ココロド_黄月家K's weblog

考えすぎ? ココロド_心理カウンセラー_黄月家Kの 思考いろいろ、心理分析、ものづくり、時々庭、時々日記です。

「自身の操縦士(ドライバー)」「7つの習慣」思う

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紫の小花

庭に紫の小花が、地面を覆うように咲いています。
早稲田の方の学校に、勤務していたときに、道ばたに咲いていた花のこぼれ種。

いつの季節も、かわいらしく、咲いてくれます。

名前わかりませんが、好きなんです、この花。
見かけによらず、強くて、どんなときも、咲いている。

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今日のお題は、「自身の操縦士(ドライバー)」


私は、どこに向かって(生きて)いるのだろう?

私は、なぜ、走り(止まり)続けているのだろう?

私の、幸せとは何か?

私は、どん道を走り、どこにたどりたいたら、うれしいのだろう?

自分は、がんばっているはずなのに、なんだかむなしい。


そんなこと、考えたことありませんか?

 

先日、「7つの習慣」スティーブン・R・コヴィー著 という本のことを、
楽しく解りやすく伝えているyoutube中田敦彦YouTube大学 - NAKATA UNIVERSITY)を偶然にたままた拝聴しまして、

なんか、「前向きになれる自分」の心の変化を感じました。

(末尾に、参考リンクを貼っておきます。)


動画の中で、

成功とは何か?


について、スティーブン・R・コヴィー氏の「はじめに」の中に綴られているというお話し。

哲学者マズローの「自己超越」という言葉を使って
人の幸福感について、死の床を想像して語っている。

「人が、死の床で、思うのは家族や、愛する者のことである。
人は誰かのために生き、最後はその人達のこと思う。」

私の解釈になりますが、
人の幸せとか成功とは、人と共存していく中にあるという、

人が一人では、生きられない、成長できない、未来と繋がれない物理的な生物体で、
ある所以であるのかもしれません。


余談だか、マズローは、欲求を5階層化して説明した人。
自分の価値感は、マズローの欲求の階層として配置を観ることができる。


マズロー氏と、コヴィー氏や、アドラー氏、
その他多くの哲学者や心理学理論が、言葉は違えど、同じような過程を言っている。

総括して私の解釈に直すと、
コヴィー氏の言う、3段階は、以下のような心理的成長の過程と解釈できる。

依存(他者へ反応が生きること)

自律(主体に生きる)

協調共存(強調(主体的に関わる)

成功を手にできないのは、むなしい。
経済的に成功したとしても、
 そこに、自己や他者の犠牲があるのなら、どこかむなしい。
成功と自分や他人を両立させてこそ、幸せなのだと。

 

交流分析エリック・バーンが、「自律は幻想」という言葉の心意は、
協調共存の段階への入り口のことを意味すると解釈できます。
「単独自律の限界」というと伝わりやすいのかもしれません。

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協調共存段階の入り口を、
ティーブン・R・コヴィー氏は、「7つの習慣」の中で、
「人格主義の回復」と言っている。
それを、「中田敦彦YouTube大学」では、

「終わりを思い描く」つまり、弔辞を想像する。と言ってました。


自分が亡くなったとき、誰かに、どのような言葉を言って欲しいか?


私も考えました。

私は
「有能な人だった、有能さを貢献してくれた」を言われたい。


と・・・思うと、これ、実は、私のドライバー(交流分析用語)なんです。

交流分析という心理学に、人生脚本という理論があって、
人生脚本とは、「無意識のうちに、自分がどのように生きるか」のイメージのこと。

人生脚本には、いろいろな脚本装置あって、
ドライバーもその1つ。

交流分析のドライバー(拮抗指令・対抗指令)を、解りやすい言葉に説明すると、

「導き手」「自分の操縦士」「人生をかきたてるもの」「人生の指針」みたいな意味になります。


自分の人生を導いている(無意識的な)指針のようなもの、
自分自身の活動の動機でもある。

みたいなもの。

無意識に自分の中に入り込んでいるのは、
自分が吟味して理論的に選んだ指針ではなく、
自分の人生の中で出来事や環境や行動範例の中から、
気が付いたら思い込んでいた、良い(良心)とおもうこと。


だけど、そこに、架せがある場合に、
たとえば、否定的な条件(禁止令・自己犠牲)の打ち消しとして、
そのドライバー(禁止令の対抗指令)が存在する場合は、
否定的な条件の強さと比例するドライバーの強さになって、
自分を滅ぼしても、走り続けることにもなります。


その指針を、ほど良い程度に、
ドライバーに振り回されすぎないために、
自分自身が、自分自身の操縦者であるために、


自身のドライバーのクセを知ること、
ドライバーの架せ(禁止令)を知っておくと、
自分の調整ができる。

というのが、交流分析の考え方。

交流分析の人生脚本のワークの中では、
自分の、禁止令やドライバーを見直たりします。

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交流分析の中では、
ドライバー(自分の操縦士)は、
大まかに5つに分類されています。

交流分析の言葉は解りづらくキツイので、
私の言葉に置き換えます(かっこに用語を残します)、

1.速いことがことが良いコト!(急げ!)

2.完全が美しい。(完全であれ!)

3.一生懸命が素晴らしい。(もっと努力しろ!)

4.人の役に立つことが立派。(人に喜んでもらいなさい)

5.強いことが大事(強くあれ!)


このドライバーを、否定形の架せとして捉えた場合は、
自分の価値感が、自分や他人を否定的価値感に 化けてしまう。
たとえば、

1.遅い奴はダメ!(急げ!)

2.失敗は命取り。(完全であれ!)

3.努力しないクズ。(もっと努力しろ!)

4.役に立たないボンコツ。(人に喜んでもらいなさい)

5.弱い者は敗者(強くあれ!)

