もあるので、順番が違う人も居ます。

その3つは、時々、矛盾していたりします。
だから、気づきづらく、
統合できために、気づくことを、無意識に回避したりする場合はあります。


次に、
JTCの体験スケール早見表を元にして、
少し言葉を変えますが、「気づき」を考察すると、

レベル1)事象(出来事)を言語化できる。
レベル2)「私は」という視点で言語化できる。
レベル3)「私の感情」を、内観できる。
レベル4)「私」が、「他者の感情」を察することができる。
レベル5)他者からの不快にたいして「私の中の原因」を洞察する
レベル6)繰り返しの問題パターンに築き、「今ここ」と区別できる。
レベル7)繰り返しパターンに、「気づき」が応用されていく。

「洞察」の深さのベクトルは、
「レベル1」→「レベル6」に方向。
レベル1.2については、自分と他人の境界が曖昧な性格傾向が覗え、
言語でのアプローチで「気づき」につなげるのは、やや難な傾向にあります。

こういう場合は、
身体の感覚や体験を通じ得て、
自分の存在を感じることから、始める場合が多いです。

 

レベル3では、大抵の場合は、考えと気持や行動などの、
矛盾に「気づく」入り口になりますから、
気づくことを、無意識に回避したりする場合はあります。

レベル4に至るためには、
立場を変えて、考察したりすることで、視野を広めることが可能になります。

 

レベル5、自分と他人の区別が出来ていれば、問題無く深まりますが、
「他人のせい」にしたい共依存傾向の強い方は、
自律的な洞察ができるようになるまでに、時間がかかります。

not OK の構えを 自分か、他人か、どこに抱えているか?
解る段階と言えます。

 

レベル6では、経過や時間軸という、概念で洞察の層が深まります。

レベル7では、改善の方向に、自分を導くことができる、
「真の自律」といいますか、
「活かすチカラ」の内在を感じます。
本当の、「I'm OK. you're OK」の状態。

--

絵やデッサンなどを見ても、
質感や、時間や、空間など、どこまで、「観るえているか」
「観るチカラ」は、洞察力のレベルと、比例していると、感じます。

絵だけで無く、
文学や音楽も、精神活動の表現物である、芸術や文化には、
みな、洞察力の深さの深度が、表現に比例している、と私は感じます。

自己「表現」をすることで、自分を感じ、洞察力が深まる原理はよく解ります。
だからこそ、日本国憲法では、人間の精神の成長のための、
表現の自由」がうたわれて、補償されている訳です。

自分のことを「表現」することは、精神の成長に繋がるコトなわけです。
(だからこそ、他人のことを「表現」する必要性は・・あるのか・・少し考える必要があります。)

--

少し、私のことを書きます。

私は「気づく」ことが好きで、「kizuki-ya」を名乗っております。

「気づき」は、私にとっては、発見であり、新たな世界への入り口だったり、
可能性への繋がりだったり、導きだったりします。
だから、好きなのです。


否定的な思い込みが強すぎると、
「創造力」が退化してしまい
防衛的なで保守的になり、「気づき」を怖がる人もいます。

「恐怖は、眼を曇らせる」ですね。


何事もそうですが、
「事実」を、肯定的に捉えるか、否定的に捉えるかで、
その人の未来は、別れますよね。

「気づき」も同じ、
肯定的に発展に繋げるか、否定的な要素として捉えるか?
「気づき」の意味も変わります。

私には、
「解りすぎる」ことが、つらいなぁと思った過去がありました。
「解りすぎる」ことが、損だと思った時期もありました。

今思うと、自分が歪みに飲まれた瞬間だった気がします。

その後、わざと、「観ない」ようにした時期がありました。
「観ない(傍観)」ことで、何が起こったかというと、

最初に他人の冷たさを感じました。
だから、観ないことにした。
自分の冷たさを感じました。
自分の心が凍りました。
自分では、心が溶けなくなりました。
何も感じなくなりました。
自分が生きているか、死んでいるのかさえ、感じられなくなりました。

そこから、解るのは、「感じること」自体が、
「生きること」なのだろうと、思います。


そして、今


「観たくないもの」を観るので無く、
「観たいモノ」に近寄っていくこと、
「感じたいこと」に近寄っていくことで、
自分が「生きている」ことを、肯定できるということを、
感じて、今に至ります。

つまり、「気づき」を、「活かすチカラ」が必要なのだというになります。

 

自他の境界を言えば、
他人の、特に否定的な部分が「観えること」は、
あまりメリットはないのかもしれません。

自分のことに、応用していける部分を、「観ること」が、
「活かすチカラ」なのかもしれません。
内部準拠か、外部準拠かの差があります。

 

