ココロド_黄月家K's weblog

考えすぎ? ココロド_心理カウンセラー_黄月家Kの 思考いろいろ、ものづくり、カウンセリング心理学、時々庭、時々日記です。

自分喪失、「自分のカケラ」

サボテンの花が咲きました。

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サボテンの花

---

 

目的があって、頑張っていたはずなのに・・・
好きなことをやっているはずなのに・・・

なんだか、むなしい・・

楽しくもなく、悲しくもなく・・
感覚がにぶくなているような・・
何も感じない・・ような・・。

 

「本当の自分」を 何処かに置き忘れていませんか?


・ あ忘れ物、うっかり

・ 遅刻、寝坊、

・ 倦怠感、やる気が出ない

・ 身体が思い通りに動かない


そんなときは、「本当の自分」を忘れないで!のサインです!。


・ 無性に反抗したい

・ 言われた通りしたくない

・ 別のことがしたい自分がいる

こんな時は、速く「本当の自分」に気付いてやって欲しいタイミングです!。

 

---

ということで、

今日のお題は「本当に自分」

 

「本当の自分」といっても、

身体も、心も、行動も、どれも、「自分」に違いないので、
「嘘」の自分とか、「偽り」の自分がある訳じゃないです。

内面と、態度が意識的に分離してしまっている場合は、
「嘘」や、「偽り」と感じる自分の一面が、ある場合もありますが、

気づけていることは、素晴らしいです!。


気づく部分があるのなら、偽りの意味付けや割り切り、
あるいは、修復や方向転換の可能になるからです。


大抵の人は、疲れたり、悩みを抱えていると、視野が狭くなり、

自分のいろんな要素、

たとえば、一生懸命な自分、思いやる自分、考える自分、自分の感覚、弱い自分など、
が、偏ってしまっていることに気が付かない事があります。


「自分」と一言でいっても、

人間は、身体と心、思考と感覚、強さと弱さ、
大人っぽさ や 子供っぽさ など、

矛盾を内在しています。


「矛盾」があって当たり前、というのが、「人間っぽさ」であったりします。


ゆえに、人間は、迷いやすく、非合理な部分が多くあります。


だから、「悩んだり」、「考えたり」する経験が、
自分のアイデンティティを育てるわけですが、


現代人は、時間がないらしい。

 

時間をケチるということは、一見、合理性で、建設的のように思えるけれど、

経験や、考えるチカラ、悩みを抱える強さ、
痛みやダメージを癒やす回復の時間や機会をも、
同様にケチってしまうので、

現代人は、自分のことを考えるチカラの経験が少なく、
矛盾に弱く、痛みやダメージに弱く、
自分を癒やす前に、防衛と攻撃の違いすら微妙な場面も、見受けられます。

 

自分の中の、別の自分、
矛盾した自分に気付くことが、第一歩だったりします。

 

矛盾の大抵は、

頭ではわかっているんだけど・・の、理想や、学習している自分

VS

素の自分、自分の状態や感覚や、キモチ

の 板挟みだったりします。

 

それは、理想だったり、合理性だったり、結果・評価思考だったりする要素と、

VS

自分の生っぽさや、人間ぽさの要素だったりします。

 

一生懸命がんばり過ぎているときは、
頭や、思考に偏りがちになりますし、

偏りを通り過ぎると、
思考しても、身体が反対の状態になる・・
みたいな、自分の中が、バラバラの状態になってしまっている
ということになります。


だけど、意識は、思考や理想に偏っているから、
片方の、忘れている自分を認識できなかったりします。
「自分のカケラ」に気が付かないなんて・・思いたくもないから・・
思い込みと無意識が、更に、自分のカケラを 観ないように
柔軟性を欠いた自分の方へ、硬く偏ってしまいがちです。


取り残された「自分のカケラ」は、自分に見捨てられて悲しいね。


何処か、遠くで、さみしさや虚しさが自分を包むのは、

「自分のカケラ」を何処かに置き忘れているからなんですよ。


「本当の自分」とは、忘れがちで、受け入れがたい
矛盾し自分であったり、自分の弱さであることが、多いです。

 


人間は、構造上、矛盾を抱えやすい存在なのです。

弱くていい。
矛盾があっていい。
人間だもの。

ありのまま、ありのまま、
矛盾があるからこそ、方向転換もできる、可能性も広がる。
矛盾があるからこそ、考えられる。
弱さがあるからこそ、学習できる。
考えられる。


