ココロド_黄月家K's weblog

考えすぎ? ココロド_心理カウンセラー_黄月家Kの 思考いろいろ、ものづくり、カウンセリング心理学、時々庭、時々日記です。

「自分探し」と「アイデンティティークライシス」

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ゼフィランサス たますだれ の花

うちの庭の花も、すっかりお彼岸です。
ゼフィランサス たますだれ は、彼岸花科のお花。つぼみはピンクなのに、花は白、
なかなか可愛いお花です!。

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今日のテーマは、

「自分探し」と「アイデンティティークライシス」


成人期でも、「アイデンティティークライシス」
ってあります。

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ちょっと前に、

 

アイデンティティークライシス」という言葉がよく使われました。

 

これまでの、自分の価値感が崩れる段階、崩壊する段階のことですが、

変化する前段階です。

 

つまり、「自分の殻」をやぶる時に、
アイデンティティークライシス」という過程があります。

もちろん、
自分や、自分を取り巻く環境に 不快や 不自由がないのなら、
変化も必要ありません。

しかし、
なにがしかの、違和感や、「辛さ」があるのなら、
多かれ少なかれ、建設的な変化をもとめることは、人間として正常で健常だと思います。


これは、思春期に限らず、成人期でも、同じです。


成人期でも、

変化する環境、
変化する社会、
変化する家族構成、
変化する自分の身体、

これまでの、自分のままでは、上手くいかないことも多いので、
柔軟に「変化」する必要性は、年齢に限らず、生じます。

(かといって、これまでの自分を否定する必要もないです。)

成人期でも、
思考が凝り固まってしまったとき、

アイデンティティークライシス」という、
ショック状態を経過することもあると思います。


しかし、成人期は、
経済的自律と、親からの抑圧(支配)から自由な頻度が高いので、
思春期の「アイデンティティークライシス」よりは、
自他共に、ショック度は、いささか、楽なのではないかと思います。

(ただし、思考の硬さ(偏り・歪み)によっては、
ショックの度合いに差があるとも言えます。)

 

成人期の「アイデンティティークライシス」が、
大きなショックを伴う場合は、

思考の硬さ(自分の殻)が、
凝り固まっている状態の場合です。

大抵の場合は、「否定的自動思考(認知の歪み)」を生じています。
「否定的自動思考(認知の歪み)」について、
詳しくは、過去のweblogを参照ください↓。

 

kizuki-ya-k.hatenablog.com

思考が凝り固まる原因は「防衛心」です。

人間は、「防衛」が先に立つと、瞳が曇ります。
防衛心は、批判・批評に偏ります。


しかし、「防衛」は必要です。

「防衛」は、一時的に必要ですが、
固着すると、いろいろなものを、見失っていることにしすら気が付かないという
やっかいな状態に陥っていることが多いです。

まさか・・自分が・・・。

大人になればなるほど、自分が正しいと思いがちですし、
「とらわれ」も多くなってしまいます。

必死な時ほど、
いつの間にか、「自分を見失っている」ことも、
少なくないです。

見失っているなら、見つけたらいいのです。

「自分探し」

成人期だって、
成人期だからこそ、毎日に埋もれそうな・・自分を、
しっかり、「探し出して」やってください。


自分自身を置き去りにしないで!!!。


「過去と他人は変えられない、変えるなら自分を変えてゆく」
交流分析エリック・バーンの言葉)


自分が変われば、自分の周りや、環境も変わっていきます。

(他人コントロールは、新たな依存症の原因になります)

他人の影響をうけやすい方は、
「人間関係」を変えれば、自分や、モノゴトの捉え方も変わってきます。

人間関係(交流)を変えることも、
一つの方法です。


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「自分」を見失った大人へ


自分の殻を破るのは、

あなたが 未熟だからではなくて、
あなたが 、未来のあなたのために、
身軽になることが 必要な時期だからです。

これまでとは違う価値観と 出会うことは、
これまでの自分を 否定することではありません。

これまでの、あなたがあったから、
この出会いがあるのだから。

新しい価値感が、違うと感じた時は、
いつでも、自分でいられる選択を しなおせばいいのです。
だって、あなたには、選択するチカラがあるのですから。

価値感が、変わることは、勇敢なことです。
人間は、変化をこのまない習性(バイアス)があるから、
変化を防衛してしまうのも、また人間だからです。


だけれども、
必要な時に、必要な変化ができるのも、
人間の柔軟性です。

恐れに支配された時、
人は「自分を見失う」傾向があります。


変わって行く社会の中で

変わることも、変わらないことも、
あなたが勇敢に選択するのなら、
それは、あなたらしさです。


ご自分を信じて下さい。

ご自分の選択を信じて下さい。

間違ったら、すぐ、引き返せば良いじゃありませんか・・。

少しずつ、生まれ変われる自分がいると、
自分を育てるかいもありますね(笑)。

 

私は、そんな あなたが 大好きです!。

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「自分探し」と「厨二病 」モドキ

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カラスウリの花

写真は、カラスウリの花、夏の花です。
夜に咲き、朝にはしぼんでしまいます。

だから、健全な生活を送っていると、なかなかお目にかかれない花でもあります。

この花の、透明で妖艶な儚い美しさに、なぜか 惹かれてしまいます。

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季節はすっかり、過ぎて、もう・・お彼岸ですね。

 

今日のテーマは、「自分探し」 と 「厨二病 」モドキ

 

「自分とは何か?」を模索を経て、自分を確立する時期を、

心理学では、
アイデンティティーの確立」や「自己同一性」、「自己の確立」といいます。

「自分とは、こんな人。自分は、これで良い」と思える段階、

もしくは、、
「自分は、自分であろう!」と覚悟するような段階とも言えます。


自分の不器用さを受け入れつつ、

不器用さが内在するからこその、
自分なりの自分の活かし方に視点をシフト(リフレーミング)する

そんな風に解釈すると、
アイデンティティーの確立」や「自己同一性」という、
心理学用語を少し、理解しやすくなるかもしれません。

「自己同一性」というのは、
自分の、「考え」「行動」「気持ち」などの、統合性(同一性)がとれていて、
自己矛盾を、内面で調整出来てきる状態、

あるいは、自己内の矛盾を、「矛盾が存在している」として、

自己理解出来る状態でもあります。

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脳や身体の発達段階では、

12才(中学生)頃に、

仮説をたてて、検討したり、客観的に観たりするチカラが出てくる段階になり、

自分自身を客観的に観ることができるようになる年齢になります。

自分自身を 客観的に見ることが出来るようになると、

「自分とは何か?」

という内的探求が起こります。


自分自身を 吟味(検討)する過程で、
同種や他種の分類、比較検討が生じる時期でもあります。

そして、「これからの自分」を模索する中で、
これまでの自分を、一度、「否定的にとらえる段階」でもあります。

変化前段階には、過程として 「否定的段階」が生じるものです。

この、「否定的段階」を、
昔で言えば、「反抗期」といいました。
現代では、反抗というスタイルは少なくなり、
「批評」というスタイルや場面が多いのように 私は思います。


俗に言う厨二病


厨二病」とは、私の発達心理学的解釈では、

自己確立期前の、更に 変化前段階 の、否定的段階の、批評傾向

ということができると思います。

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その後、
否定的な段階を、有効に経て、変化し、「自分とは?」という問いに、
自分なりの、建設的な道筋を、模索し、

「自己の確立」「自我アイデンティティーの確立」、「自己同一性」
期に、進むという、過程をたどって行きますが、

「否定的な段階」が、自分の未来という目的や方向性を見失った状態で、

「否定的」な「批評」を繰り返す人を、


「永遠の厨二病


と 私は、呼んでいます。
(最近、成人期の厨二病が「多い」と感じているのは私だけでしょうか?)