「ポジティブ VS ネガティブ」 の極で判断するのは、ちょっと違う気がします。

違いがあるとすれば、「OK(肯定) vs not OK(否定)」なのだと、
今は、感じることができます。

「ポジティブ VS ネガティブ」 の価値観は、絶対的2分法思考の歪み=思い込み
主観的な要素に思えます。

客観性をもって観れば、それは、ポジティブでもありネガティブでもあり、
あるいは、そのどちらでもない、ただの事象にすきない。

それを、いかに解釈するか、意味を見いだすか、拒絶するのか、
「OK(肯定) vs not OK(否定)」の問題だと思えます。

他人に迷惑をかけない範囲で、
全てはOK!。
「I'm OK. You'er OK.」

自律において、
一人一人が活き活きと、その周りも活き活きとした繋がり(ストローク)の交流社会であったりします。

「愛あるものを創っていきたい」私が居ます。

 

「傍観者」の創る世界

2年ぶりぐらいに、花が咲いてくれました。

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また咲いてくれて、ありがとう。甘い匂いがステキです!。

---


今日のお題は、「傍観者」

最近、子供の虐待死の痛ましいニュースが胸を痛めます。

問題行動を繰り返す、親・大人と、
問題行動に、怯え、防衛で、子供を守らなかった大人達
痛いです。心が痛いです。


全然関係ないですけど、

「3年A組 ―今から皆さんは、人質です―」(日本テレビ - 2019年1月期日曜ドラマ)
私はストーリーをTVで視聴している範囲でしか解らないですけど、
「傍観者へのメッセージ性」を感じるのは私だけでしょうか?

現代社会って、本気で人の心の成長に向きあおうとするなら、
誹謗中傷されるだろうリスクや、
誤解される怖さを、超えるだけの勇気やリスクを追う覚悟が必要なのかもしれません。
そんなドラマなのかな・・と、今の時点では、
一般視聴者的な目線で、感想を持ったりしました。

痛い現代社会、否定や批判におびえる現代社会、
そう感じるのは私だけでしょうか?

---

ここからは、私が最近感じること。

大抵は、「傍観者」

隣に誰かが悲しんでいても、気にしない。
そのうち、
自分の心が、悲しんでいても、気にしない。

むしろ、
「気にしたくない」から、わざと別の話をしたり、別のコトをしたり、
「悲しみ」なんてなかったことにしてしまう。
問題なんて、なかったことにしてしまう。

問題があっても、「自分は関係ない」と、お決まりのセリフ。

それで、本当に自分を守り切れている(つもり)のでしょうか?


「虐待」が成立する背景には「傍観者」の影の存在があります。
「いじめ」も同じです。
誰かが、止められたら、孤立しないし、
孤立しなければ、間違ったことは、修正できる機会を可能にします。

「孤立」や、「カプセル化」してしまうと、
歪みは増大します。
歪んでいる人間や、人をコントロールしたい人間は、
情報や他者との交流を制限するし「カプセル化」を好む傾向があります。

隠す、嘘をつく、交流を制限する人間は、
「歪み」を疑ったほうがよいです。
「歪み」の領域の人々。上か下か、弱肉強食。

 

「傍観者」は、加害者と被害者のカプセル化に加担する役割をします。
歪みや問題行動を、行う環境を提供している存在、ということです。

事実上は、幇助(ほうじょ)役です。
気分的には、「自分には関係ない」つもりなのでしょうけど。
無知の知」知らないことは、しらないうちに罪を犯しているという罪の原理に
相当すると考えることができます。

「傍観」とは、
向上的な動機でなく、否定的な動機の産物だということ。
つまり、「防衛」で「回避」の産物。

そこから、何が生まれるでしょうか?

もちろん、
一時的に、苦痛を回避できるかもしれません。
直接的な、加害者と被害者の問題で、
「傍観者」は、関係ない、という主張の、気持ちは解りますけど、
防衛で、「眼が曇った人」であると、私は言いたいです。


「傍観者」が増えると、明るい住みやすい世の中になりますか?