自分の中の、矛盾や弱さに気付いたら、

自分の別の部分で、見捨てず、見守り、寄り添い、
時にお世話労れることが、
自分を成長させるコツだったりしします。

 


--
どうしたら、自分のカケラを愛せるのか?。

 

自分で、自分のお世話ができるようになる。

そのために、自分の状態に目を向ける。

そのために、まず、「安全な場所、自分が居てもよい場所を確保」する。

自分を壊さなくても、愛されない自分でも、居て良い場所。

それは、時々、ひとりきりになれる場所であるかもしれないし、
想い出の場所であるかもしれないし、
誰も知らない、自分が出せる場所であるかもしれないし、
あるいは、シェルターや 
カウンセリングルームだったりするのかもしれないけれど、

自分の中の、傷ついた自分と一緒に入れる場所、
それが、安全な場所。

 

自分の状態に目を向ける。
自分の中のカケラの声を聴いてみよう。


自分も他人も同じだよ(対等)。


もしも、自分(他人)が 悲しんでいたら、優しくしてあげて。

もしも、自分(他人)が 泣いていたら、そばに居て抱きしめてあげて。

もしも、自分(他人)が 怒っていたら、話を聴いてあげて。

もしも、自分(他人)が 喜んでいたら、喜びを分かち合って。

もしも、自分(他人)が 迷っていたら、待ってあげて。


時間や成果では、得られないものが、
そこにあるから。

幸せや、幸福感は、時間や成果で得られるのは80%まで、
どうしても、足りない20%があるのなら、

それは・・

 

もう一人の、自分の中の
置き去りにされている「自分のカケラ」の存在だったりする。

 

 

自分の中の片割れが、愛されない自分なら、
自分が満たされる感覚は半分になってしまう。

自分の片割れが、本当に愛されたいのは、
自分自身なんだよね・・。


立派だから、愛する、愛されるわけでなく、
条件付の愛なんて・・本当の愛じゃなんだよ。

ただ、存在していることが、
そこに、存在していてくれること、
それ自体が愛なんだよ。


ま、私自身も、自分嫌いの王者で、
「自分のカケラ」を、自分で粉々に砕いてた時期もあったと思います。


それでも、こんな私が、
「自分のカケラ」を・・ま、抱きしめることは、なかなか難しいですが、
寄り添うことは、出来てきたのかなと・・
思うこの頃です。

人には、「本当の自分」大事にしてくださいね! と
言いつつ・・


自分は、まだ時々、忙しさにかまけて、
「自分のカケラ」を、何処かに忘れてしまうことも、まだまだあります。


でも、上手く行かないときは、
意図的に、「自分のカケラ」を探しに行きます。


こんな「カケラ」守ってやれるのは、私しかいないのだから・・(苦笑)。

(ちょっと、ディスりはいってるかも知れない言い方ですみません・・。)
(私も、無条件の愛を知らずに大人になった経緯がそうさせているのだろうと思います。)
(ま、このようなキズや痛んだ私も、私のカケラなのだから、
 痛んだ私も存在していて良いと思うことにします。)


以前、「本当に自分」と出会うことについて、
ワークをした事がありますが、

その時、一人の学生が言ってた・・「ほろ苦い」感じって。


人間って・・複雑やね・・(苦笑)。

 

 

地雷女!?、「嫌なやり取り」繰り返すパターンを見抜く

今日のテーマは、「嫌なやり取りを見抜く」


最近の「地雷メイク」とか、「地雷女」という言葉を耳にします。

地雷女とは、
“見た目はかわいいが関わると厄介な女性”

“地雷メイク”は、
地雷メイクは別名「病みメイク」ともいわれていて
泣きはらしたような赤い目元や血色感の無い肌、
真っ赤なリップなど病弱さを演出し病み感を出すのが特徴です。
なのだとか

参考 : 

「地雷メイク」ってなに?メイクからコーデまで地雷女になるためのHow toをご紹介|MINE(マイン)

地雷女とは? 地雷女の7つの特徴と見極め方。付き合ったら地獄!? | iVERY [ アイベリー ]