とはいえ、「永遠」はキャッチフレーズ的に使用してみたものの、

実際には「永遠」なんてない(定説)ので、
人は、変わろうとすれば、いつでも、いつからでも、変われます。


「永遠の厨二病」の出口は、

「自分とは?」という問いに、
(否定的段階を卒業して、)
自分なりの、建設的な(肯定的な)道筋を、模索し
自分自身を生きる(進む)、
自分の考えや、気持ちや、行動は、「自分自身だ」と思って、
生きるということになります。

他人や、社会のせいにしている段階は、
自己確立前の、「依存」状態と言えます。

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さて、

厨二病」を含む、思春期をこえて、
大人?(成人期)になってからでも、

「自分を見失う」ことは、度々あります。

むしろ、成人期の方が、「責任」の重圧に、
自分を見失ってしまう場面が多々あります。


率直に言うと、
人間は、「防衛」が先に立つと、瞳が曇ります。
防衛心は、批判・批評を生み出します。

厨二病モドキ・・・。

しかし、「防衛」は必要です。

「防衛」は、一時的に必要ですが、
固着すると、いろいろなものを、見失っていることにすら気が付かないという
やっかいな状態に陥っていることが多いです。

まさか・・自分が・・・
一人前の大人のはずなのに・・。


考え方にも、適度な断捨離があれば、
柔軟な対応、柔軟な選択が可能になります。


厨二病モドキ」の出口は、

否定的な 批判・批評を、
建設的に(肯定的に)リフレーミングして、
自分自身に活かす。

他人を批評するので無く、
自分に活かす、自分を生きる(進む)、だと思います。


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「自分探し」から、
「自己の確立」までの 段階と経過をまとめます。


1)「自分とは?」という問い(自分を哲学すること)

2)「分類・比較」で検討する、リサーチ段階

3)「否定・批判段階」(反抗期)
  これまでの自分や自分を取り巻く環境に、
  否定的要素を見出す
  ※ 否定的要素とは、改善的要素でもある。
  
4)「否定の否定期」
  否定や批評のみでは、豊かさに繋がらないことに気づく。
  ※ 否定や批評のみでは、逆に、心が貧しくなることに気づく。
  
5)「自己受容期」
  自分や 社会や他人は、矛盾を内包した未完全な存在だと気づく。
  ※ 未完成な自分の存在を認める(許容する)。
   「未完全」は、「可能性」とリフレーミングできます!。
  
6)「建設的(肯定的)変換期」(リフレーミング
  ありのままの自分でも、未来の自分のために、出来る(出来た)ことを見出す。
  否定的要素を、肯定的に変換(リフレーミング)する。
  
7)「建設的(肯定的)行動期」
  「肯定的な考えや言葉」が、自分の心にエネルギーに成っていることを感じる。
  「肯定的な考えや言葉」が、循環して、肯定的なエネルギーを、自活できる。
  成りたい自分になるための、建設的(肯定的)な、行動を選択出来る。
  
8)「共存期」
  自分の肯定感が、自分の活かし、自己消耗せずに、他人や社会の役って居ると感じるコトができる。
  自分を発揮出来る関係や環境に、感謝出来る。
  
  
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私自身は、コトが起こったり、
イヤなことを思い出したりすると、

過程は、すぐ戻ってしまうし、振り出しに戻ったりもします。

それでも、
だんだんなれてきて、過程が分かっていれば、
一度通過したところは、再び通過するところは、
ベクトルが定まって、なれてきた気がします(笑)。

 

変化のコツは、「リフレーミング」です!。

 

自分以外のものに変わる必要なんて無くて・・・

自分らしさを、「リフレーミング」!!

 

お世話タイプの「共依存」と「繰りかえす 負のループ」

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田無神社、手水舎の あじさいと龍

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田無神社 てるてる短冊

最近は、私個人的に、非接触リモートワークが定着しており、
私個人的には、リモートワークの利点を感じております。

食料の買い出し以外に、外出することもなく、
気が付けば、足も細り(笑)・・・頭だけが、たんたんと作業をこなす毎日ですが、先日、久々に、田無神社に行きました。

手水舎の、浮かぶあじさいに囲まれている白龍をみて、
七色の雲海の中の龍を想像するのは、私だけでしょうか(笑)。

気が付かぬうちに、季節はもう・・・梅雨?

てるてる短冊が、梅雨と七夕という、微妙な季節を
私に教えてくれます!!

ネガヰゴト
「みんなが 自分らしさを 活かせる世界になあれ!」

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さて、今日のお題は、共依存と繰りかえす「負のループ」

 

発達心理学によれば、

概ね 20~30才ぐらいに、
内面(心理)の発達が 自己アイデンティティの確立/自律
という課題の達成時期を迎えます。
(実際には、年齢や度合いは個人差があり、人それぞれ)

その時期を、境に 「成人」期ととらえることができます。


本来は、「成人」とは、
カラダや年齢のみならず「内面」の成熟の要素もあるわけです。

もちろん、未熟な段階で生まれる人間の特性から、
人間は誰もが、依存する段階を経て、
成長する過程を通ります。
依存段階(養育期)に、程良く依存すること、依存できることは、
依存と自律のバランスの成長において、
必要不可欠なことでもあります。

 

その、
依存段階(養育期)に、どのような環境に置かれるか、
どのような行動範例と過ごすかで、
多かれ少なかれ、
対人との依存傾向に、2つのタイプ(傾向)を持ちます。

 

大抵は
「お世話役」タイプか、
「お世話され役、かまってちゃん」タイプ

状況によって、入れ替えもありますので、
絶対値ではないです。

 

私自身は、
両方の傾向を持っている、
少数派です(笑)。

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成人期においても、

内面(心理)の発達が
自己アイデンティティの確立/自律にいたっていない状態の場合は、
自分の存在を認知するために、

外部に依存する傾向があります。

 

外部が、
「仕事」なら仕事依存、
「酒」なら、アルコール依存
「薬」なら、薬依存
依存の対象は、モノから、行為、いろいろあります。
成人の他人依存も依存の一種です。

 

健常者は、生活に支障のない程度に、
依存傾向を適度に活用して、
自分自身を活性化していることも多いです。

 

生活に支障のない部分を
性格傾向として「依存傾向」といい、
生活や人間関係に支障がある状態を「依存・依存症」といい、
分けて考えると有用と害の境目が見えてきます。

「お世話役」タイプか、
「お世話され役、かまってちゃん」タイプの、
デメリットだけを、述べたい訳ではなく、
度合いの境界を示しつつ、
この先を書きたいと思います。

 

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人との関わりで、

依存のうち、「人」への依存するタイプの、「お世話役」の方を、
共依存」と言います。

共依存」は、
親子や、恋愛や、夫婦、組織、なのど関係でも、よく見られます。

 

「お世話役」と「お世話され役」の組み合わせのカプセル化が生じる場合は、
共依存関係です。

 