くれぐれも、肯定的の範囲で、自分のドライバーと付き合い、
否定的な要素がよぎったときは、

一端、自分のドライバーと距離をとることが大事です。

 

私の現在のドライバーを、自己分析すると、

有能の有は、4)の役に立つ、貢献も4)の役に立つ、
有能の能は、技能の能で、2)3)のmixのような気がします。

私の場合、ドライバーは一つだけじゃない、mixだんだよね。
それに、自分で脚本を書き換えも、してきましたし。

若い頃は、5)の強くあれ!、がスゴク強かったと思います。

幼い頃、両親が、男子を欲して私を男子のように育てたことや、
強烈な性別や存在否定の中で、育った過程があったからだと思います。
幸か不幸か、私はあまり泣かない(笑)。

結果、自分を壊してしまったので、
5)のドライバーとは、距離を置き、こだわらないことにし、
今に至ります。

弱いなりに、生きていこうというところでしょうか。


私の特性と、ドライバーが合っていれば、
たぶん、幸せなのだと思います。

幸せにむかって、ひた走れる。

だけど、
5)の強くあれは、自分の特性とは違ったのだと思います。
弱くなることがある、無防備になることある。
他人を思いやるあまりに、自分を守れない。


ドライバーは、一つじゃない。
親に与えられたドライバーだけではない。
後発のドライバー(指針)だって、いくらでもある。

だから、尊敬出来る人やコトと 出会うというのは、
自分が生きる上で、大事なこになるわけです。

しがらみの否定的な影響を受けるより、
尊敬出来る人やコトから、肯定的な影響を受けることの方が、
未来の自分や未来の自分の周りにとっても、幸せなことだと理解できます。


弱い私でも、活かせる私と考えると、
それは、やはり私にとっては、技能やアイデアということで、
それで、経済的に自分を成り立たせることができて、
更に、人の役にたてたら、人と共存共栄していけたら、
たぶん、幸福なんだと思います。


もう一つ、
否定形の関心に疲れて、「透明人間」になりたいと言った時期がありました。
引きこ森の同義づけみたいな感覚です。
今は、すっかり、内面、引きこもり気質。

今も、目立つことや人前にでることには抵抗がある。


でも、今思うのは、「透明人間」でも、
スキルとアイデアを活かすことは出来るし、
それが人の役にたつこともあるかもしれないと思うと、

「透明人間感」(私の中の引きこもり同義)と、
「役に立つ」が、両立することは、可能だと
思える時代になったのかもしれません。


「引きこもりでも、自分を活かして、役に立ちたい!。役に立てる!!。」

(笑)。

時代や事象の変化もあるけど、自分の考え方のシフトも、
最近感じます。

自分のシフトが、一段階変わったような気がしているのです。今年に入って。


自分の中の、感覚と、偶然の一致的に、
コヴィー氏「7つの習慣」や、
中田さんのYouTube大学に出会ったことも、
意味があるのかもしれません。

主体的に言い換えれば、

自分が望んでいた、と、考えると
自分の心に、自分の想いに、重さや、立体感や、
自分自身の存在感も感じることができます。

透明人間なのに(笑)。

--

今日、学生の頃、よく話した友人の訃報が届きました。
久々に、泣きました。

優しいあの人は、「自分に優しくできただろうか?」

終焉には若い彼女の人生は、彼女にとってどんな人生だったのだろう。

私の知る限り、多くの人に囲まれた笑顔の人でした。

「あなたと話したことは、今の私の一部です。存在に感謝です!。」


そんなこんなで、最近、いろいろ考える切っ掛けを頂いておりました。

友人の冥福を祈ります。

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今日の記事の参考:

 

 


【7つの習慣①】

 

 

 

 

「人生」と「時間」

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独り道

夕暮れ、気分展開に歩いた道の風景です。

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今日のお題は、「人生」と「時間」

 

人生は、「時間」であり、
「時間」は「ストローク」のために費やさるから、

「人生はストローク」とも言い換えできます。

もっと言えば、

ストロークの質は、人生の質」とも、言えます。

---

人生は、文字の通り、
人が生まれてから、死ぬ時までの、時間経過 というのが、
客観的に解釈しやすい概念かと思います。


人生は時間を超える要素ががあることを、
私は認めますが、理論的に説明するのは時間がかかるので、
「時間を超える要素」については、また後日。

--

「人生という時間」


「時間」量には限りがあります。
物理的な側面です。

しかし、長く感じるか、短く感じるか、
時間の長さの感覚は、実に、人それぞれ、


「時間」の質に関係するのかもしれません。

交流分析に、「時間の構造化」という理論があります。

「時間の構造化」は、ストローク(心の栄養)の理論を元に、構築されています。


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心の栄養・成長の元を、「ストローク」(交流分析用語)といいます。


人は、

水や空気や食物が必要なのと同じように、

心身の成長に、ストロークを必要とし、

ストロークを求めやまない性質があり、

その時間と知恵と行動の、目的は、「ストローク」であると、考えると、

「人生」や「時間」を整理して考えやすくなります。

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ストロークとは、交流分析では、「存在認知」という意味で、
肉体的には、水や空気や食物が必要不可欠なように、
精神的に、必要不可欠な刺激、のことです。

