ココロド_黄月家K's weblog

考えすぎ? ココロド_心理カウンセラー_黄月家Kの 思考いろいろ、心理分析、ものづくり、時々庭、時々日記です。

時間と、置き去りの心

人(心)と向き合うことは、精神や内面、心の成長に必要不可欠。
人(心)と向き合うことは、時間がかかる。
人(心)と向き合うことは、人間だからできること

時短・タイパの このご時世

心は、置き去りになりがち

 

精神や内面、心の成長に、不利なご時世と感じます。

未発達、未成熟が、その先の、未発達、未成熟を産んでしまう。
そんなふうに思えるこの頃です。

時間は、大事。
時間は、有限。
されど、時間は、長くも短くも、感覚で変わる。
時間の目的は何か?

量や長短の問題のみでなく、
豊かかどうか、満足感はあるか、
快か不快か、
進んだ距離はどうか?
成長したか?
自分のことが好きでいられるか?

満足できる時間とは?

そんな、感覚的な質的な問題の方が大事なように感じます。


されど時間は有限、

だからこそ、

だからこそ、大事なことに、時間を使おう。

時間を使えば、
時間の使い方を選択するすることになる。

建設的な、正のエネルギーのために、
時間を使おう。


相手がヒトならば、
時間の有効性は、

本音で話せる人と、
自分の心と、向き合うことができる人は、
時間と成長の、正関数

本音を隠す人と、
自分の心と、向き合うことをあきらめた人は、
時間と成長の、負(逆)関数


見抜いていきましょう!。

‥相変わらず、時間の使い方と格闘中のこの頃です(笑)。
みなさまも、ステキな時間をお過ごしください!。

 

kizuki-ya-k.hatenablog.com

 

うちの ネコ にゃん玉

うちの にゃん玉

うちの にゃん玉

今日のお題は「うちの ネコ」

推定約1歳の猫ちゃん、にゃん玉
彼と出会ったのは、保護ネコ譲渡会昨年の8月のこと。

にゃん玉は当時推定3、4か月。
彼は、1人ぼっちで、ケージの隅っこに大人しくいた。
愛想がいい子猫が人気だが、私がにゃん玉を選んだのは、
たぶん、自分を投影していたのだろうと思う。
家なき子で、神経と感が鋭く、警戒心強くて、耳や鼻が利く、愛想もなく、どこか孤高でスマートな顔立ち、子猫なのに、可愛いというよりは、どことなくカッコイイ。

お試しだっこのときに、にゃん玉は私を怖がらずに、上着の内側に潜り込んできた。似たもの同士、お互い引き寄せあったのかもしれない。
食が細いらしく、譲渡までに一カ月半もかかった。
うちに来てからは、思いの外ヤンチャで大暴れ、だんだん甘え上手になったが、基本ツンデレ。気の合うネコちゃん。

うちに来て、8カ月、推定1歳のにゃん玉
最近、あまり遊ばなくなった。
もう子供ではなくなったのかもと思っていた。
ところが、
近々ご飯や水も取らなくなった。
昨日、病院でFIPの疑いと言われてた。
webで病名を調べると、死亡率100%って書いてあった。

私は感受性が強すぎるので、生活していくために、
あまり感情にとらわれないよう、
論理的思考や合理主義で生きるようにしている。

しかし、やっぱり、動揺する。
にゃん玉は、ぐったりしていても、撫でるとしっぽと振るのだ。
にゃん玉を見ているだけで、涙があふれ出てくる。

論理的思考や合理主義の私は、
努力とか、知識とか、ものの捉え方とか、で何でもなんとかして来た。
いや、むしろ、努力とは、「防衛規制」の一種なのかもしれない。
納得のいかないことに傷つくことを、努力することで、
ごまかしてきたのかもしれない、
なんて、今は、弱気な解釈も出てきてしまう。

まだ、1歳
私は、悔いのない人生をと、
いつも死を想定して、いつもギリギリまで精一杯生きてきた。
できることなら、私の寿命など、10年でも20年でも、にゃん玉にあげるよ。

だけど、今の科学ではどうにもならないことも、あるのだ。

にゃん玉を、最後まで看とるという仕事を、
受け入れることが、私の、今の精一杯だのだろうと思うけど、
覚悟がまだできていないんだ。

どうして、みんな私より早く逝ってしまうんだ!。

夢のチカラ 夢分析_現実の補償

田無神社に、よくお参りします。白龍様の門飾り、美しいです!