共依存」者は、
情報を遮断するか、恩を着せるか、恐怖を与えて
相手を支配コントロールする手法が行われる状態を、作り出します。

 

共依存傾向が強く、生活に支障がある度合いは、
カウンセリング心理の分野では、「共依存症」と言います。

 

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共依存症」の特徴(障害・症状)を列記します。

・自己評価が低く、自己消耗する。
・自分と他人の境界が曖昧で、介入しやすく、されやすい。
・主語は「私は」と言わず、「普通は」「みんな」「一般的に」という。
・自分の状態の現実検討が難しい
 (自身の身体の不具合や、自身の気持ちがわからない)。
・「気持ち」や「要望」などの、自己表現が難しい。
・否定的な条件呈示で、他人をコントロールする。
・自己消耗の末、怒りを貯めやすく、恨みを募らせる。
・自由や対等な関係に対応できず、外界との接触を遮断する。
・怒りや恨みを回避するために、他の依存症を誘発する
・(個が確立していないので)立場や役割に頼らない対等な本音のやり取りができない。

 

共依存」は、
アダオルトチルドレンや、インナナーチャイルド理論から派生した言葉です。

 

本来の養育期に、
親などの養育者の心のケア(お世話や要望に応えるなど)を
せざるを得なかった環境にいた場合、
共依存」傾向が見られます。

 

発達心理学でいえば、
2、3才頃の「自律」vs「罪悪感」の課題期に、
排泄や自己主張などトライアルで、
失敗やそそうという あたりまえのことを、
責められることで、
「自律」ではなく、「罪悪感」を獲得し、

10才以降の、理論的思考が発達する時期に、
理論的な思考に、接する機会が少なかったり、

理不尽(理論的なでない)や不合理な権力下の環境下にいた場合、
構築的な行動と 成功体験の関連した体験が 得られない場合、
などの、背景を察することができます。

 

私の個人的な見解ですが、

共依存」傾向の強い方は、

理論的な思考が苦手。

区別が大ざっぱで、2極思考の場合が多い。
具体的な事象や、個別の事象を分けて考えることが苦手。

「みんな」とか、「世間」とか、「一般的」にという、大きなくくりで、
思考するために、
モノゴトの違いや 精度や、度合いや、
別の視野からの理解が苦手なように感じます。

言語(言葉でのやりとり、会話など)の中で、
回復・成長するのが、難しいと言われる所以は、
言語理解の精度が大ざっぱなところに所以すると理解できます。

ですので、「共依存」傾向の強い方には、
「行動療法」が向いていると言われています。

 

しかし、「お世話役」傾向なので、
自分のことを、未成熟という自覚はおろか、

自分はしっかりしている。
自分は大丈夫と思い込んでいるところが、

自分理解や、自己成長や、
現実検討を更に難しくしていると、
感じます。

 

失礼ながら、
「厄介」と、毎回、感じてしまいます。

 

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TA(交流分析)の構造分析(パーソナリティー分析)に
置き換えると、
NP(ナチュラルペアレント)お世話や優しさが高く、
A(アダルト)理論的思考や判断力が低く
FC(フリーチャイルド)持って生まれた素質や無邪気さも低く、
AC(アダプテッドチャイルド)従順な部分が高い
N型のパーソナリティーに該当します。

N型の方は、心身症傾向型とも言われます。
自己犠牲(献身的)で、自己調整が苦手ですから。

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今回「共依存」について、
あらためて気づいたのは、

共依存」と、否定的自動思考のなどの、「負のループ」の

関連を感じました。

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共依存」の人は、
お世話役になるために、
ダメな人や、弱い人を見つけるのが得意です。

つまり、「ダメ(not Ok や 否定的な部分)」を見つけるのが得意。

つまり、「ダメ」を 探す習性がある。

と改めて気づきました。

 

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人の良いところは見ません。
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良いところを見つけてしまうと、
自分がお世話役になる意味がなくなる。
自分は、不必要な人間だと、無意識が感じてしまうからです。

逆を言えば、
自分で自分を認めることができないために、
「必要とされたい」と思い、
他人に必要とされるこでしか、
自分の価値を認めることができないので、
「ダメな相方」が必要になるわけです。

 

とにかく欠点をみつけることが得意です。
欠点しか見ないので、一緒にいても疲れます。

共依存」傾向の強い方との距離感は、
本当に難しいです。

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共依存症の方と関わる時は、

私とあなたは、違って良いと言い続けること。


適度な距離感を主張すること。

 

否定的な要素が攻撃にかわったら、

ためらわず、距離をとる(逃げる)。


ミイラ取りがミイラにならないよう、
自分を守ることを
心がけなければなりません。

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負と正のループ

自分の原動力になる、
気持ちや動機には、

大きくわけて、2種類に分かれます。

①回避(防衛)型の気持ち・外的動機

②好奇心・向上心型の気持ち、内的動機

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「負のループ」と「正のループ」

①の、回避・防衛型(外的動機)での努力する場合は、
ダメ(原因)を見つけることで、誰かや何かを否定することが、
結論になる、否定形・非建設的な思考・行動パターンです。

結果的に、自分も誰かもダメという結論になりますので、
努力は、報われないパターンです。

②の、好奇心・向上心型(内的動機)での努力や行動は、
たとえ失敗や原因があったとしても、
そこから学習して、
目的にむかって、できることを見つけていき、
行動できる建設的な動機・思考・行動パターンです。

少しづつ行動することで、体験を通して、
成長や、発達、繋がりも広がり、相乗的な効果のパターンです。

 

そして、原動力が「怒り」の場合の行動も、
負のパターンの場合があります。
目的が、建設的なループにならずに、
後始末が付いて来るからです。

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①の負のループは、
「ダメ(not OK」を見つけるベクトルが固定している場合です。

②の正のループは、
「良い(OK)」を見つけようとするベクトルです。

 

正のループ(好奇心・向上心型(内的動機))へ、
マインドチェンジすることができれば、
行動も生活も人間関係も循環していくことが可能になります。

 

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そう考えると、

理屈より、マインドチェンジの方向へ、
行動をうつして行く方が、
良いのだろうと、思うわけですが・・。

「ダメ(not OK」を見つけることが、
何よりも好きな「共依存症さん」の習性から、
「良い(OK)」を見つける体験に、
すんなり移行が むずかしいのも、
もどかしいところでもあります。

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気持ちも、人間関係も・・季節と共に、
循環することを願っております。

自分でいて良い と思う、
時間と、人間関係を持ちたいものです。。

 

今日は、思うままに徒然

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庭の大輪の水仙

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庭の あけびの 花

うちの庭も、春らしくなってきました。
大輪の水仙は、毎年見事に咲いてくれます。
あげびは、例年は、花がの後に葉がはえるのに、今年は葉が同時に・・・。
気候が例年とは・・違うのかな?

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今日は、お題なしで、「思うままに徒然」

 

「世の中は、嫉妬とねたみに満ちている」のでは?


人の成功や自負、自慢を誉める人は少ない
大抵の人は、無視・無反応、
一部の人は、ねたみ攻撃すらする。
成功者が育たない社会システム


弱い顔をしている方が、世渡りはしやすいのかな?