心理学的な用語で言えば、刺激と反応の一往復の単位。


解りやすく言うと

「アクション」と「リアクション」
「行動」と「結果」
「働きかけ」と「報酬」

のような、ペアのやり取りのこと。

「リアクション」「結果」「報酬」などを得ることで、
自分の存在証明(存在認知)を確認できる
自分を感じることができる、

自分の存在を確認できることが、人の成長に必要なもので、
「生きる」という方向性では、
無意識レベルの動機や目的と言い換えることができます。


子供の頃は誰でもかまって欲しいし、誉めて欲しい。
存在を認めて欲しい。
必要な、注目が得られないとき、
悪いことしてまで、注目を浴びたい・・。

これ、キレイな水が無ければ、泥水でも呑むのと同じ、
人間が欲して止まない必要不可欠なものの一つが ストロークという訳です。


リターンとしての、「リアクション」や「結果」や「報酬」ばかりを
目的としがちですが、

ストローク経済の法則」があり、

ストロークは、更なるストロークを産み、
正のストロークには正のストロークが循環しやすく、
また、環境やタイミングや影響力の作用で効力の時差も生じることから、

アクション、リアクションは、「卵が先か?鶏が先か?」
と同じ価値感なります。
だから、対で「心の栄養・ストローク」という訳です。


ストロークには、正(栄養)と負(毒)もあり、

言葉、態度、モノ、お金、評価、感覚、など様々な形態でもあり、

対象(相手)は、他者だけでなく、自分、環境、自然、時間、未来、など、

精神の発達レベルや洞察範囲によって、理解や認知の対象が増えてゆきます。


自分でOKストロークを、自分に与えることができる(自尊)と、
精神的な自律が可能になります。

発達心理学でいう、アイデンティティーの確立(概ね20才程度)の
発達課題にあたります。

心の栄養ストロークについては、
過去のweblogを参照してください。

kizuki-ya-k.hatenablog.com

 --


「時間の構造化」理論での、「時間の使い方」は、

以下の6つに分類できます。

交流分析の言葉の定義や、独特の用語は、日常用語と混乱する部分も多いので、
今回は、なるべく、解りやすく、私の言葉に置き換えて、解説に努めたいと思います。
(カッコに、交流分析用語を残します)


時間の使い方の種類は、

1)「自分メンテナンス」(引きこもり、閉鎖)
2)「ルーティーン」(儀式)
3)「社交」(社交)
4)「活動」(活動)
5)「不毛な関係」(ゲーム)
6)「本音の交流」(親密)


個々に解説すると、


1)「自分メンテナンス」(引きこもり、閉鎖)

 自分と対話している時間。 自分で自分にストロークを与える状態。

 たとえば、ほーっとしたり、睡眠したり、
 趣味をしたり、自己メンテナンス時間。


 ※ リターンとしての、心の栄養価量(ストローク刺激量)は、
 他の時間に比べて少ないが 確実に安全に得ることができる。

 心の栄養価の質(ストローク刺激質)は、自分で選択できる。
 

2)「ルーティーン」(儀式)

 形式的、習慣的な他者とのストローク
 挨拶や、朝礼、ペットのえさやり、など

 ※ リターンとしての、心の栄養価量(ストローク刺激量)は、
 1)に比べて優位だが、6種の中では、5番目で、
 3,4,5,6)に比べて少ない。
 
 習慣的に得ることができる。予測できる。
 心の栄養価の質(ストローク刺激質)は、習慣の質による。


3)「社交」

 表層の情報交換。
 形式的なストローク交換。
 ルーティン(儀式)とは違い、場所やタイミングは固定されていない。
 様子伺い。仮面(ペルソナ)・肩書き・表層的。
 関係の発展性は、あまりない。

 ※ リターンとしての、心の栄養価量(ストローク刺激量)は並。
 1)2)に比べて優位だが、6種の中では、4番目。

 心の栄養価の質(ストローク刺激質)は、仮面や立場・肩書きによる部分も大きい。


4)「活動」

 目標や任務などの、具体的成果を得るためのストローク交換の交流
 
 ※ リターンとしての、心の栄養価量(ストローク刺激量)はやや高い。
 6種の中では、3番目だが、具体的で正当な成果に対しては、効率的。

 心の栄養価の質(ストローク刺激質)は、
 具体的で正当な成果を得ることができるため、
 活動量と、成果の妥当性の考慮をすれば、質の選択が可能。


5)「不毛な関係」(ゲーム)

 繰り返し起こる、人間関係のトラブルパターン。
 裏面の交流。
 駆け引き、暴力、略奪や嫉妬、悲劇的な関係。
 依存症、共依存関係。上下支配。淋しがり。
 「思いやり」という思い込みによる裏面の他人コントロール
 他者の時間と、ストロークを奪う様なもの。

 ※ リターンとしての、心の栄養価量(ストローク刺激量)は高く強烈。
 ストロークの刺激量は強いが毒素も強い。
 6種の中では、2番目だが、建設的な結果にならない。

 心の栄養価の質(ストローク刺激質)は、不毛な結果に終わり、
 建設的な結果にならない。
 激痛で強烈な場合が多い。時間ムダ使い。
 
 不快なゲーム関係(交流分析用語)のレベルもあり、
 a) ブラックユーモアのようなものもあれば、
 b)社会的に人に言えないレベルのもの(いじめ・不倫・二股など)や、
 c)詐欺、犯罪や殺人レベルのものもある。
 
 最終的に、無念さ、虚無感を、お互いに味わうが、
 自分の影響力や存在感を強烈に 刺激的に味わうことができる。
 

 「不毛な関係」を見分けるキーワードは、

 「繰り返し」、「犠牲者」「救援者」「迫害者」、「役割スイッチ」、
 「正義感」「罪悪感」のラケット感情を持っている人は、カモになりやすい。


 大抵の人の場合は、行動範例となる見本があり、
 無意識的に、衝動的に、心の穴を埋める方法として、
 習性的に、不毛なやり取りで自分の存在を確認しようとする場合が多い。


6)「本音の交流」(親密)

 心のふれ合いを目的としたストローク交換、交流。
 立場にとらわれることなく、対等に、本音で、気持ちや感情の話ができる交流。

 本音は、防衛心や虚栄心が強い人にとっては、
 一見傷つくことも多い様に、思えるかもしれないが、

 嘘がないという部分は、信頼ができ、安心の基盤となる。
 
 本音の交流には、
 I am OK, You are OK.(私は私でOK、あなたはあなたでOK)の構えが基盤になり、
 比較するのではなく、平等を主張するのでもなく、
 違いを認め合い、尊重し合える関係が必要なる。


 ※ リターンとしての、心の栄養価量(ストローク刺激量)は最も高い。
 共感の範囲を選ぶことで、部分的な、刺激量を得ることもできる。


 心の栄養価の質(ストローク刺激質)は、本音なので、本物。
 自分と他者の心理的な発達度に関わる部分はある。

 他者と自分を比べしまうときは、逆効果なので、影響を受けすぎないよう、
 距離をとれる距離感も大事になる。

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6つの時間を、自分はどのように使っているだろうか?


