ココロド_黄月家K's weblog

考えすぎ? ココロド_心理カウンセラー_黄月家Kの 思考いろいろ、心理分析、ものづくり、時々庭、時々日記です。

奇妙な時間にスリップ & 「逆刃刀」の痛み

もう夏も残暑?になりました。
最近、うちの時計、奇妙な時間を示します。

夏だからですかねぇ・・。異次元にスリップした気分です。

奇妙な時間

奇妙な時間2

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今日のテーマは「逆刃刀」

るろうに剣心」の“逆刃刀” のことです。

刀そもそのは、武器であり、他者を負かすためのもの。
実際に、使用しなしなくても、抑止力(威力)としての効果もあるかもしれないもの。


「逆刃刀」は、通常の日本刀の造りとは異なり、刃と峰(刃のない側)の位置が逆になっている刀。
他者を切ることができず、むしろ、自身に刃を向けている、
「自分を傷つける」という、心理学的には、不合理な造りの刀でござる(笑)。

るろうに剣心」の 逆刃刀は、
「そもそも逆刃刀は、殺人刀を作り続けた新井赤空が、その罪を懺悔するため、御神刀として奉納する目的で打ったもの」とのこと。


剣心が逆刃刀を持つ意味は、
「殺さずの誓い」の意味、
過去の自分「人斬りの罪」への戒め。


私は、「るろうに剣心」に強く惹かれます。
それは、たぶん、内部の自分が共鳴する、
つまり、自分を強く投影してしまうストリーや感覚・感情が、あるのだと思います。


武器とは、一般的に、
交流分析的、人生の構えでいるならば、
I'm OK, You're not OK.(自分OK、他人NG) の構えの存在。

「逆刃刀」は、
他者を傷つけないための、
あるいは、自分への戒めだとするなら、やはり、
I'm not OK, You're OK.(自分否定、他人否定)の構えのように思います。

いずれにしても、自分であれ、他者であれ、
「not OK(否定)」があることは、「生きづらさ」に変わりありません。

「自分であれ、他者であれ」というのは、

「自分か、他人か」というシーソー的な選択肢は、
誰かが「not OK(否定)」で、結局自分も他人もだれも、心から喜べないからです。
やさしい人ほど、賢い人ほど、他人より自分の「not OK」を選ぶか、
あるいは、他者の「not OK」を目の前にして、後々自分を責めるから。

「逆刃」とは、自分を責める = 戒め 

戒め = 罪悪感は、
心で裁くには、量と時間の制限がなく、
過剰に、自分(の能力)を殺してしまう方向へ向かうことが、

心理分野では、よくあるような気がします。

特に、未成熟時代の自分の行動を、
自分の未熟さに自分で気が付く(メタ認知)という、
成長段階で、
自分を責める、戒める(自分 not OK = 自己否定)
段階が、成長の一段階として、必要なことだったりもします。

といいながら、

私自身、
るろうに剣心」の“逆刃刀”に共鳴する

矛盾を抱えた自分自身の存在の、是非を
痛みの中で探っているのだと
気が付く次第です。


心理の理論的は、
罪の報いの機会を得たり、
正当に社会貢献する機会を得たりして、
自己内で、調整が整えば、

調整やバランスという次元の、
「成熟」に進展(発達)することが可能ですが、

罪悪感が、沼になってしまうと
深みにはまりがち・・に、
なってしまうことも、しばしばです。

私という、
自分の存在を責める戒めの虜に、
OK、OK (自分肯定、他人肯定) の立場から、
どう声掛けするでしょう?
と自問自答するなら、

そうそう、言葉にならなくて・・


できることは、共に在る、存在でいること
なのだと、気が付くわけです。


理論は知っていることは、
光の欠片になりうるのかもしれません。

されど、理論通りにならない、
痛い私に、気が付きます。


痛みとともにいることは、
痛いことなのなのかもしれません。

そうして、私は痛い人であり、
痛い人である意味がそこにあるのかもしれません。

なんて・・意味の反映という、
療法テクに気が付くのだったりします。

私は痛い人ですね・・痛いとわかっているのに・・
戒めの自己分析力は、私にとっての逆刃刀だったりします(笑)。


痛い!痛い!。

そんなことも、そんな人もOK

自己受容も、心理療法テクの一つですね。