我をふり返れば、
「自分は・・・」と・・・
自分に中に、他人と比較してしまう自分を見つけてしまう。

劣等感。

自分を 目標に近づけたければ、
自分を出さないことが得策なのか?
これ、自己かい離(統合失調)の始まりでは?。

統合しづらい社会システム、

 


「となりの庭を眺める人は、幸福度が低い」


最近のメディアで そんなデータが話題になった。

劣等感は、誰にでもある人間らしい感覚。
劣等感自体は、問題無い。
劣等感を成長の糧にするか、
自己卑下や攻撃の糧にするか、
あるいは、気づかぬふりをするか(かい離)。
そこで、劣等感の意味づけが分かれる。

SNSや人の成功話に疲れるのは、
我の内部に内在する劣等感とのやり取りに疲れるからだと思える。

なら、いっそ、SNSの使い方を、
自分で決めれば良い。

SNS(他者)に気持ちを振り回されるのでなく、
自分の心のお世話を、自分でする。
自分の心が居心地の良い時間や環境を、自分が自分に与える必要性が出てくる。
自分の主は、自分であることが大事。

外側の自分と、
内側の自分が、

分離(統合失調)してしまわない状態(場所)を
自分に、用意してあげよう。

 

「他人の仕事をしていては、満たされない」


私は、技術者の側面があり、自分を高めるために技術を磨く。
技術で生きるために、命(睡眠時間や心)を削る

私の技術は、私自身の身体と心を、豊かにしているか?

自分が技術を開拓することも、次世代の元に貢献することも、とっても楽しい。
生き甲斐のあることだと思う。

されど、そのための、自己消耗は激しい。
バランス(統合)が難しい。

自己消耗の末の成果は、全体という成果で、
気が付けは、自分の元に残るモノは、消耗した自分。
そこにフォーカスすると、全体vs自分という構造か?
これ、大衆vs個人の構造
自分を取り戻す時期なのだろう・・・と思える。

自分に残るものは、何か?

考えてルーティーンを組み直し(変化)したい、
そんな気持ちになる。

欲望とか情熱とか、そんな野心なんてとおに無く

ただ、自分の心が豊かであることが、
他人に、豊かな心で接することができるようになり
しいては、関わる人々に、豊かな心で接することができるようになり、
しいては、関わる社会を、豊かにしていける自分になるというような、感覚です。

まだまだ 自分探し(変化する)したい。

 


ふと思う、

自分は「透明人間になりたい」と思う気持ちがある。

たぶん、人と比較されるのが苦手なので、
他者の、自分に対しての反応に、影響を受けやすいから。

「誰からも気づかれない 透明人間」の方が、
気持ちが楽と思ったりするのだとう思う。


矛盾してるけど、
「誰からも気づかれない」のは、

それは、それで、時々寂しくなることもあるんだけどね。
自由と引き替え(リスク)の 寂しさ(孤独)もあるのだろう。


だから、透明人間になりきっている 私のことを「見える人」がいると、
なんだか、涙が出てくるくらい、うれしくて、泣いてしまう。

 


「偶然の一致_シンクロニシティーを、探そう」


気が付くと、やっぱり、否定的自動思考に陥ってる。
過去の痛みやショックが、否定的な 思い込みを、固定化させてしまっていることが多い。

たとえば、
「自分はダメ」とか、
「自分のせい」
「絶対・・」とか、
「・・・する(ある)べき!」とか、
 決めつけや。
 悲観的な妄想、誇張。
 優劣な価値感。

※くわしくは、「否定的自動思考」の過去のweblogを参照ください。 

kizuki-ya-k.hatenablog.com

 「否定的自動思考」は、ぐるぐると考え続けても、
否定的な結論を、自分にすり込むだけで、
脳のエネルギーが消耗して、脳の疲れ(ウツ・鬱病の要因)になってしまう。


わかっているけど、気が付くと、思考が否定的に偏ってる。

特に、疲れているとは、「否定的自動思考」に おちいりやすい。


カウンセリング心理学での、「否定的自動思考」について、
陥っていると気づいた時の対処法として、

「考えを止める。」という方法がありますが、


浄土真宗の「念仏」って、
「否定的自動思考」を止めるための、呪文の役割があったのではないかと、
思えてきました。

確かに、
悲しみや、痛みは、
多くの知識を得ることが難しく、科学的な判断が難しく、
偏りがちな判断や、封建的ハラスメント的な社会構造の当時の庶民にとって、

繰り返される毎日が、肯定的な未来に変換しずらい
悲しみや痛みだったと想像します。


底知れぬ否定的な思考がグルグル巡ると、
自分すら、否定するか、
痛みと悲しみが、「恨み・憎しみ」に変わってしまうか・・・

まさに、「否定的自動思考」の状態に陥りやすい状態だったと察します。

頭の中の、否定(自己否定、他者否定、恨み)を、一端止めるための方法としての、
「念仏(唱え文)」だったのではないかと、

ふと、私には、思えました。

しかも、老若男女問わず、身分や学歴を問わず、
誰にでも、覚えれる短さで、
誰にでも、理解出来る意味を唱える。
お金も、道具もいらない。

心一つあれば、願うことができる。


それは、救いの呪文であったと・・私には想像できました。

 

そう考えると、

現代の今に置き換えて、


もし、自分が否定的自動思考に、陥っていることに気づいたら、

一端、思考を止めるための、
自分の心が救われる呪文を考えておけばいいんだと・・思った訳です。

 

私自身、イヤなことや、耐えがたいことがあると、
はやり、自己否定がむくむくと増殖して、

否定的な、乱暴な言葉を、心で言ってしまうときががります。


その、「否定的で乱暴な決まり文句」を、言いたくなる状態の時に、

救われる呪文に、置き換えてば いいんだと気づきました。

 

「否定的で乱暴な決まり文句」は、公共の場では、具体的にかけませんが・・(笑)

それを、たとえば、
「なんとかなるさ」とか、「ご加護を!」とか、
「救われたい」とか、「明日があるさ」とか、

自分が楽になる言葉に、
人に聴かれても自己嫌悪に陥らない言葉に、

言い換えることにチャレンジ中
これ、なかなか良い感じです。


ご自分にしっくりくる言い換え言葉を探してみませんか?。

事前に考えておくことが功を奏します。


話しはそれましたが、

否定の渦「否定的自動思考」に陥っているときは、

いろんなこと、サインや前兆にきがつかない思考になってしまっています。


否定的なことに敏感で、否定しか見えない感覚、脳、眼になっているということ。
しかも、自動(オートマティック)思考なので、
発想や回路が固定的で狭く 行き先も決まってる。


なので、あえて、固定でなく、奇跡(偶然の一致)を探そうと。

脳の、リハビリにもなります。


たとば、自分の中で感じたコト

私の一昨日の偶然の一致(シンクロ)

誰かと無性に話したい気持だった日に、
もうずっと話していなかった、30年前の学生時代の先輩が、電話くれた。
しかも、メッセージでなく、電話。
話したい・・がシンクロした。

話せてうれしかった。
いろいろ思い出した。
たくさん話しをしてくれた先輩の様子もうれしかった。

というか、そこまで、率直に話せる人と、
30年前にであっていたことが奇跡

そして、
今も変わらず、率直に、話せる時間がやってきたことが奇跡

そう思うと、心が うるうるです。


---

春ですね・・。

人の 出会いも 別れも 
偶然の一致ですね。

気持ちが複雑すぎて、一気に消化できず、
心がパンクしそうになります・・・。

だから、
偶然の一致(シンクロ)を大事に、してみたいと思うのです。


ムリしなくて良い
なんだか気持ち良い


そんな人やモノとの、時間を大事にして、生きましょう。

自分の心は、影響として、微力ではあるけど、確かに 他者に繋がっているから。

 