時間の使い方の、分布をグラフにするワークをすると、解りやすいです。

 

私の場合は、

自分の「時間」の使い方(=人生)を 見直す切っ掛けになりました。

 

私の場合は、以前も、今も、「活動」が多いです。仕事好き。

好きなことを仕事にしているのもあり、
以前も、今も、活動に一番時間を使っています。

以前と、今の違いは、
「活動」時間には、明確な「成果・報酬」を意識するようになりました。


目的を明確にすることで、

「活動」の人間関係が、「不毛な関係」(ゲーム)にならずにすむようになりました。


あとは、「本音の交流」を増やせたら満足感があるのかもしれませんが、
相手にも限りがありますから・・。

 

「本音」と「表層」のリターンは意識するようになりました。

 

他者の影響を受けやすい私は、

自分が自分でいるために、

「自分メンテナンス」(引きこもり、閉鎖)に、
時間を使う必要性を感じています。

何と言っても、「不毛な関係」は、
早く気づいて、極力、関わらないようにするようになりました。


「時間の使い方」を変えると、人間関係も変わります。

時間を構築すると、人生の構築にもなる、という仕組みです。

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「時間」は、有限で、限りがあるので、時に選択をすることになります。

これもまた、人生の選択というなのだと思います。

人生は、自分で選択できる、という交流分析の指針です。

 
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人生の終わりについて、考えることがありました。

哲学やいろいろで、死を意識してきた自分の死生観は、
死を忌み嫌ったり、怖がったり、意識してこなかった人からすると、
同調なきフラットに感じるかもしれません。

実際に、死に向き合う場面の方には、
辛さや複雑な感情を、刺激してしまう側面もあるかもしれません。

死について、哲学するのは、
実社会ではデリゲート(忌み)なことなのかもしれません。

しかし、「人生」や「生きる」ということを考えるとき、
区切りであったり、相対にある「死」を意識するというのも、
必然であったりします。

全ての人に配慮できない部分があると思います。
もし訳ありません。

そして、改めて人生をふり返る機会をくれた友へ

感謝の気持ちです。ありがとう。

---

「死ぬまでにやりたいこと」列記してみました。

以外と少なかったですし、
若い頃とあまり変わってなかった。

私は「仕事がしたい」ということも、よく解りました(笑)。

今の私は、以外と、必然な状態なのかもしません。
そう思ったとき、痛みや理解できなかった過去のつじつまが、

すーっと、繋がった気がしました。

--

最近は、今期は、お仕事が毎週徹夜という状況だったのですが、
今週一段落したところです。

少しカラダも心もメンテナンスした方がよいなぁと、
感じていたりします。

また、どこかでお話しましょう!。

「ココロド」とは

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ココロド

「ココロド」について about The Kokolodo

「ココロド」について、あらためて

 


「ココロド」ってなに?

 ココロドは、私個人(黄月家_K)の心理やメンタル分野の活動側面、活動領域です。

 ココロド(心扉)には、自分のあり方や、どう生きるか、「本当の自分探し」を、カウンセリング心理学理論を応用して、自分発見をするために自分自身の心の扉とむきあう機会となることを望んでいます。


ココロド・ポリシー

 みんなひとり一人が、生きるチカラを持っています。そのチカラに気づいて、自分だけの素質をチカラに変えて活かしていく方法は、ココロ(心)の扉の向こう側にあります。
 ココロドがめざすところは、各々が、自分の素質を生かして活き活きと、自他共に活かしあえる、心づくりです。 本当の自分(の素質)を知って(気づき)、本来の自分を活かすことや、他者との違いに納得して、自分の個性を尊重することで(自己受容)、他者の個性の違いも尊重(他者受容)できるようになり、違う特性を利点として機会に応じて活かしあうことで、支え合える心を持つことをめざします。気づきの心や自他を認めあえる心は、新しい人間関係を築くことができ、これまでの生きづらさを、軽減することが可能になると思っています。

 


ココロドが したいこと

 ココロドは、自分を見つめ直したい方、本当の自分の探しや、 自分のアイデンティティーの確立や、環境や関係や生活の変化によるアイデンティティーの再構築の機会を、日常の出来事や、重たい気持ちに、心理学知識を応用する方法で、それぞれの生きるチカラを見出していただくための気づきの機会にしていただけることを目指します。


筆者 黄月家_K

 ココロドは、私個人(黄月家_K)の心理やメンタル分野の活動側面、活動領域です。私個人は、CGを始め多様でマルチな生業で、なかなか他者に理解されがたい部分を持っていますが、その基盤となているものに、「生きる」というテーマがあり、常に「愛あるもの」をつくりたい気持ちが私の主軸になっております。

 

「恋」と「胸の痛み」

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Wish © kizuki-ya k

 

「好き」という感覚が、「痛み」として、感じられるとき、

それを「恋」と確信する

という、感覚の覚えは、ありますか?


---


今日のお題は、「恋」と「胸の痛み」


これは、恋が「病」であるという感覚と等しい。


ただの「好き」でなく、
ただただ、どうしようも無く、意識とは別のところで、
無性に惹かれてしまう、それを、「恋」というのではありませんか?