--

地雷女を、交流分析(TA心理療法)のエゴグラムので、分析解説すると、

泣きはらした目や口の赤と、対照的な血色のない病弱そうな肌は、
傷ついた子供の心

つまり
AC(Adapted Child 順応、傷ついた自分)が前面に出ている状態。

交流分析エゴグラムの、ACを、
インナーチャイルド理論に当てはめると、
同じく AC(アダルトチャイルド、傷ついた子供の側面)
になります。

「地雷女」の、実際に関わると「厄介な部分」とは、
前面は、フック、つまり、キャッチ(つかみ)の部分、

ACは、他者の、交流分析エゴグラムでいう、
NP(Nurturing Parent 優しさ)を刺激します。

前面のフックが、AC(かわいそうな子供)なので、
NP(優しいお世話人・優しい親心)心を刺激(誘引)するという
交流パターンが発生しがちです。

しかし、実際に関わると「厄介」と感じるのは、
見た目のか弱いACが、
実際には、自己中だったり、二面性が激しかったり、
コントロール的になったり、
他の、側面とスイッチングするから厄介ということになります。

これ、まさに、交流分析の「ゲーム(不毛な関係)」のパターンで、
解説できます。


--
自分の内部の、性格や傾向のバランスのこと、

交流分析(TA)のエゴグラム、構造分析(自我状態)について、
下記に、おさらいしておきます。


心の中を、交流のエネルギーの 3つ要素に分けて説明する理論です。


P = 親(Parent)
    上から目線的な思考や感覚、規則や信念、教え込まれた自分、定着した概念。

A = 大人(adult)
    思考・思案する。知識や観察による論理的なで柔軟な判断。中立的。科学的、客観性、対等な価値感。

C = 子供(Child)
    子供的な思考に寄らない部分、感覚的、想像性、無邪気さ、弱さや、従順、順応さ。

 

※ 現代日本文化と、交流分析用語の、連想が繋がりにくい用語が多いため、
  交流分析用語のままでなく、伝わりにくそうな言葉を、
  私なりに、解りやすく、変え伝えています。


さらに、Pと、Cの、相反する特徴を細分化して、5つの傾向に分けて解釈します。


CP(Critical Parent きびしさ)
    厳格で、過剰になれば批判的。上下関係的価値感。支配的。

CPが高いと、
否定的自動思考傾向が強い。
実は思考力、理解力が弱く、柔軟性に欠ける。
親子関係交流では、子供がACに陥り易い。
You are not OK(他者否定型)の構えと関係が深い。

NP(Nurturing Parent 優しさ)
思いやり、お世話傾向。協力上手。自己消耗。

NPが高いと、
強調性・共感性に優れ、人間関係を作りやすい。
「かわいそう」という上から目線の偏り。
    Aの思考力が低く、NPが過度に高すぎる場合は、自己犠牲、自己消耗に陥りやすく、
甘やかし傾向、他者の自己成長の機会を奪う。
共感性は高いが、実は、論理的思考力が弱い。
You are OKの構えとの関係が深い。

A (adult 論理的思考、考えるチカラ)
    知識や観察による論理的な判断、科学的、客観性、対等な価値感・検討。

Aが高いと、
合理的、建設的。能率的。思考力、理解力が高い。自律的。
経過や変化とともに、情報や判断が変わることができる柔軟性。
情や、関係性に左右される部分が他のパーソナリティーより少ないため、
あっさりと感じる。
中立・対等な関係のため、二分法思考(上下・優劣、強弱主義)の人には冷たいと思われがち。
I'm OK. You are OK.の構えとの関係が深い。

FC(Free Child 率直さ)
のびのび、自由、行動的、想像性、感覚的、楽しい、率直、無邪気、生まれたままの素質でOK

FCが高いと
想像力が豊か、行動的でエネルギッシュ、自己肯定感、自己能力開発、
共感性が高く、同調的。

Aが低くFC高すぎる場合は、
自己優先のわがまま。他人の権利を奪う場合は、自分勝手。
NPに保護・生成される部分が多く、NPの組み合わせの縁が深い。
    I am OK の構えとの関係が深い。

AC(Adapted Child 順応)
イイ子的、自己抑制、遠慮、従順、過適応、過順応、
人に合わせる、他人依存、自己卑下、自分がない、見捨てられ不安。

ACが高いと、
他人依存、自我アイデンティティー(自分とは何者か?)の確立が難しく、非自律的。
ACが高すぎて、限度(リミット)を来れると、逆ギレを起こすため、
ACの高さは、要注意。
ACが高すぎは、反抗・反逆傾向に傾く、RC(反抗する子ども)を派生する場合がある。
ACは、FCとの組み合わせで、増長・固定化・固着することが多い。
I am not OK の構えとの関係が深い。