田無神社 白龍様の門飾り彫り

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今日のテーマは、「夢分析_現実の補償

 

夢は、「現実の補償」の部分がある。ユング派を療法を学んでいます。

 

私の睡眠時間は平均5時間程度だった。
睡眠負債の脳の状態が、4年ほど続いていた。

丁寧な仕事して、成果を出しても、報酬は減る一方という悪循環だった。

久々に、夢を覚えていられるぐらい寝た。

夢は「現実の補償」という側面がある。

 

-夢の内容-

近々、仲たがいした方が、夢に登場。
何か目的のモノを理解するために、合うことになったが、
その方は、時間に追われていた。
お話をできる場所へ向かうが、
途中、暗い細い階段を上るが、途中から上は崩れた崖になっている。
私は先に登るが、その方は、足を滑れせ、
目的のモノを離さず、態勢くずして滑落しかける。
私は、とっさに、落ちてゆく、その方をつかもうとする。
かろうじて掴んだが、しかし、その方はねん挫したらしい。

その後、歩きながらその方と少し話した。
その方は、足の痛みを隠す。
その方は、大事な選択の場面の話をする。
その方は、今を、自分で主体的に選んだことに気づく。
その方はケガをしているが、時間になり、仕事に戻る。
私は、それを見守る。その方の選択は、上手く行っている。
その方は、立派だと私は思う。

そんな夢だった。

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ゲシュタルト療法で、「未完の完了」という、
エンプティチェアを使った療法がある。

今回の夢は、
そんな感じに近いのかもしれません。

仲たがいした方も、私と同様に、
「主体的に選んだこと」
という解釈をすることで、
残った複雑な気持ち未完の一部を、
自分の内部で、完了(解釈がついた)補償したのかもしれません。

現実も、選択だったはずなので、
その方も、ご自分の道を、ご自分で選んで、今があるわけです。

 

同時に、私がその方を、上から目線で見ていたことにも、気が付きました。


今日まで、なんとなく、待機モードでしたが、
少し割り切れた気持ちになりました。

さぁ、私は私の道を進もう!。

夢のチカラ」、すごいぞ!!!

「チャンとしなきゃ星人」VS主体的選択

久々に、桜を見に行きました!。山梨の神代桜。多くの人見守り、その子孫は宇宙にも行きました。宇宙から帰還した種は、宇宙桜として世代をつないでおります。
つなぐ命を感じます。

山梨県北杜市 神代桜 二千年越え桜

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今日のテーマは「チャンとしなきゃ星人」

「ちゃんとしなきゃ」って頑張っている人、多いですよね。

私自身も、
「人に迷惑をかけてはいけない」
「ダメと思われたくない」など・・
思って、大変なことを、ずいぶん頑張ってきたと思います。

それ自体は、たぶん、良くも悪くもなのだと思います。

メリットもあるし、デメリットもある。


「ちゃんとする」のは、立派なことだと思います。


しかし、自分の中にもいる

「ちゃんとしなきゃ星人」

なんだか、疲れるなぁと思うことが多くなりました。
私は、「ちゃんとしなきゃ星人」着いていけないのです。
「ちゃんとしなきゃ星人」さんといると、すごく疲れるのです。

何が?


①「ちゃんとしなきゃ星人」と、
②「ちゃんとしたい星人」の、
違い わかりますか?

ズバリ、
①「ちゃんとしなきゃ」と、
②「ちゃんとしたい」は、
違いがあります。

?????