「恋」とは、つまり、
嗜好に近い、つまり、感覚の分野のモノ(ノ気)。

そして、「恋」が、「痛み」と関係しているのは、

それは、交流分析用語でいう「ラケット」
つまり、「第二感情」のようなものだから。


理論にしてしまうと、味も色気もないけれど、


過去(子供の頃)の、自尊心を曲げた気持ちや体験
たとえば、「我慢」や、「自分を曲げる」、
「心に反した立場や役目を受け入れる」体験、

いわば、それは、子供の無邪気さにとって、
外部の(相手の気持ち)の想像が未発達の年齢の時代には、

思い通りにいかない、「苦痛のトラウマ」であったり、

人間や生き方についての、「自由を失うような体験」であったり、

解釈のできない「理不尽」のまま、呑み込んだ「煮え湯」の「痛み」や
「もだえ」の感覚であったりする。


自分をムリに曲げて、外部に従うことで、社会に適応した体験。
これが、「根底(トラウマ)の痛み」

 
根底の「痛み」の感情に対して、
その別の形の再現感情を「第二感情」と捉える。

「ラケット」というのは、第一(根底)と、第二(打ち返し)の
感情の内容が、同じで無くて、「反応・打ち返し」であったりすることに因果する。


--

本来、人は、「痛み」や「苦痛」に気付くと、
「調整」しようと試みたりする。

自己回復力さえ、発揮することもできる。


にも関わらず、自己回復機能に反して、「痛み」「苦痛」に、引きつけれるのは・・。


その「痛み」が、それで良かったのだと想うことで、
自分の「痛みの伴った体験」を正答化(OK)するために、
人は、あえて、自らの「痛み(自虐)」を繰り返そうとする。

というのが、交流分析の、ラケット感情やゲーム理論の解釈。

インナーチャイルド理論の、お世話役とお世話され役の解釈も同じ。

恋愛依存症の、理論は、「見捨てられ不安」のインナーチャイルド理論が根底。


---

つまり、


「恋」が「痛み」と関連しているのは、

「恋」に、トラウマが関連してるからと言える。

 


そして、「恋」が「病」の所以は、

正気なら、


本来は、人は「痛み」や「苦痛」を調整するために、機能を発揮するが、


「恋」に関しては、「痛み」に惹かれて、
自己調整機能を麻痺させてしまうから、と言える。

 

 

その「痛み」に、基づいた人生の適応イメージ(人生脚本:交流分析用語)が、
無意識レベルで、求める感覚。

 

それは、自分の「人生イメージ(適応)のカケラ」に他ならならない。

適応したものが「痛み」であれば、
人は「痛み」で、「自分の存在を確かめる」ということになるのかもしれない。

 

これを、「負」の「人生脚本」という。


---

人生の適応イメージ = 人生脚本(交流分析用語)


一般的な脚本の構成と同様に、脚本を構成する装置がある。

一般的な脚本の構成と同様に、アンチテーゼも内包している。


---

私個人、

最近、もの凄く心聴かれる、感覚に惹かれている。

それは、まぁ・・「曲」であり「歌詞」であり、
結局はそれを作る「人」がいるわけだけど。

その「痛み(自滅的)」と、自分の「根底の痛み」がリンクしてまう。


エンタメの好き嫌いは、概ね「自己投影」できるか否かの部分があって、

「自己投影」と、気付いていれば、発展的に、解釈できる。

 

惹かれる部分が「痛み(自滅的)」だったとするなら、
確かに「病」な要素はあるのかもしれない、

負の人生イメージを持っている方は、特に、「衝動」には、注意を払いたい。

「衝動」こそ、負の人生イメージにプログラムされた、

「負」の「人生脚本」の執行に他ならない。


本当は「自由」選択する「自由」は、いつでもある。
自分の人生は、「自分で選択できる」

「選択できる」自分がいる。
「選択できる」自分を養ってきた今がある。
「選択できる」自分の選択を信じる選択をできる、

そんな自分でありたい。

 

「負」は「行動」するか否かが、大きな境目


「負」は、「気づく」ことに、「大いなる意味」が派生する。


「行動」でなく、「気づき」の体験を有効利用することで、

人生イメージを 広げる切っ掛けになる。


---

逆に「痛み」が恐いから、

「トキメキ」や「感覚」ごと、封印してしまうのも・・ありがち。

--

人は、負の感情の存在や「痛み」の存在を認めることを
無意識にさけがち。

「自分の弱さ」に見えてしまうから。


本当は「負の感情」は、意味があって、

気付くことが大事なのに。


誰でも「負」は観たくないし、言いたくないし、気付かぬふりをしている。


「負の感情」は、行動してしまうと負になるけど、

「気づき」の段階では「発見の元(宝の入り口)」なんですけどね。


---

随筆しながら・・気づく。


これは・・自分(私)自身ですね。

見える世界はすべて自己投影(笑)のなすこと(苦笑)。

 

私にとって、エンタメは、ご褒美なんですね。

頑張っている自分を愛しましょう・・。自分へのご褒美を!。

 

私への私からのご褒美は、エンタメを感じる 自由、暇です(笑)。

 

そのエンタメが、「痛み」だっとしても・・
そのエンタメに「恋のような魅惑」を感じてしまったとしても・・

ここまで書いて、自分の「抵抗」に気付きました。
私は、「痛み」に向き合うことに、躊躇していたのですね・・(笑)。


自分の感覚を信じましょう!(と、私自身に言っている)。

---

 

本来、自分のことは、自分が一番知っている。

自分のがんばりに、自分へご褒美を与えるとしたら、

あなたへのご褒美は・・何ですか?

 

変化と「出会いの交差」

人は、思いの外、
他人の影響を受けている。

しかし、人は弱いが故に、
人と共に生きる、外的・内的構造になっている。


だからこそ、
自分を維持しながら、他者(外界)と接する。

自他のバランスを調整することが、
成長であり、自律性の確立条件であったり、するのだと思います。


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今日のお題は「出会いの交差」


ここ数ヶ月の出会いで、いろいろことを思いました。
そして、自分の考えが変わりつつあることを、感じます。


それは、ある意味、否定的な要素を含んでしまうけど、
「変わる」という要素には、ある意味、

段階として、「否定的な感覚」は、
あっても「良い」のではないかと思うのです。


「否定」は、極力したくない、というのが、
近頃の私だった気がします。

「I'm OK. You're OK.」(交流分析語録)

を常に意識しているからだと思います。

 

