ココロド_黄月家K's weblog

考えすぎ? ココロド_心理カウンセラー_黄月家Kの 思考いろいろ、心理分析、ものづくり、時々庭、時々日記です。

「理解」すること。愛とは「理解すること」って思っている。

新しい年になりました。

いろいろ忙しく、やりたいことも、やらねばならないこと(笑)も、
沢山有り、「あれも、これも」の、状態に陥っている様な気もしますが、

そんなこんなで、少し、気分を浄化したいと、思い立ち、
短い時間で、気になる神社に行って、開運祈願をして参りました(笑)。

f:id:kizuki-ya-K:20190128174916j:plain

田無神社_手水舎龍

手水舎の白い御龍神、美しいです。

f:id:kizuki-ya-K:20190128175023j:plain

田無神社_グッズ

とっても魅力的でしたので、こんな塩(岩塩、赤と黄色と)を購入しました。
浄化力感じます(笑)。
結構大きいのです。直径5センチほどあるのに、お手頃価格でした。

もう一つは、お香、東西南北と中央の5箇所で炊いて、家を清浄するアイテム。

自分のことで、祈願をお願いたのは初めてです。

社殿へ通じるお部屋に、龍の絵が5体。
なんとも言えない流れとチカラを感じる絵の龍でした。

社殿で祈願が始まり、
太鼓の音の響きに、なぜか、涙があふれてしまいました。
私は、泣きたかったのだなぁ、
私は、自分のために望んでいいのだ、
私がここに居ることが許されているのだなぁと、
感じました。

裏返せば、
感情の禁止(悲しんでいけない)
欲求の禁止(望んではいけない)
存在の禁止(ここに居てはいけない)

に、囚われていた自分が見えてきます。

泣けてきた。

お祓いしていただき、開運を祈願していただき、
払いの気や、鈴の音、神主さんの、お言葉と優しい表情に、
ありがたさと、包まれるような気を感じました。

泣けて来ました。


---

今日のお題は「理解」すること


最近、思っていたコトがありました。


否定が、不安を生み、否定が闇を産む構造。
社会全体が否定的で、
「優しさ」にさえ、疑いを持たねばならない現代社会になり、
安心や信頼を、育てることは更に難しいと感じます。

それでも、私には願いがあって、
人それぞれが、自分のチカラを信じれるような社会になって欲しいし、
人それぞれが、自分のチカラを発揮して、自信を持てるようになってほしい。
だから、私は、人の心のチカラを発揮できる人を、
自他共に、成長できるチカラを育みたいと思いますし、

そのために、
否定するのでなく、理解しようと思うのです。

 

理解してしまうと、
従わねばならないと思っている人もいますが、
それこそ、自分と他人の区別が曖昧な、関係を証明していますね。
理解することと、自分の考えを他に持つことには、違いがあります。

 

違っていい。
理解してくれて、それでもなお、他の考えがあるのなら、
それでいいではありませんか。
最初から無視、とは、えらい違いです。

 

理解は、「愛」と言えると思います。
しかし、理解は、同調や同意とは区別するべきものです。
だからこそ、「理解」の意味があり、
理解が深い「愛」だと感じられるわけです。

違うけれど、「理解」できる。

そこに、愛を感じずにはいれません。

利害のない部分。操作的でない部分。純粋性。


理解は忖度を促すモノではありませんよね。
上下や、優劣のチカラ関係に左右されるものでもないからこそ、
理解に意味があり、理解は「チカラ」だったりします。

 

私自身、「理解」して欲しい、
「理解」してくれたら、それだけでイイ。
って思ったりします。

しかし、
忙しがりの現代社会は、
人に話をする時間もなく、
ましてや、人の話を聴く時間も、ろくにありません。

「~べき」
「~せねば」
「~しないとダメ」
の、自分で思考して吟味できるチカラが育つ以前に教え込まれた、
外部準拠の、否定的自動思考に、思考(脳)が支配されていて、

「~したい」
という、心からの欲求を、見失いがち。

自分の欲求を見失っている状態は、自分の「理解」が難しい状態だ
ということすら、「理解」できていない状態。

自分を見つけ出すのには、内部の自分との会話が必要になります。

 