--
参考webサイト:

エゴグラム無料診断のサイト

エゴグラム性格診断|心理テスト性格診断無料

ウィキペディア 交流分析

交流分析 - Wikipedia

 

--


交流分析に「ゲーム理論」という、嫌な気持ちになるやり取りのパターンを
解説した、理論があります。


交流分析の「ゲーム」は、楽しいものを意味していないので、
一般的に使われる「ゲーム」とは意味が違うこともあって、
私自身、とても、解りづらい理論だなぁと、感じています。


私なりに、言い換えれば、
自分か、他人を、嫌な気分におとしめるやり取りで、
繰り返すトラブルパターンのことです。


自分のトラブルをふり返ると、
いつも似たようなパターンがあることに気づくことありませんか?


たとえば、
いつも、自分は悪者、

いつも、人を責めてしまう。

いつも、役に立ちたいのにダメな自分を思い知る。

「いつも」、はまってしまう嫌な交流パターンのことを、
交流分析で「ゲーム」といいます。

--
交流分析の「ゲーム分析」について、
かかれている他のサイトを以下にあげておきます。

 

交流分析のゲームの分類とゲーム分析


--

 
言葉(交流分析用語)が、わかりにくいので、
交流分析の「ゲーム」を、このサイトでは、「不毛な交流」と言い換えることにします。
(大抵は「不快な交流」と説明する方もいます。)

なぜなら、
嫌な気持ち = 自分か、他人、または両者が、not OK で終わるので、
建設的な結果になりません。
交流分析の「ゲーム」のことを、「暇つぶし」と訳すのは、建設的な要素がない
という意味です。

 

「不毛な交流」の特徴は、


1)見せかけ(仮面)のストローク(やりとり・交流)で始まる
2)途中で役割が入れ替わる。
3)繰り返す


知識があれば、「不毛な交流」を見抜くことができます。


心理カウンセリングでは、

「いつも」
「繰り返し」
「逆ギレ」

などのキーワードが有るときは、
「不毛な交流(ゲーム)」パターンを疑います。


--

具体的なパターンは、沢山ありますが、


それらを、カープマン,Sの理論では、
人生脚本の中のドラマの配役のような解釈で、
下記の 3つの 役割(配役)として、とらえたました。

1)迫害者
2)犠牲者
3)救済者

「不毛な交流(ゲーム)は、の三つの役割(入り口)から始まり、
途中で役割が入れ替わるという解説です。

 

3つの役割を、私なりに
交流分析エゴグラムの5つの性格傾向に当てはめると、

1)迫害者 = CP(Critical Parent きびしさ、批判家)

2)犠牲者 = AC(Adapted Child 順応、傷ついた心)

3)救済者 = NP(Nurturing Parent 優しさ、お世話役)


性格傾向に当てはめて観ると、
つまり、
「不毛な交流(ゲーム)」に陥りやすいタイプは、

CPと、NPの、上から目線の人達と、
ACの、他人依存、
3つの顔が前面に出ている方々である、と考えることができます。

家族にありがちなことも、納得です。


CPは父性的、NPは母性的、
自律的思考の発達の機会を得られなかったC(Child)は、自律てきずにACになります。


「恋愛は、親子関係の未完の課題を満たすもの」
という恋愛依存の理論によれば、

恋愛で、
欲しかったNPを求めるか、
自分のnotOKの構えを、証明・確認するために、
CPを求めるかということになります。
(自分がダメであることで、子供として認めて貰えるという歪んだ感覚)


そして、
ACが、思考なしに、大人の役に転換すると、
CP(批判的)、NP(お世話)、に至りがちです。


--

人は、自分も含め、
ある程度、傾向の偏りがあるので、
だれでも、どんな人でも、
「不毛な交流(ゲーム)」のパターンを、いくつか持っていて、

無意識に、はまりやすいパターンがあります。


※関係者は、無意識なので、「はまる」という感覚がある気がします。

 

特に、相手に役割によって、誘発される場合がほどんどです。

 