しかし、「否定」しないということは、
他者のコントロール(求められる)が、
自分の意志と違う場合は、
「違うと伝える」ことが必要になります。


往々にして、他者依存傾向が強い方は、
それを、「否定された」と捉えがちなので、
言葉や場面が難しい。


それでも、「否定」と捕らわれたとしても、
伝えることが、自分と他人の境界(バウンダリー)を維持すること
なわけで、

つまり、自分確保、自分の自律性、のために、
「必要なこと」なわけです。


今年、その「否定」を覚える(感じる)やり取りに違和感を感じたこと。

自分が「否定」を避けるがために、
片足を沼に引きづられそうになった出来事で、

いろいろなことを思いました。


それは、自分は思いの外、「独り」ではないということであり、
人のアドバイスや、人の助けで、泥沼に填まりすぎないで、
回帰できた気がします。

人は、自分のことは、自分で見えにくいですからね・・。


それは、「感謝」とともに、心が痛くて、
心が熱くなる感情でもありました。


なんでも、「独り」でやりきる私、からの、
変わりめだったのかもしれません。

---

自分が自分でありながら、

思って、行動して、それが何かしら他者に影響する。


一時期、自分は「透明人間」になりたいと思っていた時期があります。
自分の影響を他者に及ぼしたくないと思ったからです。

「自己表現が恐い」という感覚だと思います。

自分のせいで、他者を変えたくない。


私の感覚は、少し変わっているようで、
自分の感覚を「否定」されないために、
自分を出さないという選択をしたのかもしれません。


そう思っているうちに、自分を表現するすることが、
しづらくなっていたと感じます。

自己表現が恐い時期があった。


--
私の内側には「異物感」があります。

私は「異物?」「異人?」「異端」。


交流分析療法の、人生脚本的に理解するなら、
おそらく、「存在の禁止」や「仲間入りの禁止」という
トラウマがあるのかもしれません。


プロファイル的、理屈は、パターンを変えるための知識として役にたつけれど、
逆に、脚本に捕らわれすぎてしまう、要素にも成りかねないなって、
思う出会いがあった。


「脚本に捕られている」なぁと、
他人を見て思ってしまったのが、
この夏の気づきのきっかけだったと思います。
(これもまた、出会い)


「人生脚本」は、まんまの脚本と、反脚本の2種。

本当の「自由」とは、「脚本フリー」。


「脚本フリー」とは、脚本通りでも良いし、脚本に反しても良い。
その時々で良い。
パターン化していないことが、「脚本フリー」。

つまり、「意外性」にこそ、「出口」になるということなのかもしれません。

 ---

本当に、自分の素質を活かすということは、


つまり、私は「異物」「異人」「異端」で良い。
むしろ、その、利点を活かせる、

自分に自信を持てる方が大事。

自分は、「異端」で良い、
「異端」で良いと思える自分になれば良いわけです。

「ふつう」にならなくても、良いんです。


だって、私の人生は「ふつう」になるような、
組み合わせではなかったんだよね・・・。

どんなに もがいても「ふつう」にはなれない自分がいるんだよね。


「ふつう」になれない自分だから、
「ふつう」の人には理解されない自分だから、
「独り」で何でもできるように、
自分は「独りだ」と自分に言い聞かせて踏ん張って生きてきた。


人を求めず、人を頼らず、人に屈せずも、
それでも、人を尊重しながら、
「独り」でありながら、出来る範囲で共存を願った。


それが、今ふり返る、私

なんとなく、変わり目を感じる

---

エンタメって、不思議。

生き方が変わるような、作品との出会いが、時々あります。


作者の意図とは違うところで、
視聴者は、いろいろな自己投影をして、影響をうける。

それが、エンタメという刺激。
それでも、そこには、意味がないようで、
それでも、意味を見出すことは、受け取る方の内部の作用だから、
そこは自由に感じたいし、感じて、影響されてよいと思いたい。


今回は、

まふまふ氏の「ひともどき」という作品との出会いが、
私にとっての、変わり目と交差(出会い)となりました。

生き方が変わるぐらいの衝撃だった。

最初から、一気にもの凄い印象の情報の音とイメージが流れ込んできた。

もちろん、それは、自己投影と分化が難しいので、
体験を伝えることは難しい。

けど・・。


【MV】ひともどき/まふまふ

自分の中に流れ込んで広がった音とイメージと、
誰のものか分からない感情と、
今の自分が、混ざって、
生まれた感覚は、

「異端の自分で生きよう」ってことだった。

まふさんの音と出会えてよかった。ありがとう。
まふさんが生きてくれてよかった。ありがとう。

---

人(人の作品も含む)に、影響を受ける生き物。

人は、思いの外、
他人の影響を受けている。

それでいい。

そう思える、自分に、変化しているんだなぁと、
思うこの頃です。

読んでくださって、ありがとうございます。
みなさんの、存在に感謝です!。

「死に至る病」の出口

「もう疲れた 神様お願い、私を殺して」

と、何度も願った、頃が、過去にある。


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今日のお題は「死に至る病」の出口

 

今でも、油断(自己制御の範囲外)をすると、
そちらの方向に、心が向いてしまうので、
根源は、内部にまだある。


いつも、限界すれすれのところで、生きてる。
それは、自分の存在証明。


私が、私であることを、証明したい、ただその一心。


そして、張り詰めた糸が、切れそうな痛みに、いっそ切れてしまった方が、
楽になれるのにと、願ってしまっていた。
と思う。


キルケゴールの「死に至る病」であり、
現代の言葉に置き換えると、「ウツ状態」という奴です。


鬱病のメカニズムは、「脳の疲労」ですが、
「脳の疲労」に至るには、「身体の疲労」に沿わずに、
思考だけがぐるぐると働き続けることに因果します。

それは、
むなしい答えしか見つからない否定思考のループ(否定的自動思考)、
終わりも、成果もない思考のループと分類されます。

疲れきっているので、自分で思考を停止させることも出来ない。

死に至る病」、私はこれを、大卒の卒業論文で「絶望」と呼んだ。


現代では、その「死に至る病」のメカニズムが大部解明されつつある。


--

「鬱」という分野では、
「身体の疲労」→「脳の疲労」→思考や行動のパターン
 →「否定的自動思考」→「トラウマ」→「スキーマ

更に、交流分析では、
 →「幼年期の環境」
 →「親・養育者」の思考・行動・トラウマの影響
 → 代々受け継がれた価値感の影響
切りのない、根っこに、さらに、ウツが増すこともある。