「自分本当は、どうしたいの?」

 

人は人と接することで、
人やモノや事象に、表現作品(音楽や絵やエンタメなど)に、
自分の心を投影しているという知識があれば、
人や体験を通して、自分を感じ、自分の成長に繋げることもできます。

しかし、人や体験を、防衛してしまう習性をもってしまうと、
学びや、気づきも、減ってしまうので、成長も自分のチカラを延ばす方法も、
遠回りになる原理です。

自分の防衛の習性も、「防衛機制」などの知識があると、
気づきや、理解に、役に立ちます。

 

「防衛心」が強い人は、
自分の防衛している実態に、気づくことすら防衛の対象になりますので、
不快な防衛機制をひたすら繰り返して逃避しつづける・・

「理解」の障害になるのは、「防衛」と感じます。

「恐怖は眼を曇らせる」って、
過去の私は、そんな言葉で、感じていました。


「防衛心」が強い人は、現実を受け止めることを防衛しますので、
歪みを持っています。
認知の歪み、否定的自動思考の論理が、それにあたります。
歪みは、言い訳(抑圧や、否認や、置き換、反動形成、投影、同一化なの防衛機制)であったりします。
また、認知バイアスの原理もあります。
認知バイアスは、リスク回避(防衛)的な自動思考だったります。

こうして、
「防衛心」の強いタイプの人は、
自動思考が強いために、
吟味するチカラ、事象やデータを客観的に観るチカラが弱く、
逆に、思い込み、特に、否定的な思い込みが強い傾向を感じます。

吟味したり、思考する経験が少ないために、
思考力が弱く、特に、カタチのないもの、
概念とか、心理とか、時間や空間や距離感などの、認知の経験未熟で、

結果、

「創造力」や、「建設的な構築」が、未熟な傾向を感じます


認知バイアスというところの、
システム2、「考える力」の経験不足・未成熟でもあります。

 

「防衛心」の強い人の話は、
自分の内面を率直に伝えることが難しく、
防衛機制(防衛的な衝動・行動)が染みついているので、行動や心情が複雑で、
本人が誤解を招きやすい上に、
人の話も、思い込みによる「誤解」をしがちです。

コミュニケーション障害 に陥りやすい傾向を感じます。


「防衛心」の強い人にどう接するか?、

私は、ここしばらく考えていた気がします。

 

理論的には、

「防衛」する必要性を無くすためには、
「安心」を支援します。
「安心」とは、操作しないことであり、
「ご自分らしさ」を否定しないことであります。
同時に、
ご自分の「防衛」に気づいていただくことが必要になります。

「否定しないこと」は、「肯定すること」ではありません。
心理面の成長や発達を促すためには、
何が成長に繋がり、何が成長の妨げになるのかは、伝える必要もあります。

いうならば、
まず、成長したいのかしたくないのか?
どちらが、本当の自分なのか?

「回避や防衛」は、一時的なリスク回避に役立つが、
固定化してしまうと、成長を妨げます。

信じられる自分に、自分を近づけていく方が、
自分に安心出来るし、自分を好きで居る方が、心が楽で、
自分の能力を発揮しやすくなる。

と。

もう一つ、伝え加えるなら、
「自分の好きな自分」= 「優劣」の価値観ではないということ。

優れていない部分があっても、
「自分らしい」とか、「かわいい奴だ」と、思えればいいのだということ。

優劣の、外部準拠の価値から、自分を解放するだけで、
可能になることでもあります。

優劣の価値の、外側の側面を、「理解」することで、
それが可能になるのです。

---

とはいえ、

私は、人の心を操作することはしません。

ゆえに、

私の「理解」を必要とする人の元へ、
私の「理解するチカラ」が、届けばいいなぁと、


私が私らしくあり、
私の「理解するチカラ」を活かして、
私の廻りの、役にたったら、いいなぁと思います。
私も、廻りも幸せ、という関係ができたらいいなぁと願います。

そのためには、

「理解」に「理解」を向けてくださる方と、
時間を共にしたいと思っています。

豊かに表現できる社会の、実現に近づきたいです。
私も、表現者の一人として。

 

「理解」して下さる方、いつか、お逢いしましょう!。