①「ちゃんとしなきゃ」は、外部準拠思考
「ちゃんとしたい」は、内部準拠思考

つまり、
①「ちゃんとしなきゃ星人」は、外部の価値観だから、
自分の心や体と相談(調整)できていないときがあるのです。

そして、もっと極端に言えば、
自分自身のことに、目を向けるのが苦手で、
自分や他人の、主体的動機が見えないことが多いです。
主体的動機を、「わがまま」と、決めつけている方もいます。

「ちゃんとしなきゃ星人」は、
ご自分の心や体や状況と相談(調整)する柔軟さがないために、
他人に対しても、心や体や状況を、見ない習性がうかがえます。
ココロという見えないモノの話が、苦手な方が多いです。

対して、
内的動機ならば、
②「ちゃんとしたい」となる主体的な言い回しになります。


そもそも、
「ちゃんとしなきゃ」の外部準拠的な、
価値観や概念がどのように根付いたかと考えると、

「ちゃんとしていない」ことを避けるための、
防衛的な動機が、元になっていると見立てます。


防衛的な動機は、
養育期に、否定的評価を受けた中で、習得した価値観である場合が多いです。

肯定的環境下と、否定的環境下で、獲得する心理テーマが違うことは、
エリクソン発達心理学の通りです。

そして、
論理的思考が発達する前の10歳以下で、否定的価値観の中で習得した概念は、

それが、本当に有効なケースか?
あるいは、吟味が必要なケースなのかを、
吟味する工程を省いて、固定概念として、
インプットされている場合が多いです。

そして、固定概念を持った養育者は、
その固定概念子どもに託し
その子供も、また、固定概念を、
次の世代につないでいってしまう・・
世代間連鎖、してしまうことが多いです。

世代間連鎖が、止まる時は、
様々な価値観の交流や、
「考えるチカラ」が必要になります。


そもそも、「ちゃんと」って何?

 

具体的な目標を立てた方が、
現実的で、達成感的にも、
自尊心的にも、効果的になります。

行動療法の仕組みです。


諸行無常・・・

常なるものは、ないという、仏教の言葉がありますが、

永らえるものは、変化の中にあるだと、私も感じます。


私自身ですら、知識や、容姿や、体力、周囲、人間関係、
多くのモノが、変わってきました。
私自身ですら、常なるものはないのです。

この体の細胞も、数年で入れ替わっているらしいです。

時代も、価値観も、技術も、出来ることも、
想像をこえたスピードで、
今は、どんどん変わっていく。

便利になったのか、難しくなったのかすら、
よくわからず、
ただただ、時代についていくことすら、
必死です(苦笑)。

自分を摩耗している感がやりきれないときは、
価値観の変化も大事ですよね。
全部「ちゃんとしなきゃ」はもう無理。

 

自分にとって、大事なものは何か?

吟味する

そして、
自分の人生を、
主体的選択する。

 

「考えるチカラ」があれば、
自分の身体と、命と、尊厳を、守ることができます。

私は、主体的な人間でいよう!。
私は、主体的な人間が好きだ!。
私は、主体的な人間の魅力を知っている!。

私は、1人の、人間だ!。

時々、人に迷惑をかけてしまうこともありますが、
だからこそ、
人の、気持ちもわかるようになる。
いつか、助け合える。

そうな風に思う今です。

今、「ちゃんとしなかきゃ星人」から見て、
私は、「ちゃんとして」いなくても、
いつか、私は、助け合える!。
助け合う!。

そうな風に思う今です。

小鳥の巣立ち & 「夜」と「生きづらさ」

うちの巣箱に 小鳥が来まして、「夜」には、猫が巣箱を狙ってくるのでハラハラでしたが、今年は、全員(8羽ぐらい)が巣立ちました(春先のこと)。

巣立ったばかりの小鳥は、しばらく、まるふわで、よろよろでしたが、
午後には、親子で飛ぶ練習始めてました。良かった。

うちの巣箱に小鳥、巣立ちした子鳥

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今日のお題は、「夜」と「生きづらさ」

 

東京都では、9月と3月は自殺対策強化月間ですね。

表層の社会では、なかなか、話題にしずらいお話かもしれませんが、
心理家として、話に触れてみます。

Lineでも、相談ほっとLINE@東京 があります↓。

9月と3月は自殺対策強化月間です 東京都福祉保健局

 