 

1)軽度のウツならば、
「生活のリズム」を整えることで、改善が見込める。


2)思考の偏り(認知の歪み)が見られるウツは、
「認知再構成法」の心理カウンセリングで、改善が見込める。


3)「死」に惹かれる(吸い寄せられる)タイプの場合は、
 人生脚本(交流分析用語)に「存在の禁止令」を持っている場合が多い。

 

 どこかで、「自分は邪魔者」とか、「自分が居ない方が良い」と、
 思考が発達する以前(概ね10歳以下)などに、
 無意識の中に定着するようなトラウマを抱えていたりする。

 そして、概ね子供の頃のトラウマは、
「親のため息」は、「自分のせい」と思ってたり、
「お前でせいで・・」と言葉を浴びせられることもある。

 トラウマによる「禁止令」は、
 OK条件とセットで、行動タイプを作ってしまうことが多い。

 

 たとえば、「存在してはいけない」という無意識の思い込みを、
 回避する条件として、「人の役に立つ」という概念をセットで、
 人生脚本に組み込んでいる人は、

 「自分の存在の価値」を、「人の役に立つ」ことで、
 存在証明しようと生き、 自分の存在を消耗して、
「人の役に立つ」ことを証明しようとする行動パターンを 繰り返す。

 そして、「人の役に立つ」を否定された瞬間、自己消耗の方向で
「死」に向かう。


 「禁止令」と、禁止令の「回避条件」の組み合わせは、何通りもあり、
 自己のパターンとして、繰り返し強化されていく。


 自分で気付くことができれば、パターンは分析・解析可能で、

 自分で気付くことができれば、人生脚本を、生きやすい脚本に
 書き換えることが可能というのが、交流分析療法の心理カウンセリング。

 
 具体的には、「改善したい」という気持ちに従って、
 「禁止令」による人生の選択を、「禁止令」を解くことで、
 生きやすい人生脚本に書き換える。

たとえば、「存在の禁止」がかかっている場合は、
大抵、悲しい自分の「死」を漠然とイメージしていたりします。

あるいは、自分は「生きていてはいけない」と思ったりします。
あるいは、「ここに、居ていけない」と思ったりします。

「存在の禁止」を解くことは、

「生きていて良い」
「ここに居て良い」
「存在していいんだ!」

と、思えることであり、今後、
「生きる」「存在する」行動を、選ぶことで、あったりします。

そして、
「「生きる」「存在する」行動を選ぶこと」は、

自分の価値を、軽視する、他人や自分との交流から、
距離をとることでもあります。


---
ここまで、私自身、

(認定)交流分析療法師であり、学びつづけている中、

実は、結構限界を感じます。


禁止令や、スキーマの経緯を、自覚する工程で、
幼年期の存在や、親との関係をふり返る時、


このとき、心の痛みに絶えられない時、
痛みの全てを環境や親を憎んでしまう場合がある。

自分のトラウマを、認知することが、
養育者を悪に作り上げてしまったり、
歪んだ自分の言い訳を強化してしまったり、


痛みから抜け出せないもがきを
自分自身も含め、どうしようもなく、
ただただ・・見てきた。


この夏、思った。

 

「人生は変えようとすれば変えられる。」

だけど、もだえて変えるばかりではないのだと・・


実は、「分析」のもっと先の、
「どんぐりの・・」ジェームズ・ヒルマンの「魂のコード」
更に先の・・


出会いや、偶然の一致・・や・・


人は独りで生きているわけでなく・・
さまざまな偶然や必然がかさなって、

成り立っている、今の自分の存在・・・

悲しみも、痛みも、実績も・・。


流されるので無く、
流れに乗るような、感覚の切り替えができれば、

 

これから、どう生きるのか・・


波に耐えもだえなくても、
流れに自分を預けてみることができたら、


乗る流れを見極めることができれば・・・


より楽に、多くの人が、
この先、より多くの人が生きてゆけそうと、思い・思い出した。


痛みを知ったからこそ、
自分を信じられる、自分がある。


過去の嫌いな自分を、抱きしめながら、生きれる方法へ、
出口は、来る・・。

 

 

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自分喪失、「自分のカケラ」

サボテンの花が咲きました。

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サボテンの花

---

 

目的があって、頑張っていたはずなのに・・・
好きなことをやっているはずなのに・・・

なんだか、むなしい・・

楽しくもなく、悲しくもなく・・
感覚がにぶくなているような・・
何も感じない・・ような・・。

 

「本当の自分」を 何処かに置き忘れていませんか?


・ あ忘れ物、うっかり

・ 遅刻、寝坊、

・ 倦怠感、やる気が出ない

・ 身体が思い通りに動かない


そんなときは、「本当の自分」を忘れないで!のサインです!。


・ 無性に反抗したい

・ 言われた通りしたくない

・ 別のことがしたい自分がいる

こんな時は、速く「本当の自分」に気付いてやって欲しいタイミングです!。

 

---

ということで、

今日のお題は「本当に自分」

 

「本当の自分」といっても、

身体も、心も、行動も、どれも、「自分」に違いないので、
「嘘」の自分とか、「偽り」の自分がある訳じゃないです。

内面と、態度が意識的に分離してしまっている場合は、
「嘘」や、「偽り」と感じる自分の一面が、ある場合もありますが、

気づけていることは、素晴らしいです!。


気づく部分があるのなら、偽りの意味付けや割り切り、
あるいは、修復や方向転換の可能になるからです。


大抵の人は、疲れたり、悩みを抱えていると、視野が狭くなり、

自分のいろんな要素、

たとえば、一生懸命な自分、思いやる自分、考える自分、自分の感覚、弱い自分など、
が、偏ってしまっていることに気が付かない事があります。


「自分」と一言でいっても、

人間は、身体と心、思考と感覚、強さと弱さ、
大人っぽさ や 子供っぽさ など、

矛盾を内在しています。


「矛盾」があって当たり前、というのが、「人間っぽさ」であったりします。


ゆえに、人間は、迷いやすく、非合理な部分が多くあります。


だから、「悩んだり」、「考えたり」する経験が、
自分のアイデンティティを育てるわけですが、


現代人は、時間がないらしい。

 