 

 

「死に急ぐ衝動」鬼滅の刃、煉獄杏寿郎の人生脚本

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うちの梅の花

庭の 梅の花が ほころび始めました。

----

今日のお題は、「死に急ぐ衝動」

 

今日、暁に覚めたとき、
私の中に、「炎」が流れていた。

そう、 劇場版「鬼滅の刃」無限列車編 の主題歌です。


炭治郎たちと、鬼殺隊最強の剣士の1人である炎柱の、煉獄杏寿郎のお話しです。


煉獄杏寿郎の背景が、ところどころの回想シーンや夢(無意識領域)の展開から、彼の、人生脚本(交流分析(TA)用語)を、
勝手に、感じることができました。

 

それは、絵に描いたような  解説しやすい
人生脚本のように、私には思えた。

 

--

「煉獄杏寿郎」の人生脚本を、うろ覚えの部分もありますが、
「見立て」を試みたいと思います。

 

★彼の禁止令: 父の杏寿郎に対する態度から
1)存在の禁止
  「存在していはいけない」「必要ない」
2)自己の禁止
  「ありのまま(自身)であってはいけない」
3)子供であることの禁止
  「子供のように楽しんではいけない」

 

対抗(拮抗)指令: 母の杏寿郎に対する態度や言葉から
1)強くあれ
2)人を守り助けよ
3)一生懸命に

対抗(拮抗)指令とは、受け入れがたい禁止令を
回避(対抗)するための条件として働き、
対抗(拮抗)指令が実行出来ない時は、
極端に禁止令へシナリオへ傾く性質のもの。

 

幼児決断(決意)
父は私を認めてくれないが、母に認められれたい。
私は守る。弱き人(母の面影投影)を私が守る。
たとえ孤独であっても私が守る。私は強く在ろう!。

 

脚本
人を守ること、強くあることの方が、私の存在や命より、意味がある。
自分の命より強くある人生を!。

 

★脚本の(悲劇的な)結末
守るため強くあるために、死す(存在の禁止)

 

誘発刺激(結末に追いやるような刺激)
鬼滅隊、鬼との戦い、人の死、命の尽きる人間であることを選択

 

行動範例
鬼滅隊柱の先人?、死んでいった隊員?

 

内的解放
煉獄杏寿郎の 夢の中?

 

脚本衝動(悲劇的な結末にむかわせる衝動)
鬼への嫌悪衝動。鬼との戦う衝動。


以上のように、「煉獄杏寿郎」の人生脚本を見立ててみました。

劇場版「鬼滅の刃」無限列車編 まだ、観ていない方は、是非劇場へ!
(「鬼滅の刃」と私は無関係です。応援心はありますが、広告のつもりはありません、理解的に読んでいただけると有りがたいです。)

 

--

本当のところは、
2時間のストーリー仕立てでは、解らないと思いますし、
作者さんや、「煉獄杏寿郎」さんが、違うと言ってしまえば、
違う人生脚本が存在することになりますから、・・
あくまでも私の「見立て」の範囲です。

 

---

なんで、「煉獄杏寿郎」さんの人生脚本を紐解こうと思ったか、

それは、やはり、

 

「存在の禁止」令を持ている、

 

という、私との共通点に尽きます。


--

「存在の禁止」令にも、程度や度合いの差がありますが、

多かれ少なかれ、無意識レベルで、
平穏で温厚な死をイメージしていません。


「死に急ぐ」ように、見えることもある。

 

--

「無意識レベル」というのが、ミソです。

 

経験や、成長の先に、
論理的思考が発達して、洞察(観察、五感・六感を含む)を、
理論で偏りのバランスを修正しながら、
「理解」や「調整」ができるようになると、

 

自分の悲劇的な人生(人生脚本)を、自ら描き直すことが可能になります。

 

しかし、その工程には、「無意識の中の、自分の習性や偏り」を
知っておく必要が生じます。

 

しかし、自分の無意識と向き合うことを、怖がる人もかなり多い。


自分の制御不能な領域と感じることも、多く、
そこに、闇や不安を、漠然と感じるからだと思います。

 

特に、思考の発達が未成熟な場合は、
闇や不安に対しての対処を、自身の中で構築できない、
あるいは、構築するすべを持たないからだと、
理解すると、解りやすいです。


闇や不安への対処(武器や盾)、


つまり、武器や盾を持たない状態で、魔物のような敵と
出くわすことは、相当の恐怖かもしれません。

 

無防備で、恐怖にぶかっていけるのは、


「存在の禁止令」など、

恐怖を超える誘発刺激や衝動を持っているケースが多いように思います。

 

「存在の禁止令」を内在している人は、
往々にして、死に対しての恐怖心が薄い傾向があります。

 

これを、「勇敢」とか、「超人」とか、「無謀」とか、
言い換えることもしばしばあります。

 

もしも、

自分の、「無意識レベル」

つまり、「衝動」や、「習性(クセ)や、浸りたい、獲得したい「感情」の中に、

 

「自滅」や、「自己犠牲」「悲劇的」なものが

 

巣を造っているのなら、

 

 

あなたは、「悲劇的な人生脚本」で生きている、可能性が高いです。

 

---

「闇」、病み、ヤミ という言葉を、
自他、自己表現を作品化する時に、使う事が多々あります。

 

「死」というストーリーの表現物も多いです。


他人が「闇」という言葉を使うのを客観的に感じようすると、

 

「闇」とは 何か?

 

という、疑問が生じ、


自分の使う「闇」について、自問自答したけど、
その時は、丁度 はまる答えが見つからなかった。


ふと、今朝、

私のココロの奥にある「闇」が何か、解った気がした。

 

それは・・・・

 

衝動(無意識レベルの行動)という、分野の、

「自滅衝動」と「破滅衝動」と、「自己犠牲」と。


だから、私は、理論の土で、自分の衝動を葬っているのです。
という解釈に行き着きました。


されど、時々、死んだはずの衝動が、幽霊や亡霊の様に、
痛みと闇の空気の中で、うごめき、もがくき出すのです。

「死に急ぐ人」(存在の禁止)が刺激となって。


---

近々、学生時代の友人を若くして亡くしました。

 

私にとって、彼女の死は「誘発刺激」となりました。

悲しみと涙がとまらなくって。
これ 私にとっての「感情」の再起。


「感情」が張り詰めて、なんで悲しいのかすら、自己分析できない。


めずらしく「思考」滅しました。


私の中の「思考」が止まると、
私の中の「衝動」が誘発され、
私の中の「悲劇的な習性・想いクセ」が、

 

私の、過去にシフトさせたハズの、

「悲劇的な人生脚本」に、私を 戻そうとするのです。

 

衝動的時代の友人や、
悲劇的な感覚や感情、
悲劇的な想いグセ、口癖


残った人々は、私に言います
「友人の分も、楽しく生きよう!」
「がんばり過ぎず、楽に生きよう!」


..... 私にとって「生きる」ことは「苦」であり、決して「楽」ではない。

と・・改めて想ってしまうのです。

 