しかし、自分の「不毛な交流(ゲーム)」パターンに気づく(知る)ことで、
意識的に、回避できます。

■--気づくサインは--

裏面です。

1)自分(相手)が、言葉と、行動が合わない。
2)自分(相手)が、あまのじゃく(自虐的・非建設的)と感じる
3)自分(相手)が、建て前の行動をしている。
4)本音で話ができない。
5)言えない。
6)聴かない。
7)一緒にいても、さみしい。むなしい。
8)執着・固着している。

 

もしも、「不毛な交流(ゲーム)」に、はまっているのでは?
と感じたなら、


■--脱出する方法--

1)物理的な距離をおく。
2)期待に応えなくてOK。
3)相手に影響されすぎないで、自分を守る。
4)自分の本音を、早いうちに伝える。
5)自分の考えを持つ。
6)自分と他人は違うと、割り切る。
7)上下関係にならず、上でも下でもない対等を維持する。
8)A(考えるチカラ)で対等に対応する。
9)相手を誉めて、対等に、自分も誉める。
10)自分を保てる距離感を保つ。

 

■--「不毛な交流(ゲーム)」体質から変わる方法--

1)いろいろなタイプの人と交流する。
2)自分の良さを探す(持つ)。
3)自分のこと(考えや気持ち)を伝える場所を持つ。
4)自分OKの範囲を作る。自分と他人の境界を作る。自分は自分。
5)自分のことは、自分で考える。
6)考えるチカラ(理論的もの)に触れる。
7)自分で自分を好きになる。
8)自分で自分のことを誉める。
9)自分のお世話は、自分でできる。

 

※ 結局のところ、

1)迫害者 = CP(Critical Parent きびしさ、批判家)
2)犠牲者 = AC(Adapted Child 順応、傷ついた心)
3)救済者 = NP(Nurturing Parent 優しさ、お世話役)

は、相手がいないと、役割が成り立たないという、
共依存(自律に至らない未発達な状態)な部分、
ということができます。

だからこそ、相手(他人)を巻き込みやすい反面、
自律的な、精神の成長の方向に、進めば、
おのずと、相手を必要としなくなる原理です。

自律性とは、
I'm OK. You are OK.(自分尊重、相手尊重の両立)で、
そのためには、お互いがOKである、境界と距離感が必要になります。

そして、そのためには、
その都度、状況や状態を、観察・把握、吟味・検討して、
柔軟にOKを出せる、Aの 「考えるチカラ」を養い、
影響を受け過ぎず、自分を守れる、自己信頼を、
持つことだったりします。

 

--

お話し長くなりました。

最後まで、読んでくださって、ありがとうございます!!。


感染症や、災害や・・
今、大変で、予想外のことが、沢山で、
経済優先? 何が大事?
どう生きていったら良いかさえ、迷うことも多いです。

 

大切なことは、

裏面では、おうおうにして、不毛な結果になることが多いです。

どうぞ、困難なときこそ、
自分の本当の、心の声に耳を傾けてあげてください。

私も、体力も、時間も、限界があり、
自分の無力さが悲しいと思います。

困難なときこそ、自分の心と会話しようと思っております。
ときに、自分を励まし、
ときに、自分と一緒に泣いて、
ときに、自分を抱きしめて。
ときに、自分の同志となって。

 

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「人間関係を見抜く 3つ言葉」新しい距離感

今日のテーマは、「人間関係を見抜く言葉」

 

私は、私。 あなたは、あなた。

そんなふうに、お互いの違いを認めあって、
違う価値観を、認めあえるのは、

対等な関係と、
適切な境界(操作しない、されない距離感)が、必要です。

---

他人や、外部の影響を受けすぎているなぁと、思う時は、
少し、物理的な距離をとった方が良い場合がほとんどです。

新型コロナ感染症対策でよく使われる、
「社会的距離(Social distance)」という言葉、

心理学では、パーソナルスペース(personal-space)の3段階目、
影響を受けすぎず、相手と会話ができる距離(1.2 - 2 m)、のことです。


学校や職場が始まっても、
心の距離を、意識することで、
自分を守ることが、可能になります。

人を、見抜こう。人間関係を見抜こう。


私の場合は、子供の頃から人と距離の感覚が遠いので、
1m以上の距離を保つ方が、安心できます。
(ボケキャラですが、感覚が鋭い(HSP)ところがあるための
無意識の自己防衛かもしれません。)


