ココロド_黄月家K's weblog

考えすぎ? ココロド_心理カウンセラー_黄月家Kの 思考いろいろ、心理分析、ものづくり、時々庭、時々日記です。

「運命」、「イメージ」と「声」の人生脚本

原宿のふくろうさん、すっごくふわふわ!。

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原宿ふくろう

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清正の井

清正井、心が透き通るぐらい、美しい透明感、スゴ過ぎです!。
相変わらず、余裕のない性分ですけど、近場で魅力的なところへちょこっと参りました。

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今日のお題は、「運命」

 

自分の運命は決められてると思うか?
自分の人生は、自分の選択によって変えていけると思うか?

「運命」が決まっていると思う人より、
「自分の選択で変わる」と思う人の方が、
自己実現の可能性が高いという話があります。


また、「運命」と「宿命」は違う、なんてお話しもよく聴きます。
「運命」vs「宿命」の場合の、
「運命」の意味は、自己選択結果としての巡り合わせによって運ばれてくるもので、
可変可能なの部分
「宿命」の意味は、生まれる前を含むベーシックな部分
たとえば、親とか家族の構成や生まれた時の状況など、既にあるモノ・コト


いかがですか?
「運命」って変えられるって、思えて来ましたか?

「運命」って言葉の響き、
否定的な環境にいた人にとっては、否定的なイメージがあるでしょうか?
それとも、「依存症的な王子様症候群」のように、
突然、他者(王子様や神様や何か?)のチカラによって
自分の運命を変えてくれる者を、
ずっと夢見る的なイメージもあるかもしれません。

 

「運命」ってどんなイメージを持っているでしょう?

 

私の学ぶ交流分析心理学の、エリック・バーンの言葉で言えば、
「過去と他人は変えられない、変えたいのなら自分を変えていく」

つまり、未来は自分次第で変えていけるわけです。


私の学ぶ交流分析心理学で、「人生脚本」という理論があります。
かなり要約すると、
自分が物心つく以前に自分のおかれる人間関係(環境)の中で、
「自分はこのように生きるのだろう」と漠然と無意識に刻んだイメージに従って、
生きているという理論です。

 

交流分析の新しい翻訳本がでまして、
訳監修の先生の講演会に行く機会があり、最近、「人生脚本」理論がらみに、
「運命」って言葉に、いろいろ感じました。

 

参考として、ご案内します。

 

エリック・バーン人生脚本のすべて 人の運命の心理学――「こんにちは」の後に,あなたは何と言いますか?

エリック・バーン人生脚本のすべて 人の運命の心理学――「こんにちは」の後に,あなたは何と言いますか?

 

 

私自身は
自分の人生は、自分の選択で変えていけると思っているタイプです。
交流分析心理学も、自分の「不具合な人生脚本」を変えるための、
「再決断療法」など、いろいろな療法があります。


また、
人は「失敗の場面」」を意識すると、「失敗」する確率が増え
「成功の場面」を意識すると、「成功」する確率が増える、
そんなデータもあります。

否定的なイメージを持つような環境で人格形成がなされたら、
否定的なイメージが現実化してしまう確率が高いということですね。

そして、「やっぱり」といって、自分の運命として固定させていき、
否定的な自分の人生を受け入れて、否定的な繰り返し強化していくという
人生のプログラムが展開される仕組みです。

そんな否定的なプログラムを、肯定的なプログラムに書き換えよう!
と考える、NLPという方法論もあります。

 

しかし、簡単でもない。

解っていても、肝心な時に、否定的だったり、自虐的なシナリオに
逆戻りして、元の木阿弥(呪いの運命)に戻る衝動や誘惑や固着・執着
キャストいろんな場面展開という、脚本の仕掛けを内包していたります。
自分の無意識にしみこんだ脚本を変えるのは、それなりに大変。
どこからどこまでが脚本なのかも、定かに切り分けでもできない。
脚本も反脚本も脚本のうち、みたいに、本当に複雑。


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手塚治虫先生の、「どろろ」、今TVアニメでやっています。
私は、以前、マンガで読みました。
大好きですし、手塚治虫先生の深さに感動します。

どろろ」を、再び今の視点から、アニメで観て、感じることがあります。

亡き「母(両親の愛)」の思いを背負って生きるどろろと、
生きている親に存在の禁止(存在否定)を背負う百鬼丸の、
アンビバレントでありながら親なのない同士であるコンビ。