時間をケチるということは、一見、合理性で、建設的のように思えるけれど、

経験や、考えるチカラ、悩みを抱える強さ、
痛みやダメージを癒やす回復の時間や機会をも、
同様にケチってしまうので、

現代人は、自分のことを考えるチカラの経験が少なく、
矛盾に弱く、痛みやダメージに弱く、
自分を癒やす前に、防衛と攻撃の違いすら微妙な場面も、見受けられます。

 

自分の中の、別の自分、
矛盾した自分に気付くことが、第一歩だったりします。

 

矛盾の大抵は、

頭ではわかっているんだけど・・の、理想や、学習している自分

VS

素の自分、自分の状態や感覚や、キモチ

の 板挟みだったりします。

 

それは、理想だったり、合理性だったり、結果・評価思考だったりする要素と、

VS

自分の生っぽさや、人間ぽさの要素だったりします。

 

一生懸命がんばり過ぎているときは、
頭や、思考に偏りがちになりますし、

偏りを通り過ぎると、
思考しても、身体が反対の状態になる・・
みたいな、自分の中が、バラバラの状態になってしまっている
ということになります。


だけど、意識は、思考や理想に偏っているから、
片方の、忘れている自分を認識できなかったりします。
「自分のカケラ」に気が付かないなんて・・思いたくもないから・・
思い込みと無意識が、更に、自分のカケラを 観ないように
柔軟性を欠いた自分の方へ、硬く偏ってしまいがちです。


取り残された「自分のカケラ」は、自分に見捨てられて悲しいね。


何処か、遠くで、さみしさや虚しさが自分を包むのは、

「自分のカケラ」を何処かに置き忘れているからなんですよ。


「本当の自分」とは、忘れがちで、受け入れがたい
矛盾し自分であったり、自分の弱さであることが、多いです。

 


人間は、構造上、矛盾を抱えやすい存在なのです。

弱くていい。
矛盾があっていい。
人間だもの。

ありのまま、ありのまま、
矛盾があるからこそ、方向転換もできる、可能性も広がる。
矛盾があるからこそ、考えられる。
弱さがあるからこそ、学習できる。
考えられる。


自分の中の、矛盾や弱さに気付いたら、

自分の別の部分で、見捨てず、見守り、寄り添い、
時にお世話労れることが、
自分を成長させるコツだったりしします。

 


--
どうしたら、自分のカケラを愛せるのか?。

 

自分で、自分のお世話ができるようになる。

そのために、自分の状態に目を向ける。

そのために、まず、「安全な場所、自分が居てもよい場所を確保」する。

自分を壊さなくても、愛されない自分でも、居て良い場所。

それは、時々、ひとりきりになれる場所であるかもしれないし、
想い出の場所であるかもしれないし、
誰も知らない、自分が出せる場所であるかもしれないし、
あるいは、シェルターや 
カウンセリングルームだったりするのかもしれないけれど、

自分の中の、傷ついた自分と一緒に入れる場所、
それが、安全な場所。

 

自分の状態に目を向ける。
自分の中のカケラの声を聴いてみよう。


自分も他人も同じだよ(対等)。


もしも、自分(他人)が 悲しんでいたら、優しくしてあげて。

もしも、自分(他人)が 泣いていたら、そばに居て抱きしめてあげて。

もしも、自分(他人)が 怒っていたら、話を聴いてあげて。

もしも、自分(他人)が 喜んでいたら、喜びを分かち合って。

もしも、自分(他人)が 迷っていたら、待ってあげて。


時間や成果では、得られないものが、
そこにあるから。

幸せや、幸福感は、時間や成果で得られるのは80%まで、
どうしても、足りない20%があるのなら、

それは・・

 

もう一人の、自分の中の
置き去りにされている「自分のカケラ」の存在だったりする。

 

 

自分の中の片割れが、愛されない自分なら、
自分が満たされる感覚は半分になってしまう。

自分の片割れが、本当に愛されたいのは、
自分自身なんだよね・・。


立派だから、愛する、愛されるわけでなく、
条件付の愛なんて・・本当の愛じゃなんだよ。

ただ、存在していることが、
そこに、存在していてくれること、
それ自体が愛なんだよ。


ま、私自身も、自分嫌いの王者で、
「自分のカケラ」を、自分で粉々に砕いてた時期もあったと思います。


それでも、こんな私が、
「自分のカケラ」を・・ま、抱きしめることは、なかなか難しいですが、
寄り添うことは、出来てきたのかなと・・
思うこの頃です。

人には、「本当の自分」大事にしてくださいね! と
言いつつ・・


自分は、まだ時々、忙しさにかまけて、
「自分のカケラ」を、何処かに忘れてしまうことも、まだまだあります。


でも、上手く行かないときは、
意図的に、「自分のカケラ」を探しに行きます。


こんな「カケラ」守ってやれるのは、私しかいないのだから・・(苦笑)。

(ちょっと、ディスりはいってるかも知れない言い方ですみません・・。)
(私も、無条件の愛を知らずに大人になった経緯がそうさせているのだろうと思います。)
(ま、このようなキズや痛んだ私も、私のカケラなのだから、
 痛んだ私も存在していて良いと思うことにします。)


以前、「本当に自分」と出会うことについて、
ワークをした事がありますが、

その時、一人の学生が言ってた・・「ほろ苦い」感じって。


人間って・・複雑やね・・(苦笑)。