衝動と悪い習性でつぶやく。

「死んだ方が楽だな」・・と。


これ、「存在の禁止」の なす技です。

私の中に組み込まれた、悲劇的な忘れていた脚本の一部です。

 

こうして、何かのために誰かのためにと 言い訳(架せ)して、
「生きる」ことに背を向ける。


悲しみの中の、悲劇的な闇に、脚をとられて、動けない。

昨日は、そんな一日だった気がします。


--

一晩明けて、


私の、息苦しいほどの「理論的思考」への執着が、

自分を、悲劇的な「衝動」「感情」「習性・クセ」から守る、
葬りの土なのだと、気づかされました。

 

そして、それは、
時々闇から聞こえるゴーストのうめきに対する、
防衛であり、「生」を切り開く、剣であるのかもしれません。

 

幼い私に、「死んじまえ」と耳元で
繰り返し となえた身内と悲劇的な過去から、
「理論」を使って、
今の「生」を切り開いて、生きているのです。

 

もうしばらく、「生きる」ために、
私の悲劇的なゴーストは、理論の結界の下で、
安らかに眠っていただきましょう!。

 

「理論」で弔って。

--

理解的に 読んでくださって、ありがとうございます。
感謝です!。

 関連した私の過去のweblog

 

kizuki-ya-k.hatenablog.com

  

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「自身の操縦士(ドライバー)」「7つの習慣」思う

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紫の小花

庭に紫の小花が、地面を覆うように咲いています。
早稲田の方の学校に、勤務していたときに、道ばたに咲いていた花のこぼれ種。

いつの季節も、かわいらしく、咲いてくれます。

名前わかりませんが、好きなんです、この花。
見かけによらず、強くて、どんなときも、咲いている。

-----


今日のお題は、「自身の操縦士(ドライバー)」


私は、どこに向かって(生きて)いるのだろう?

私は、なぜ、走り(止まり)続けているのだろう?

私の、幸せとは何か?

私は、どん道を走り、どこにたどりたいたら、うれしいのだろう?

自分は、がんばっているはずなのに、なんだかむなしい。


そんなこと、考えたことありませんか?

 

先日、「7つの習慣」スティーブン・R・コヴィー著 という本のことを、
楽しく解りやすく伝えているyoutube中田敦彦YouTube大学 - NAKATA UNIVERSITY)を偶然にたままた拝聴しまして、

なんか、「前向きになれる自分」の心の変化を感じました。

(末尾に、参考リンクを貼っておきます。)


動画の中で、

成功とは何か?


について、スティーブン・R・コヴィー氏の「はじめに」の中に綴られているというお話し。

哲学者マズローの「自己超越」という言葉を使って
人の幸福感について、死の床を想像して語っている。

「人が、死の床で、思うのは家族や、愛する者のことである。
人は誰かのために生き、最後はその人達のこと思う。」

私の解釈になりますが、
人の幸せとか成功とは、人と共存していく中にあるという、

人が一人では、生きられない、成長できない、未来と繋がれない物理的な生物体で、
ある所以であるのかもしれません。


余談だか、マズローは、欲求を5階層化して説明した人。
自分の価値感は、マズローの欲求の階層として配置を観ることができる。


マズロー氏と、コヴィー氏や、アドラー氏、
その他多くの哲学者や心理学理論が、言葉は違えど、同じような過程を言っている。

総括して私の解釈に直すと、
コヴィー氏の言う、3段階は、以下のような心理的成長の過程と解釈できる。

依存(他者へ反応が生きること)

自律(主体に生きる)

協調共存(強調(主体的に関わる)

成功を手にできないのは、むなしい。
経済的に成功したとしても、
 そこに、自己や他者の犠牲があるのなら、どこかむなしい。
成功と自分や他人を両立させてこそ、幸せなのだと。

 

交流分析エリック・バーンが、「自律は幻想」という言葉の心意は、
協調共存の段階への入り口のことを意味すると解釈できます。
「単独自律の限界」というと伝わりやすいのかもしれません。

---

協調共存段階の入り口を、
ティーブン・R・コヴィー氏は、「7つの習慣」の中で、
「人格主義の回復」と言っている。
それを、「中田敦彦YouTube大学」では、

「終わりを思い描く」つまり、弔辞を想像する。と言ってました。


自分が亡くなったとき、誰かに、どのような言葉を言って欲しいか?


私も考えました。

私は
「有能な人だった、有能さを貢献してくれた」を言われたい。


と・・・思うと、これ、実は、私のドライバー(交流分析用語)なんです。

交流分析という心理学に、人生脚本という理論があって、
人生脚本とは、「無意識のうちに、自分がどのように生きるか」のイメージのこと。

人生脚本には、いろいろな脚本装置あって、
ドライバーもその1つ。

交流分析のドライバー(拮抗指令・対抗指令)を、解りやすい言葉に説明すると、

「導き手」「自分の操縦士」「人生をかきたてるもの」「人生の指針」みたいな意味になります。


自分の人生を導いている(無意識的な)指針のようなもの、
自分自身の活動の動機でもある。

みたいなもの。

無意識に自分の中に入り込んでいるのは、
自分が吟味して理論的に選んだ指針ではなく、
自分の人生の中で出来事や環境や行動範例の中から、
気が付いたら思い込んでいた、良い(良心)とおもうこと。


だけど、そこに、架せがある場合に、
たとえば、否定的な条件(禁止令・自己犠牲)の打ち消しとして、
そのドライバー(禁止令の対抗指令)が存在する場合は、
否定的な条件の強さと比例するドライバーの強さになって、
自分を滅ぼしても、走り続けることにもなります。


その指針を、ほど良い程度に、
ドライバーに振り回されすぎないために、
自分自身が、自分自身の操縦者であるために、


自身のドライバーのクセを知ること、
ドライバーの架せ(禁止令)を知っておくと、
自分の調整ができる。

というのが、交流分析の考え方。

交流分析の人生脚本のワークの中では、
自分の、禁止令やドライバーを見直たりします。

---

交流分析の中では、
ドライバー(自分の操縦士)は、
大まかに5つに分類されています。

交流分析の言葉は解りづらくキツイので、
私の言葉に置き換えます(かっこに用語を残します)、

1.速いことがことが良いコト!(急げ!)

2.完全が美しい。(完全であれ!)

3.一生懸命が素晴らしい。(もっと努力しろ!)

4.人の役に立つことが立派。(人に喜んでもらいなさい)

5.強いことが大事(強くあれ!)


このドライバーを、否定形の架せとして捉えた場合は、
自分の価値感が、自分や他人を否定的価値感に 化けてしまう。
たとえば、

1.遅い奴はダメ!(急げ!)

2.失敗は命取り。(完全であれ!)

3.努力しないクズ。(もっと努力しろ!)

4.役に立たないボンコツ。(人に喜んでもらいなさい)

5.弱い者は敗者(強くあれ!)