親の都合で心体を失った百鬼丸が鬼神を倒すと、
取り戻すものは、彼の感覚(心体)であり、それは心の基だったりする。

昔から、父との戦う物語は沢山ある。
古典にもあるし、
ダースベーターも父(敵)だったりします。

これ、交流分析的には、
父は、CP(critical parent 性格の一部)の象徴、CPが強すぎると、
否定的で批判的・支配的、の側面が高くなり、反抗を招きます。
CPが強い環境下で育つ子どもは、他人批判か、自己批判として影響を受けます。
そこから、notOK(苦しみ・苦悩)から、抜け出るために
父(CPの象徴)を倒す(超える?)という展開になる。
昔から、敵が父であり子であるのは、宿命であり、運命でもある。

 

心理学でも、
自律するのは、自分が必要。
「自分になる」という自己アイデンティティーの確立(青年期の成長課題)には、
自分の中の、CPと自分(CやA)の不均衡(せめぎ合い)が経験課題だったりする。

しかし、現代人我々に当てはめてみると、
結局のところ、父を倒しても、否定的な苦痛を上塗りことになるので、
苦痛から逃れることができない、脚本通りに生きるも、反脚本に生きるも、
脚本のうち、ということだったり・・。
けれど、理屈を知らないのなら、気づく機会を得がたい。

 

自分の「生きづらさ」のつまった脚本から、自由になる方法を、
交流分析では、「脚本フリー」って言い方をします。
「とらわれないで生きる」的な感覚だと思います。

でも、そこに至る過程の間で、
やはり、かかった禁止令なり、否定的な思いや固着を、
変えるために、否定を否定する段階(反脚本)も、一時的に必要になったりします。
理屈だけで、変わることが可能なら、みんな仙人になっているよ。


やはり、行動や感覚、そして、心が伴うために反対にブレる経験が
一時的に必要になるわけです。

肯定的な経験、愛される経験だったり、役に立つ経験だったり、
優しくできる自分の経験だったり、
肯定的な経験に繋がれば、自分の足基が少し見えてくる。

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脚本は、どこに隠されているか?

エリック・バーンの訳本の講演で気になったキーワードは、


「イメージ」と、「声」


「音」じゃないんだね(笑)。

「声」とは、つまり、「言語」という意味
よく、神の声とか、悪魔の声とか、声が聞こえて、
事件や問題を起こす人も居ますが、
問題に繋がるのは「否定的な言葉」ということ、

 

そして、その「声」の正体は、

 

無意識(思考(10才)や言語(3才)が発達する以前に無意識に入り込んだもの)が、
「イメージ」であり「声」となって
自分の一部に存在しているってこと。

 

幼い頃の、環境から受け取ったメッセージだったり、

直接的に浴びた言葉だったり・・。

 

そして、その「イメージ」や「声」の影響を無意識に受けて、
物事を見ている(解釈)ということ。


そう考えて、自分(私)のイメージをふり返ると、
以前(青春期)、私はなんとなく、自分のことを「ブタ」と思えていた。
太っているわけでもないけど、

「エサを与えられて、太ったら食べられしまうブタ」

だからか、人からモノを貰うのが、苦手だったりする。
貰った後の自分の結末に良いイメージを抱けないからだ。

 

今、自己分析するなら、
条件付の愛情の押し売り感覚が、背景に見え隠れする。

 

よく、アバターとか、自分の化身としてのデジタルの姿も、
たぶん、自分の無意識に絡んだイメージから来ている気がする。

私の場合は、
最初は、ヤンバルクイナ = 飛べない鳥
その次は、キジムナー = 孤独な子ども妖怪
その次は、孤高の龍 = 破壊と創造

だんだんチカラは付いているし、飛べるように成って来たけど、
悲しさと孤独は依然そのまま・・。

自分の脚本も少しづつ変わって来てはいるんだろうね(笑)。

 

「イメージ」

面白いね。


なぜ、脚本を「イメージ」で持ち運ぶ、

って、フレーズが面白かったかというと、


つまり、
イメージが変われば、「脚本」も変わる。

その「イメージ」を変えれば、「脚本」が変わる。

「イメージ」を変えれば良い

といういことになる。


「イメージ」を書き換える。
「イメージ」を描き変える。

描き変える意志を持って、可能となる。

「描く」んだよ。

自分が、自分の脚本を「描く」んだよ。

「なりたい自分」のイメージを、描くことで、
成りたい自分に、近づくことが可能となる。


そして、無意識に混入した「声」については、
「声」は、「言語」、「言語」は「理論」

つまり、知識をつければ、理論で覆すことが可能。

思い込みや、刷り込みの言葉は、知識や理解によって、覆すことが可能。

 


人生は、変えたいのなら、変えられる!!!!。

 