誰でも、自分が不安定な時は、
他人を気にしすぎたり、他人のフォローやお世話が欲しくなったり、
しがちになります。


関係に、嫌な感覚が有るときは、要注意!。


不安定な状況が続く場合は、
他人との距離感が、曖昧な関係

つまり、
私とあなたは、同じ?、どちらが上?、どちらが優位?
あなたは、私の全て・・・、私はあなた? 私は誰? 、悪魔?、神?、
なんて、ところまで、対等性が崩れる時がありますね。


自己の不安定な状況から、自律するためは、
上げたり下げたりするのでなく、されるのでもなく、


自分を対等に扱ってくれる存在を持つことが、
心的安定(心的自律)への、大事な出会いになります。
本来は、友達だったり、心理カウンセラーだったりするのかもしれないけれど、

対等でない構えを持った、社会(学校・職場・家庭)環境を持ってしまうと、
精神の成長的な学びの環境が失われてしまう可能性があります。


影響を受けすぎない距離を取ろう!。
自分を取り戻そう!。


対等な人を、見抜けるようになろう!。


見抜く、コツは、簡単です。
「言葉使い」でわかります。


「ありがとう」
「ごめんなさい」
「お願いします。」

この3つ言葉、

この「3つの言葉」がある世界では、がんばれる。
この「3つの言葉」がない世界では、人は、嫌な気持ちになります。


なぜだと思います?


この「3つの言葉」は、人の価値に関わる言葉だと、私は思います。

つまり、「人の価値」の価値感は、「3つの言葉」で、見抜けるということです。

 

自分を取り戻す方法は、

1)「3つの言葉」を使う人と接する。
2)「3つの言葉」を使わない人と、距離をとる。
3)「3つの言葉」を自分自身が使う。


--

 

人と人の境界のことを、カウンセリング心理学では、
バウンダリー(境界)といいます。

人の価値を、対等に保つための、境界です。


境界を越えるときは、「お願いします。」
報酬として、「ありがとう。」が、大事です。

「お願いします」と、
「ありがとう」は、

人の価値に関わる言葉だから、大事なんだよね。


「お願いします」と、「ありがとう」を言えない人は、
人の価値を、対等に扱っていない人。


自分の価値を知っていれば命令ではなく、「お願いします」といえるでしょう。

「お願いします」は、バウンダリーを超える許可と、
自分の要望を適切に伝える言葉であったりする。

他人の価値を認めているのなら、「ごめんね」ではなく、
「ありがとう」と素直に感謝できるでしょう。


「お願いします」と、
「ありがとう」は、人の内面の価値感の目安でもある。

 

「すみません」は、
「私は違います」という意味です。

「要求にご希望に添えず、すみません」という、「境界」を示す言葉です。
「No」という、意味です。

---


--
がんばり屋、お世話ぐせのあなたへ

 

一生懸命がんばっているのに、

なぜ、私たちは幸せを感じられないのだと思う?

それは、自分が軽視されていると感じるからじゃないかな?
行動ぐせや過去の常識のための、我慢や自己犠牲は報われない。

我慢や自己犠牲は、ある程度は必要だけど、
必要以上にすれば、自分の中に、不満や恨みが生まれる。
自分の中に、不満や恨み、辛さを抱えていると、
人当たりがキツくなる。

自分の中の不満は、過度の我慢や自己犠牲が原因なんだよ。

話し合いに寄らない我慢や自己犠牲は、報酬がないので、
報われない。虚しさだけが、心に残ります。


自分自身を責めるか、我慢を強いた他人を責める結果に結びつく。

 

その我慢の報酬は何?

 

--

人間には限界がある。
人は、弱い。

だから、人は協力するように出来ている。
社会は、協力する時に、発展に転じる。


違う者が協力するためには、お互いの違いを、理解することが大事だし、
伝える合うことが大事。

 

誰でも、
子供の頃は未熟だし、成長は矛盾を産み、
矛盾の中で、自分はどう生きるか悩み、
それぞれの自分自身ができあがって来る。


素質も、環境も人それぞれだから、
自分も、他人も、人知れぞれ。

つまり、みんな違うということです。

それでも、みんな
自分をあきらめない限り、
自分の最良の道を選んで、生きている。


頑張って生きている自分も、尊重するし、
頑張って生きている他人も、尊重する


違う者同士を、尊重するということは、
違いを理解して、調整し合うということなのだと思う。

どちらかに合わせるということではないと思います。
上か下かでもない。


違いを理解しあうためには、
「伝える」ことが必要になってくるよね。

言葉選びは、大事になる。


「3つの言葉」で、人が解る。

 

