今年もサボテンに花が咲きました!。
サボテン君が、踊って上げた手のその先に、花を掲げているように、見えるのは・・
私だけでしょうか?
とても、たくましく、カワイイです!
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今日のお題は、「混沌とした闇」
「混沌とした闇」の中で思う。
権力者が成立させた世界は、
混沌とした闇がある。
と感じます、
私も、幼少期から「混沌とした闇」を持っていて、
私は、それを「絶望」と呼んでいました。
そこから離れつつある私ですが、
やはり、環境が戻ると、
「混沌とした闇」が息を吹き返して来て、
動けなくなってしまう・・
なんて、思ったり、
今、世界で起こっている権力、戦事のよる、
「混沌」に、痛みの共鳴や、投影が起こったりします。
そんな気持ちで、今日のお題に至ります。
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ここでいう、「権力者」とは、
子供の頃の、親や養育者だったり、
若者にとっては、社会だったり、政治だったりするのかもしれないし、
国家にとっては、支配者だったり、
弱者にとっての、強者だったりするのかもしれない。
最近日本では、「考えチカラ」「論理的思考」というものが、
多様な社会で、
自分を守りながら、
他人を理解しつつ、
自他を尊重し、調整していくチカラとして、
「理論的に伝える」
「理解力」
「調整力」
の3構成をはぐくむ教育に、移行している。
「権力者」とは、
その「考えチカラ」「論理的思考」をも、
権力でねじ曲げる、操作する、ことによって、
人間関係や、社会や、国家に、「歪み」をもたらし、
長期の権力を、得ている状態があります。
そんな、「権力者」のつくる社会は、
「考えチカラ」「論理的思考」がないために、
工夫や、理論的な成功体験が、実らないために、
エリクソンの発達心理学からみると、
10歳ぐらいから、発達するはずの、
「理論的思考」や成功体験により、
得られる「勤勉性」が得られず、
「劣等感」や虚しさを獲得することになります。
権力者下の社会(家庭、コミュニティー、国家)では、
精神の発達が負に傾くと見立てることが出来ます。
つまり、思考力の発達の不健全。
※気づけたなら、これから発達・成長することができます!。
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「混沌とした、漠然とした闇」は、
つまり、出口のない暗闇のような気持ち
なのだと、私は思います。
そして、
誰かを壊すか、奪うか、
誰かが我慢するとか、
奪う方も、我慢させる方も、
「罪悪感」に縛られ続けるというように、
どちらを向いても、
建設的な結果が見当たらない状態で、
選択ができないという
ジレンマの状態なのだと思います。
否定的な選択肢しか無い状態。
負のループ
矛盾があると、
人は、動けなくなります。
動くために、、「矛盾」を感じない、
「考えない」状態になるという、
悪化をたどる事態も、往々にしてあります。
もしも、
「考えチカラ」「論理的思考」が、あれば、
まず、
みんなが、建設的な方法を選択するために、
現状や状態を「理解」して、
利を分け合う方向で、
「調整」「交渉」する。
工夫やチャレンジ、することで、
工夫を思いつく、自分自身にも、希望を感ずることができるかもしれません。
1+1=2
0.5+1.5=2
式も、たくさんあります。
工夫や調整の余地があります。
答えだって、1つじゃない、たくさんあります。
しかし、
権力が、「考えチカラ」「論理的思考」をねじ曲げたらどうなるでしょう?
答えは、権力者が望む答えに決まっているから、
努力も、理解も、
現実も、真実も、ねじ曲げられてします。
そこに
工夫も、努力も、調整も空しい、
「混沌とした闇」が広がるわけです。
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「混沌とした闇」から出るためには、
「考えチカラ」「論理的思考」に糸口があります。
「考えチカラ」「論理的思考」の社会に、
自分自身を移行していくことで、
考えながら、尊重し合える人と、
出会える、繋がる、といことになります。
そして、自分自身で論理的に、新しい人生を構築していくことも可能になります。
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「混沌とした闇」は、
人々から、ネレルギーを奪い、
生きるチカラを停滞させるけど、
「考えチカラ」「論理的思考」
人間は、身体は、物理的制限を受けますが、
人間の発想や思考は、本来、自由です。
「考え」て良いのです。
どうしたいのか、
「考え」て、どうしたら実現できるのか、
「論理」を頭の中で、構成するは自由です!
「考え」たり、「想像」したりすることは、
人間に備わった、未来をつくるチカラなのだと
考える事もできます!。
明日に、希望を!