実際は逆です。

観て観ぬふりする人が増えると、
弱肉強食、歪みの世界が展開さる傾向が発揮されます。

「傍観者」は、否定も肯定もしない代わりに、
誰にも「愛」をもたらしません。
「愛情不足の場所」を作り出します。

そうすると「愛」は、奪うモノになります。

「愛」とは、
今回は、交流分析の理論で説明します。
交流分析心理学では、ストローク(存在認知)という定義を
「心の栄養」、つまり「愛」と解釈します。
(参考文献:※1)

ストローク(存在認知)を解りやすく、私の流の言葉に代えると、
「関心」だったり、「気に留める」ことだったりします。

人は、成長期に、ストロークを沢山必要とします。
弱っている人の回復にも、ストロークが必要になります。
声かけした方が、成長・上達するという学術データも沢山ありますし、
最近だと、対面で話すことや、感情を感じることで、
幸せホルモン(オキシトシン)やセロトニンが出るという、
脳科学のデータもあります。(参考文献:※2)
逆に、否定的ストロークで、子供の脳が萎縮するという脳科学の本もあります。
参考文献:※3)


「愛=ストローク(存在認知)」が不足すると、
人は、否定的なストロークすら得ようとする習性があります。
喉が渇きが深刻化すると、泥水でも飲む原理と同じ。

子供が、悪いことをしてまでも、親や先生の関心を引こうとしたりするのは、
ストローク不足の結果です。

最近、若い人の無茶な犯罪の理由も、
「注目を浴びたかった」という、理由づけを聴きます。
SNSで、問題行動を公表する人も、
「注目を浴びたかった」って動機を、ワイドショーなどで聴きますよね。
あれも、これもストローク不足の産物。


「傍観者」が増えると、明るい住みやすい世の中になりますか?


一方で、人を元気にさせるような
肯定的ストローク(暖かい声かけや関わり)を、与える人がいても、
「傍観者」により、「無視」されることで、
「肯定的ストローク」は、関係性から消滅して行きます。

 

「無視」は、消極的イメージで、気軽に使う人がいますが、
実は、「悪質な否定的ストローク」だったりします。
「悪意」がある場合があります。

 

「傍観者」がつくる世界は、
「奪うモノ=傷つける者」を生み出します。

「傍観者」は、危険で信頼できない世界を、
自ら生み出していることに、
おそらく気が付いていないのですが、
実際には、悪循環なサイクルを生んでしまいます。

「傍観者」は、愛を途絶えさせ、不安な世界を生成し、
更に、「傍観」を強化していく、
愛の不足により、無差別に「奪うモノ」を生み、
更に「傍観」を強化するか、
「尋問者」か「脅迫者」に役割交代が起こるか?という悪循環。

「傍観者」の多いところは、殺伐としています。
「傍観者」の言うことには、自分は関係なく、「他人のせい」らしいですけど。
「傍観」が許されなくなると、「尋問者」に転じることも。

みなさんのまわりは、いかがですか?

--

この悪循環を変える方法(理論)は、あります。

適切な距離感を持ちながら、
肯定的ストローク(=肯定的に関心・気にかける)を、循環させることで、
お互いを確認し合い、お互いのために、自分を保つ、
自分の関われる場所と、貢献できる自分になる方向性を、
感じれる場所を、生み出していけるのが、
ストローク経済の法則(交流分析用語)の良い側面です。

適切な距離とは、自律的な距離のことでです。
自分は自分、人は人。違ってOK。
自分の気持ちや行動の責任を持つこと、
他人のせいにしないことであったりします。

 

肯定的ストローク(心地よい存在認知)は、
更なる肯定的ストロークを呼びます。

 

逆に、否定的ストローク(不快な存在認知)は、更なる否定的なストロークを生み、
毒のように、たまると、交流を壊したり腐らせたりします。
ストロークを制御すると、偏った歪んだ人間関係が生まれます。
ストロークを拒否してばかりだと、生きるチカラが低下します。
生きるチカラとは、意欲であったり向上心であったりします。


最近、「意欲」が低下している人、
廻りに、「傍観者」いませんか?


心地よい、生きやすい、場所、関係が欲しければ、
肯定的ストロークの授受ができる関係を創ればよい。
ことになります。

「傍観者」の交流パターンとは、逆です。


「傍観者」は、悪くない?

理由があって、事情があって、
「傍観者」になってしまっているのだと思いますが、

「傍観者」でいても、「傍観者」と居ても、
心地よい関係からは、遠ざかります。


「傍観」という「回避の壁」を感じます。

--

「聖なるヴィジョン」(角川文庫)ジェームズ・レッドフィールド
の本の中で、(参考文献:※4)
「魂のコード」ジェイムズ・ヒルマンの考えを述べている箇所があります。
(参考文献:※5)

内容の要約:

親子の間でのエネルギーの奪い合いのパターンで習得してしまった
コントロールドラマ(交流の癖)についての内容

「犠牲者」の親は、自分の問題を子供のせいにして「お前がいなければ・・」などと・・いうことも、
「傍観者」の親は、条件付きの愛しか与えない。
「尋問者」は絶えず、欠点を見つけては叱りつけ
「脅迫者」は、恐怖におののく雰囲気を作り出す。
子供は、エネルギーを吸われ、ある時点になると(中略)防衛手段を発達させる。

