「私は何のために生まれたか?」
青春時代の課題であり、
自己アイデンティティー確立時には誰でも想うこと。
「人は、何のために生まれたか」
人は「愛されるため」に生まれるのではなかろうか?。
だから人は単独から発生しない仕組みを用いて、
単独で成長できない仕組みを背負っているのではなかろうか?。
人は愛され成長する仕組み。
しかしながら、「愛」は充分でなく、
だいたいはほどほどで、
だからこそ、
その満たない愛を獲得するために様々な技能を身につけ
迷いながら成長するのではなかろうか。
成長する自分を愛することで
迷う自分を愛することで
愛を生める人になり、
成長する他者を
迷える他者を愛せる仕組みではないだろうか。
愛を、奪いつづける人になるか、
愛を作り出せる人になるかの
分かれ目は、
成長つまり、自我アイデンティティーの確立という境目なのだろう。
つまり自律性。
愛が充分感じられない人は、
自分の生まれた意味=自分を活かす方法をみつけることが
ぼんやりと遠く感じられる。
生きる意味などないとすら思うコトもある。
だからこそ、言おう、
人は愛されるために生まれたきたのだよ。
ニセモノの愛(条件付の愛)に踊らされないために、
人からニセモノの愛を貰うために自分を滅しないために、
本当の自分を
本当に愛せる自分になればよいのだろう。
見せかけでなく、
それは格好悪い部分も含むけど、
理想でない愛は、
現実の愛は、
痛みを知って居る。
格好悪い自分にそっと寄り添うことだたりする。
内側の本当の自分と一緒に泣いてくれることだったりする。
とりとめの無い、本当の心の話を、聴いてあげることだっだりする。
ただ耳を傾けることだったりする。
(考えと行動は別だから、それができる。)
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あっという間に年の暮れになりました。
とにかく、私はむちゃむちゃのムチャクチャ忙しかった。
他者と自分へ愛を得るためであっただろうし、
他者と自分の生活のためであったと思うし、
他者と自分の未来のためと思っていただろうし、
向上心であっただろうし、
愛される自分になるためであったり、
愛せる自分になろうとしていたのだろう。
つまり、自分の存在意義の模索であったのかもしれない。
それでも身体が資本とはよく言ったものです。
人は身体という物理的な制限の中で、生きている。
そこんところ、まだ、自分で今ひとつ・・現実が遠く、
気が付くと、身体がボロボロになってたり・・
身体とココロは繋がっているから、ココロもボロボロになりがち・・。
自分でケアできるのが、本当の大人(自律性)でしたよね(笑)。
メンテナンスも大事ですね。
みなさまも、自分自身のメンテナンスも大事になさってください!。
明日もがんばれるために。