「生きている」なら、遅い過ぎることはない。
いつからだって、変えられる。
変えたい気持ちが必要だけど・・・。

--

他人と過去は変えられない。
自ら変わりたいと思うことがあれば、
コトは変わるかもしれなけれど。


他人の脚本が見えてしまっても、
他人は変えられない。

むしろ、私を脚本に引き込むことを望む人もいる。
怒り、批難、脅迫、侮辱(ぶじょく)、暴力、あるいは、
世話を焼く、教える、ほめる、お世辞、誘惑などで、
私の心を動かそうとする人も居る。
被害者の顔で、迫害者の顔で、救護者の顔で、
私に役を求める人も居る。

自分がどうすることも出来ないことのあり、
自分も守らねばならない時もあり、
自分の無力さを感じることもある。
敗北的な気持ちに陥る時もある。

だけど、

もう一つ、エリック・バーンの翻訳の講演で、私が勝手に受け取った内容ですが、
深い内容がありました。

ただ、居るだけで、居続けるだけで良いのだと。
脚本に乗らない人間が、
そこに居続けるだけで、流れが変わることがある。
気づきのチャンスになることがある。
居続けることに、意味があると。

 

これ、私の解釈だと、見捨てないこと 放棄しないこと
という意味の様な気がしました。

これも、否定的な言い方だから、
言い換えるとするなら、
「存在する」ことが「愛の可能性」ってことですかね?。

 

肯定的に言い換えるなら、

「居ても良いし」「離れても良い」ことになる。

「変わって良い」し、「変わらなくても良い」ということでもある。

私の気持ちが在るならば、いずれにしても、私の存在に違いない。

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さて、

「エサを与えられて、太ったら食べられしまうブタ」

そのブタが、飼い主に食べられてしまう運命は脚本、
「食べられないブタ」になるのは、反脚本
否定の否定に過ぎない

では、「脚本フリー」とはどういう状態か?

肯定とするならば、
喰われても良し、喰われぬも良し、別の人生も良し、
ってな、行程を選べる状態、なのだろう。
と、今の私は、思えます。
(現状理屈ですけど(苦笑)。

 

(内面としては、やはり、理不尽に喰われるのは嫌なんだよね。)

 

実際に、イメージだけでも書き換えてみよう、
やっぱり、イメージを意志(選択)を持って、描き変えるという、
私の解釈にしたがって、イメージを描きなおしておこう。

「頭の良い理解力のある人気者のブタで、人や物事に恵まれる」にしておこう。
もちろん、好きなときに、好きなように、いつもで、
描きなおすことができる。
ブタが、空飛ぶ鳥になったりもするし、龍になったりすることも可能。

 

脚本フリーとは、脚本に縛られないことかも、


いや、これも、否定的な言い方を修正すると、
自由な脚本、自分がステキなシナリオライターになること、
だったりするのでは・・と想う訳です。

 

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なんと今回のweblog、平成最後の日に描き始めて、今日は令和2日目です。


4/28のビビッド(TBS)で、金八先生のドラマを通して、
昭和と平成をふり返るコンテンツをやっていまして、
金八先生大好きな私は、観てしまいました(笑)。

金八先生(武田鉄也さん)曰く、
「昭和は力の時代」「平成は、無音の時代」とおっしゃっていました。

私も、納得で同感です。

心理系哲学的な私の感覚で文字組みすると、
平成については、「NO コミュニケーションの時代」てな、印象です。
SNSとかで、コミュニケーションが多感なようでいて、
実は押しつけ一方通行だったり、仮面コミュニケーションだったり。

だから、来る新しい時代には、
「対等なコミュニケーションの時代」を願います。

なぜって、やっぱり、人は「人間」っていうだけあって、
人と人の間だで「生きる」生き物だから、
「生きる」ということは、人と人の間に存在すると言いますか、
その関係に影響されるといいますか、
交流分析心理学」に繋がるところでもありますし、
発達心理学にも通じることですが、
人が「人になる」には、人との(対等な)コミュニケーションが土台になると
思うからです。

心の成長には、心を感じる豊かなコミュニケーションを望みます。


同時に、豊かなコミュニケーションを見極める目や、

否定的な毒を内包するコミュニケーションから、
自分を守る知識やすべを、学ぶ必要性も感じます。
(心理学で、解毒しましょう!。)

知識も、すべも、他者との中で体験的に繰り返し学べることであったりします。

全くもって、人の社会は矛盾した構造で、人は矛盾した生き物ですね。
矛盾を内包しているからこそ、
バランス次第で、可変します(苦笑)。


令和、自分のイメージを描きましょう!。

みなさんそれぞれが、みなさん(ご自身)で有りながら、
他者に寄り添える(理解する)、優しさを内包した時代でありますように!!!!。