「犠牲者」と「傍観者」に対しては、子供は「尋問者」の立場を発達させ、
親の性格や行動を批判する
「尋問者」に対しては、「尋問者」となって問い詰めるか、
「傍観者」の無関心な仮面をかぶろうとする。
「脅迫者」の場合は、複雑。子供の頃虐待や恐怖で過ごすと、
最初は、「犠牲者」として反応し、犠牲者の反応が効果的でない場合、
命にかかわるエネルギーの収奪に対抗する唯一の手段は、
子供自身が「脅迫者」になることである。
たいていの場合は、自分より弱い存在に「脅迫」が向かう。

とのこと。

この内容から、

「犠牲者」、「傍観者」は、「尋問者」を生み、
「傍観者」は、偽物の愛しか与えないので、愛情不足を生み
「尋問者」は「尋問者」か、「傍観者」を生み、
「脅迫者」は、「犠牲者」か「脅迫者」を生む
悲しみと防衛の連鎖の構造がうかがえます。

---

この内容から、言えることは、
コントロールドラマ、人生脚本、人生プログラム、交流パターンの癖、人生の構え、
など、沢山の言い方がありますが、

人格形成期に習得してしまった、生き方や、交流パターン、自他への構えは、
繰り返し、自分のパターンとして、癖を強化してしまう傾向があります。
(↑交流分析の理論と同じ)


「傍観者」は「尋問者」「脅迫者」「犠牲者」よりマシか?

そういうものでもないですよね。

役割は、入れ替わります。
「防衛心」の領域の人達 という枠組みの中で、
回避パターンを模索している結果です。

「防衛」や「回避」のパターンが生むモノは・・
ってな感じです。

悪循環から、抜け出すには、

まず、

「回避」パターンに気づくこと。
自分の、繰り返す、行動パターンに気づくこと。

そして、これからの自分をどうするか、自分の行動を選ぶこと。

--

では、私はどうしたいのか?

私も、やっぱり、
頭では気づいていても、挑発的な場面に遭遇すると、
自分が幼い頃習得した役割が出てきてしまいます。

そして、「傍観者」は、
私の未熟さを見つけて、「尋問者」に役割転換します。

そして、関係者が回避に逃げてしまう・という結果が、
おそらく、いつものパターンなのかもしれません。

はたして、私にとって、それは、ベストなことなか?

今は、後からでも、
少し考えることができます。

挑発を感じる相手との交流からは、
距離を置くのが、セオリーではあります。

間をおいたり、物理的な距離を取ったりします。

--

そして、私はどうしたいのか?

未熟さは認めます。
だからといって、自分を放棄すると、
自分を好きになれません。


私に残された時間を、使うなら、
肯定的ストロークの授受の場を創っていきたいです。
私もみんなも、自分を活かして、生きていこうとすることができるような。

時間は有限なので、
「傍観者」を貫きたい大人を、
変えていこうとするのは、難しい。

そもそも、「他人と過去は変えられない」という
交流分析心理学の自律の大前提があります。

「変えるなら自分を変えていく」のだとすると、

関わるものを変えていく方向性が見えてきます。


変えてゆくのなら、
「防衛」でなく、「建設的」な方向へ

お互いの為になる関係の方に、
限られた時間を、
費やしたいと思うこの頃です。


迷うなら、
どちらが、自分が成長するか?
成長する方を選べば良いのだ思います。

私に向上心があれば、
適切な時に、適切な変化がやってくると、
これから起こることを、肯定的に受け止めることもできます。

安心したい方に考えるのも、
合理化という防衛機制だったりする部分もありますけど(笑)。

自分が変わることも、
本当は、防衛したいくらい、勇気がいることだったりします。

人は矛盾だらけですね(笑)。

それでも、建設的な方へ進んで行きたいと思います。
「非力なりにですが・・。
今、私にできることを、後悔しないために。」

--

参考文献
※1「交流分析のすすめ」/杉田峰康/日本文化科学社

※2「脳の疲れ」がとれる生活術」有田秀穂/PHP文庫

※3「子どもの脳を傷つける親たち」/NHK出版新書/友田 明美

※4「聖なるヴィジョン」 /角川文庫/ジェームズ レッドフィールド

※5「魂のコード―心のとびらをひらく」ジェイムズ ヒルマン、

 

交流分析のすすめ―人間関係に悩むあなたへ (日文選書)

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「脳の疲れ」がとれる生活術 (PHP文庫)

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子どもの脳を傷つける親たち (NHK出版新書 523)

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聖なるヴィジョン (角川文庫)

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魂のコード―心のとびらをひらく

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