自分の心や言葉を出せていない方は、
内側の、声や言葉を、出してみる方法もあります。


生きることの苦、

最近の心理用語では、「生きづらさ」という言葉を使うことがあります。

 

最近、自分が感じてたことは、

原因がはっきりしているものは、
原因を認識したり、一定の期間を経て、
安心な場所が、確保できるときは、
悲嘆療法や、嘆きも 有効になる時があります。

 

しかし、原因が芋ずる式に連鎖していたり、
パターン化していたり、
毎回、同じような 負の気分が、重くて心が動かなくなったりするような場合は、
「負の感情」事態が、
ラケット感情(交流分析用語)だったりするので、
気分を変えることを、優先させた方が良いということもあります。

※ラケット感情は
健全とは反対の自滅または抑圧傾向習性的な感情パターンみたいなもの。

目安は、パターン化しているかどうかです。


本来、生体としての人間は、
快いものに安心を感じ、
心地悪いものを不快と感じ、調整しようとするように、
生体(身体の機能)が成立しています。

 

知能や言語を獲得し、言葉や信念に囚われがちな人間は、
身体内部の、生物としての反応に気づきづらくなったりすることがあり、
自分のストレス反応に気づきづらい、
あるいは、過度の耐性を持ってしまったりすることもあるので、

 

自分の意識とは、違うところで、
身体の機能や感覚が、乱れていることがあり、
自身が気づけないことに、気づかないこともあります。

 

近年は、
「気分」は、脳内ホルモンの影響であることは、知られています。
そして、その脳内ホルモンは、
生成元の身体や、臓器の調子に左右されます。

つまり、
「気分」や「感情」は、

体調や、臓器の調子、しいては、生活習慣やパターンの
影響も大きいと考えられています。


生活パターンを整えるということが、
気分や感情の変化に有効なことは、知られています。


でも、負の感情で、眠れないということが、

更なる不安になったりもしますね。


数日、眠れなくて、

 

夜は、気分が堂々巡りになりやすかったり、
健全な関係パターンと、接点が薄い時間帯だったりしますので、

「とにかく、夜を乗り越えよう」と

自分に言い聞かせる時があります。


眠れてなくてもいい、

音楽聞いたり、本を読んだり、動画見たり、

とにかく夜を乗り越えたら、
それは、一つの成果です。
立派です!。

 

人間には、防衛機制という、
自分を守るための、本能が備わっています。

一次的なら、OK。

自傷他害 と 法律違反 以外なら、

一次的なら、OK。

時間の浪費を自分に許そう。


自分の存在を許そう。
自分のとりとめのない痛みを、抱きしめよう。

ヒリヒリ痛い心を、すぐに治すことはできないかもしれないけれど、
ただ、一緒にいるだけでいい。

痛いんだね。


自分は、自分を見捨てないでいよう。


生きていていい。

生きていてほしい。


かっこ悪くていい、
自分を嫌いでいい。

夜を超えよう。


心地よい自分の人生脚本シナリオ(交流分析用語)を自分で描くために、
「心地良い」を、1つ1つ探してみよう。

(心の奥の私へのメッセージでもあります。)


参照:人生シナリオ(脚本)の過去のブログ

 

kizuki-ya-k.hatenablog.com

 

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kizuki-ya-k.hatenablog.com

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奇妙な時間にスリップ & 「逆刃刀」の痛み

もう夏も残暑?になりました。
最近、うちの時計、奇妙な時間を示します。

夏だからですかねぇ・・。異次元にスリップした気分です。

奇妙な時間

奇妙な時間2

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今日のテーマは「逆刃刀」

るろうに剣心」の“逆刃刀” のことです。

刀そもそのは、武器であり、他者を負かすためのもの。
実際に、使用しなしなくても、抑止力(威力)としての効果もあるかもしれないもの。


「逆刃刀」は、通常の日本刀の造りとは異なり、刃と峰(刃のない側)の位置が逆になっている刀。
他者を切ることができず、むしろ、自身に刃を向けている、
「自分を傷つける」という、心理学的には、不合理な造りの刀でござる(笑)。