くれぐれも、肯定的の範囲で、自分のドライバーと付き合い、
否定的な要素がよぎったときは、

一端、自分のドライバーと距離をとることが大事です。

 

私の現在のドライバーを、自己分析すると、

有能の有は、4)の役に立つ、貢献も4)の役に立つ、
有能の能は、技能の能で、2)3)のmixのような気がします。

私の場合、ドライバーは一つだけじゃない、mixだんだよね。
それに、自分で脚本を書き換えも、してきましたし。

若い頃は、5)の強くあれ!、がスゴク強かったと思います。

幼い頃、両親が、男子を欲して私を男子のように育てたことや、
強烈な性別や存在否定の中で、育った過程があったからだと思います。
幸か不幸か、私はあまり泣かない(笑)。

結果、自分を壊してしまったので、
5)のドライバーとは、距離を置き、こだわらないことにし、
今に至ります。

弱いなりに、生きていこうというところでしょうか。


私の特性と、ドライバーが合っていれば、
たぶん、幸せなのだと思います。

幸せにむかって、ひた走れる。

だけど、
5)の強くあれは、自分の特性とは違ったのだと思います。
弱くなることがある、無防備になることある。
他人を思いやるあまりに、自分を守れない。


ドライバーは、一つじゃない。
親に与えられたドライバーだけではない。
後発のドライバー(指針)だって、いくらでもある。

だから、尊敬出来る人やコトと 出会うというのは、
自分が生きる上で、大事なこになるわけです。

しがらみの否定的な影響を受けるより、
尊敬出来る人やコトから、肯定的な影響を受けることの方が、
未来の自分や未来の自分の周りにとっても、幸せなことだと理解できます。


弱い私でも、活かせる私と考えると、
それは、やはり私にとっては、技能やアイデアということで、
それで、経済的に自分を成り立たせることができて、
更に、人の役にたてたら、人と共存共栄していけたら、
たぶん、幸福なんだと思います。


もう一つ、
否定形の関心に疲れて、「透明人間」になりたいと言った時期がありました。
引きこ森の同義づけみたいな感覚です。
今は、すっかり、内面、引きこもり気質。

今も、目立つことや人前にでることには抵抗がある。


でも、今思うのは、「透明人間」でも、
スキルとアイデアを活かすことは出来るし、
それが人の役にたつこともあるかもしれないと思うと、

「透明人間感」(私の中の引きこもり同義)と、
「役に立つ」が、両立することは、可能だと
思える時代になったのかもしれません。


「引きこもりでも、自分を活かして、役に立ちたい!。役に立てる!!。」

(笑)。

時代や事象の変化もあるけど、自分の考え方のシフトも、
最近感じます。

自分のシフトが、一段階変わったような気がしているのです。今年に入って。


自分の中の、感覚と、偶然の一致的に、
コヴィー氏「7つの習慣」や、
中田さんのYouTube大学に出会ったことも、
意味があるのかもしれません。

主体的に言い換えれば、

自分が望んでいた、と、考えると
自分の心に、自分の想いに、重さや、立体感や、
自分自身の存在感も感じることができます。

透明人間なのに(笑)。

--

今日、学生の頃、よく話した友人の訃報が届きました。
久々に、泣きました。

優しいあの人は、「自分に優しくできただろうか?」

終焉には若い彼女の人生は、彼女にとってどんな人生だったのだろう。

私の知る限り、多くの人に囲まれた笑顔の人でした。

「あなたと話したことは、今の私の一部です。存在に感謝です!。」


そんなこんなで、最近、いろいろ考える切っ掛けを頂いておりました。

友人の冥福を祈ります。

----

今日の記事の参考:

 

 


【7つの習慣①】

 

 

 

 

「人生」と「時間」

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独り道

夕暮れ、気分展開に歩いた道の風景です。

---

 

今日のお題は、「人生」と「時間」

 

人生は、「時間」であり、
「時間」は「ストローク」のために費やさるから、

「人生はストローク」とも言い換えできます。

もっと言えば、

ストロークの質は、人生の質」とも、言えます。

---

人生は、文字の通り、
人が生まれてから、死ぬ時までの、時間経過 というのが、
客観的に解釈しやすい概念かと思います。


人生は時間を超える要素ががあることを、
私は認めますが、理論的に説明するのは時間がかかるので、
「時間を超える要素」については、また後日。

--

「人生という時間」


「時間」量には限りがあります。
物理的な側面です。

しかし、長く感じるか、短く感じるか、
時間の長さの感覚は、実に、人それぞれ、


「時間」の質に関係するのかもしれません。

交流分析に、「時間の構造化」という理論があります。

「時間の構造化」は、ストローク(心の栄養)の理論を元に、構築されています。


----

心の栄養・成長の元を、「ストローク」(交流分析用語)といいます。


人は、

水や空気や食物が必要なのと同じように、

心身の成長に、ストロークを必要とし、

ストロークを求めやまない性質があり、

その時間と知恵と行動の、目的は、「ストローク」であると、考えると、

「人生」や「時間」を整理して考えやすくなります。

---

ストロークとは、交流分析では、「存在認知」という意味で、
肉体的には、水や空気や食物が必要不可欠なように、
精神的に、必要不可欠な刺激、のことです。

心理学的な用語で言えば、刺激と反応の一往復の単位。


解りやすく言うと

「アクション」と「リアクション」
「行動」と「結果」
「働きかけ」と「報酬」

のような、ペアのやり取りのこと。

「リアクション」「結果」「報酬」などを得ることで、
自分の存在証明(存在認知)を確認できる
自分を感じることができる、

自分の存在を確認できることが、人の成長に必要なもので、
「生きる」という方向性では、
無意識レベルの動機や目的と言い換えることができます。


子供の頃は誰でもかまって欲しいし、誉めて欲しい。
存在を認めて欲しい。
必要な、注目が得られないとき、
悪いことしてまで、注目を浴びたい・・。

これ、キレイな水が無ければ、泥水でも呑むのと同じ、
人間が欲して止まない必要不可欠なものの一つが ストロークという訳です。


リターンとしての、「リアクション」や「結果」や「報酬」ばかりを
目的としがちですが、

ストローク経済の法則」があり、

ストロークは、更なるストロークを産み、
正のストロークには正のストロークが循環しやすく、
また、環境やタイミングや影響力の作用で効力の時差も生じることから、

アクション、リアクションは、「卵が先か?鶏が先か?」
と同じ価値感なります。
だから、対で「心の栄養・ストローク」という訳です。


ストロークには、正(栄養)と負(毒)もあり、

言葉、態度、モノ、お金、評価、感覚、など様々な形態でもあり、

対象(相手)は、他者だけでなく、自分、環境、自然、時間、未来、など、

精神の発達レベルや洞察範囲によって、理解や認知の対象が増えてゆきます。


自分でOKストロークを、自分に与えることができる(自尊)と、
精神的な自律が可能になります。

発達心理学でいう、アイデンティティーの確立(概ね20才程度)の
発達課題にあたります。

心の栄養ストロークについては、
過去のweblogを参照してください。

kizuki-ya-k.hatenablog.com

 --


「時間の構造化」理論での、「時間の使い方」は、

以下の6つに分類できます。

交流分析の言葉の定義や、独特の用語は、日常用語と混乱する部分も多いので、
今回は、なるべく、解りやすく、私の言葉に置き換えて、解説に努めたいと思います。
(カッコに、交流分析用語を残します)


時間の使い方の種類は、

1)「自分メンテナンス」(引きこもり、閉鎖)
2)「ルーティーン」(儀式)
3)「社交」(社交)
4)「活動」(活動)
5)「不毛な関係」(ゲーム)
6)「本音の交流」(親密)