るろうに剣心」の 逆刃刀は、
「そもそも逆刃刀は、殺人刀を作り続けた新井赤空が、その罪を懺悔するため、御神刀として奉納する目的で打ったもの」とのこと。


剣心が逆刃刀を持つ意味は、
「殺さずの誓い」の意味、
過去の自分「人斬りの罪」への戒め。


私は、「るろうに剣心」に強く惹かれます。
それは、たぶん、内部の自分が共鳴する、
つまり、自分を強く投影してしまうストリーや感覚・感情が、あるのだと思います。


武器とは、一般的に、
交流分析的、人生の構えでいるならば、
I'm OK, You're not OK.(自分OK、他人NG) の構えの存在。

「逆刃刀」は、
他者を傷つけないための、
あるいは、自分への戒めだとするなら、やはり、
I'm not OK, You're OK.(自分否定、他人否定)の構えのように思います。

いずれにしても、自分であれ、他者であれ、
「not OK(否定)」があることは、「生きづらさ」に変わりありません。

「自分であれ、他者であれ」というのは、

「自分か、他人か」というシーソー的な選択肢は、
誰かが「not OK(否定)」で、結局自分も他人もだれも、心から喜べないからです。
やさしい人ほど、賢い人ほど、他人より自分の「not OK」を選ぶか、
あるいは、他者の「not OK」を目の前にして、後々自分を責めるから。

「逆刃」とは、自分を責める = 戒め 

戒め = 罪悪感は、
心で裁くには、量と時間の制限がなく、
過剰に、自分(の能力)を殺してしまう方向へ向かうことが、

心理分野では、よくあるような気がします。

特に、未成熟時代の自分の行動を、
自分の未熟さに自分で気が付く(メタ認知)という、
成長段階で、
自分を責める、戒める(自分 not OK = 自己否定)
段階が、成長の一段階として、必要なことだったりもします。

といいながら、

私自身、
るろうに剣心」の“逆刃刀”に共鳴する

矛盾を抱えた自分自身の存在の、是非を
痛みの中で探っているのだと
気が付く次第です。


心理の理論的は、
罪の報いの機会を得たり、
正当に社会貢献する機会を得たりして、
自己内で、調整が整えば、

調整やバランスという次元の、
「成熟」に進展(発達)することが可能ですが、

罪悪感が、沼になってしまうと
深みにはまりがち・・に、
なってしまうことも、しばしばです。

私という、
自分の存在を責める戒めの虜に、
OK、OK (自分肯定、他人肯定) の立場から、
どう声掛けするでしょう?
と自問自答するなら、

そうそう、言葉にならなくて・・


できることは、共に在る、存在でいること
なのだと、気が付くわけです。


理論は知っていることは、
光の欠片になりうるのかもしれません。

されど、理論通りにならない、
痛い私に、気が付きます。


痛みとともにいることは、
痛いことなのなのかもしれません。

そうして、私は痛い人であり、
痛い人である意味がそこにあるのかもしれません。

なんて・・意味の反映という、
療法テクに気が付くのだったりします。

私は痛い人ですね・・痛いとわかっているのに・・
戒めの自己分析力は、私にとっての逆刃刀だったりします(笑)。


痛い!痛い!。

そんなことも、そんな人もOK

自己受容も、心理療法テクの一つですね。

「混沌とした闇」 vs 考えるチカラ

今年もサボテンに花が咲きました!。
サボテン君が、踊って上げた手のその先に、花を掲げているように、見えるのは・・
私だけでしょうか?

とても、たくましく、カワイイです!

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サボテンの花

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今日のお題は、「混沌とした闇」


「混沌とした闇」の中で思う。


権力者が成立させた世界は、
混沌とした闇がある。

と感じます、
私も、幼少期から「混沌とした闇」を持っていて、
私は、それを「絶望」と呼んでいました。

そこから離れつつある私ですが、
やはり、環境が戻ると、
「混沌とした闇」が息を吹き返して来て、
動けなくなってしまう・・
なんて、思ったり、

今、世界で起こっている権力、戦事のよる、
「混沌」に、痛みの共鳴や、投影が起こったりします。

そんな気持ちで、今日のお題に至ります。

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ここでいう、「権力者」とは、

子供の頃の、親や養育者だったり、
若者にとっては、社会だったり、政治だったりするのかもしれないし、
国家にとっては、支配者だったり、
弱者にとっての、強者だったりするのかもしれない。


最近日本では、「考えチカラ」「論理的思考」というものが、

多様な社会で、
自分を守りながら、
他人を理解しつつ、
自他を尊重し、調整していくチカラとして、

「理論的に伝える」
「理解力」
「調整力」

の3構成をはぐくむ教育に、移行している。

「権力者」とは、
その「考えチカラ」「論理的思考」をも、
権力でねじ曲げる、操作する、ことによって、
人間関係や、社会や、国家に、「歪み」をもたらし、

長期の権力を、得ている状態があります。


そんな、「権力者」のつくる社会は、
「考えチカラ」「論理的思考」がないために、
工夫や、理論的な成功体験が、実らないために、

エリクソン発達心理学からみると、
10歳ぐらいから、発達するはずの、
「理論的思考」や成功体験により、
得られる「勤勉性」が得られず、
「劣等感」や虚しさを獲得することになります。

権力者下の社会(家庭、コミュニティー、国家)では、
精神の発達が負に傾くと見立てることが出来ます。

つまり、思考力の発達の不健全。

 

※気づけたなら、これから発達・成長することができます!。

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「混沌とした、漠然とした闇」は、
つまり、出口のない暗闇のような気持ち
なのだと、私は思います。

そして、
誰かを壊すか、奪うか、
誰かが我慢するとか、
奪う方も、我慢させる方も、
「罪悪感」に縛られ続けるというように、
どちらを向いても、
建設的な結果が見当たらない状態で、
選択ができないという
ジレンマの状態なのだと思います。

 

否定的な選択肢しか無い状態。

負のループ

 

矛盾があると、
人は、動けなくなります。

動くために、、「矛盾」を感じない、
「考えない」状態になるという、
悪化をたどる事態も、往々にしてあります。


もしも、
「考えチカラ」「論理的思考」が、あれば、

まず、

みんなが、建設的な方法を選択するために、
現状や状態を「理解」して、
利を分け合う方向で、
「調整」「交渉」する。

工夫やチャレンジ、することで、
工夫を思いつく、自分自身にも、希望を感ずることができるかもしれません。

1+1=2 
0.5+1.5=2 

式も、たくさんあります。
工夫や調整の余地があります。
答えだって、1つじゃない、たくさんあります。

しかし、
権力が、「考えチカラ」「論理的思考」をねじ曲げたらどうなるでしょう?


答えは、権力者が望む答えに決まっているから、

努力も、理解も、
現実も、真実も、ねじ曲げられてします。

そこに
工夫も、努力も、調整も空しい、

「混沌とした闇」が広がるわけです。

--

「混沌とした闇」から出るためには、

「考えチカラ」「論理的思考」に糸口があります。

「考えチカラ」「論理的思考」の社会に、
自分自身を移行していくことで、

考えながら、尊重し合える人と、
出会える、繋がる、といことになります。

そして、自分自身で論理的に、新しい人生を構築していくことも可能になります。

--

「混沌とした闇」は、

人々から、ネレルギーを奪い、
生きるチカラを停滞させるけど、

「考えチカラ」「論理的思考」

人間は、身体は、物理的制限を受けますが、
人間の発想や思考は、本来、自由です。

「考え」て良いのです。

どうしたいのか、

「考え」て、どうしたら実現できるのか、
「論理」を頭の中で、構成するは自由です!

「考え」たり、「想像」したりすることは、

人間に備わった、未来をつくるチカラなのだと
考える事もできます!。

明日に、希望を!