個々に解説すると、


1)「自分メンテナンス」(引きこもり、閉鎖)

 自分と対話している時間。 自分で自分にストロークを与える状態。

 たとえば、ほーっとしたり、睡眠したり、
 趣味をしたり、自己メンテナンス時間。


 ※ リターンとしての、心の栄養価量(ストローク刺激量)は、
 他の時間に比べて少ないが 確実に安全に得ることができる。

 心の栄養価の質(ストローク刺激質)は、自分で選択できる。
 

2)「ルーティーン」(儀式)

 形式的、習慣的な他者とのストローク
 挨拶や、朝礼、ペットのえさやり、など

 ※ リターンとしての、心の栄養価量(ストローク刺激量)は、
 1)に比べて優位だが、6種の中では、5番目で、
 3,4,5,6)に比べて少ない。
 
 習慣的に得ることができる。予測できる。
 心の栄養価の質(ストローク刺激質)は、習慣の質による。


3)「社交」

 表層の情報交換。
 形式的なストローク交換。
 ルーティン(儀式)とは違い、場所やタイミングは固定されていない。
 様子伺い。仮面(ペルソナ)・肩書き・表層的。
 関係の発展性は、あまりない。

 ※ リターンとしての、心の栄養価量(ストローク刺激量)は並。
 1)2)に比べて優位だが、6種の中では、4番目。

 心の栄養価の質(ストローク刺激質)は、仮面や立場・肩書きによる部分も大きい。


4)「活動」

 目標や任務などの、具体的成果を得るためのストローク交換の交流
 
 ※ リターンとしての、心の栄養価量(ストローク刺激量)はやや高い。
 6種の中では、3番目だが、具体的で正当な成果に対しては、効率的。

 心の栄養価の質(ストローク刺激質)は、
 具体的で正当な成果を得ることができるため、
 活動量と、成果の妥当性の考慮をすれば、質の選択が可能。


5)「不毛な関係」(ゲーム)

 繰り返し起こる、人間関係のトラブルパターン。
 裏面の交流。
 駆け引き、暴力、略奪や嫉妬、悲劇的な関係。
 依存症、共依存関係。上下支配。淋しがり。
 「思いやり」という思い込みによる裏面の他人コントロール
 他者の時間と、ストロークを奪う様なもの。

 ※ リターンとしての、心の栄養価量(ストローク刺激量)は高く強烈。
 ストロークの刺激量は強いが毒素も強い。
 6種の中では、2番目だが、建設的な結果にならない。

 心の栄養価の質(ストローク刺激質)は、不毛な結果に終わり、
 建設的な結果にならない。
 激痛で強烈な場合が多い。時間ムダ使い。
 
 不快なゲーム関係(交流分析用語)のレベルもあり、
 a) ブラックユーモアのようなものもあれば、
 b)社会的に人に言えないレベルのもの(いじめ・不倫・二股など)や、
 c)詐欺、犯罪や殺人レベルのものもある。
 
 最終的に、無念さ、虚無感を、お互いに味わうが、
 自分の影響力や存在感を強烈に 刺激的に味わうことができる。
 

 「不毛な関係」を見分けるキーワードは、

 「繰り返し」、「犠牲者」「救援者」「迫害者」、「役割スイッチ」、
 「正義感」「罪悪感」のラケット感情を持っている人は、カモになりやすい。


 大抵の人の場合は、行動範例となる見本があり、
 無意識的に、衝動的に、心の穴を埋める方法として、
 習性的に、不毛なやり取りで自分の存在を確認しようとする場合が多い。


6)「本音の交流」(親密)

 心のふれ合いを目的としたストローク交換、交流。
 立場にとらわれることなく、対等に、本音で、気持ちや感情の話ができる交流。

 本音は、防衛心や虚栄心が強い人にとっては、
 一見傷つくことも多い様に、思えるかもしれないが、

 嘘がないという部分は、信頼ができ、安心の基盤となる。
 
 本音の交流には、
 I am OK, You are OK.(私は私でOK、あなたはあなたでOK)の構えが基盤になり、
 比較するのではなく、平等を主張するのでもなく、
 違いを認め合い、尊重し合える関係が必要なる。


 ※ リターンとしての、心の栄養価量(ストローク刺激量)は最も高い。
 共感の範囲を選ぶことで、部分的な、刺激量を得ることもできる。


 心の栄養価の質(ストローク刺激質)は、本音なので、本物。
 自分と他者の心理的な発達度に関わる部分はある。

 他者と自分を比べしまうときは、逆効果なので、影響を受けすぎないよう、
 距離をとれる距離感も大事になる。

----

6つの時間を、自分はどのように使っているだろうか?


時間の使い方の、分布をグラフにするワークをすると、解りやすいです。

 

私の場合は、

自分の「時間」の使い方(=人生)を 見直す切っ掛けになりました。

 

私の場合は、以前も、今も、「活動」が多いです。仕事好き。

好きなことを仕事にしているのもあり、
以前も、今も、活動に一番時間を使っています。

以前と、今の違いは、
「活動」時間には、明確な「成果・報酬」を意識するようになりました。


目的を明確にすることで、

「活動」の人間関係が、「不毛な関係」(ゲーム)にならずにすむようになりました。


あとは、「本音の交流」を増やせたら満足感があるのかもしれませんが、
相手にも限りがありますから・・。

 

「本音」と「表層」のリターンは意識するようになりました。

 

他者の影響を受けやすい私は、

自分が自分でいるために、

「自分メンテナンス」(引きこもり、閉鎖)に、
時間を使う必要性を感じています。

何と言っても、「不毛な関係」は、
早く気づいて、極力、関わらないようにするようになりました。


「時間の使い方」を変えると、人間関係も変わります。

時間を構築すると、人生の構築にもなる、という仕組みです。

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「時間」は、有限で、限りがあるので、時に選択をすることになります。

これもまた、人生の選択というなのだと思います。

人生は、自分で選択できる、という交流分析の指針です。

 
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人生の終わりについて、考えることがありました。

哲学やいろいろで、死を意識してきた自分の死生観は、
死を忌み嫌ったり、怖がったり、意識してこなかった人からすると、
同調なきフラットに感じるかもしれません。

実際に、死に向き合う場面の方には、
辛さや複雑な感情を、刺激してしまう側面もあるかもしれません。

死について、哲学するのは、
実社会ではデリゲート(忌み)なことなのかもしれません。

しかし、「人生」や「生きる」ということを考えるとき、
区切りであったり、相対にある「死」を意識するというのも、
必然であったりします。

全ての人に配慮できない部分があると思います。
もし訳ありません。

そして、改めて人生をふり返る機会をくれた友へ

感謝の気持ちです。ありがとう。

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「死ぬまでにやりたいこと」列記してみました。

以外と少なかったですし、
若い頃とあまり変わってなかった。

私は「仕事がしたい」ということも、よく解りました(笑)。

今の私は、以外と、必然な状態なのかもしません。
そう思ったとき、痛みや理解できなかった過去のつじつまが、

すーっと、繋がった気がしました。

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最近は、今期は、お仕事が毎週徹夜という状況だったのですが、
今週一段落したところです。

少しカラダも心もメンテナンスした方がよいなぁと、
感じていたりします。

また、どこかでお話しましょう!。