--

「強くあれ」という人生脚本の対抗指令(思い込み)、
突き進む価値感が、私の中では存在していると思う。


自分の弱さを認めたら、自己の価値が崩壊するぐらいの価値感だ。


だけどね、
「過ぎたるは及ばざるがごとし」といいます。


「強い」「強くあれ」にも、
良く作用する部分と、悪く作用する部分があります。

良い範囲では良いのだけど、
自己犠牲や我慢は、過剰ということになります。

 

良いの範囲は、「ありがとう」と言われる範囲。
なぜなら、役にたっているとこうこと。

 

悪いの範囲は、「お願いします」が言えない時。
なぜなら、それは「強がり」で、結果的に、「我慢」や「自己犠牲」になってしまうから。


丁度良い「強い」は、年齢や経験や、身体や心の状態でも変わってくる。


もし、変わらない「強さ」の概念をもっているなら、
他人にも「強さ」を強要してしまっている。
あるいは、当たり前の「弱さ」を軽視・攻撃してしまう。
その「強さ」は、本当に、適切な「強さ」なのかな?


自分も、他者も我慢しすぎず、
両立するために、お互いを理解するために、
伝えるを、あきらめないで。


伝わらない時は、距離を取りましょう。
少し、休みましょう。


明日の自分自身を信じて。

--

---

生きて・・

 

--

自分が正しいことを証明したいために、
人を傷つけてしまう人へ


一生懸命のあなたはステキです。
がんばって来たことが、ステキです。
変化することは、あなたのがんばりの「否定」でなく、
更なる「成長」です?

こくこくと変わる環境や現状を、たんたんと理解することは、
過去のあなたの努力を「否定」するのでなく、
過去のあなたがあったからこそ、築ける成長です。

現実を理解することは、いささか、痛みも伴うことがありますが、
自分の別の側面を知ることも、自分を変えることも、
とても勇気がいることで、
いろいろ乗り越えて来た、あなただからこそ出来ること。
成長する時のきしみに驚くかもしれないけれど、
自分の成長するチカラを信じましょう。

過去の自分も、未来の自分も、
違う他人と、境界を明確にすることで、
あなた自身を守ることができます。
他人との境界が、共存できる成長するあなた自身のステキさを、引き立てます。

本当にステキな人は、他人を落とさなくても、
輝くのだから。

 

 

ピーターパンシンドローム、大人とは?

 今日のテーマは「大人とは?」


ピーターパンシンドロームって言葉があります。

Wikipediaによれば、
大人という年齢に達しているにもかかわらず
精神的に大人にならない人を指す言葉なのだそうです。

 

ここからは、私の見解ですが、
ネバーランドとは、迷子のいるところ、
迷子とは、大人になる(成長の)導きに
はぐれた子供を意味しているのではないかという気がします。

ピーターパンは、迷子の代表格。


そして、私自身も、迷子(幻のネバーランドの住民)のような気がします。

ちょっと前までは「私は永遠の迷子」と思えていた気がします。

私自身、子供の頃から目にして来た「大人」に、なる気がしない。

大人になりたいと思わない。

なぜななら、
「大人」というものに、良い印象を持っていないから。
見本になるようなステキな「大人」を、育って来た環境の中で見いだすことが出来なかったということだと思います。

むしろ、「大人」に対して、嫌悪すら持っていた時期があったと思います。

 

そういう私自身の歳は、既にいい中年の部類だとは自覚しております。


そこで、私の知っている「大人」の概念を折り下げてみます。


私の知っている「大人」は「嘘つき」でした。
私の知っている「大人」は「傲慢」でした。
私の知っている「大人」は「威力」そのものでした。

概念は経験から形成される部分が大きい。
経験は人それぞれだから、概念も人それぞれになる。
だから、他者と議論する前には、概念の違いを確認する必要がありますね。

 

おそらく、経験によっては、
「大人」に好意的な印象を持っている人もいるでしょう。
むしろ、そう思える環境が人間の成長には好条件なのかもしません。

「大人」を好意的に思うことが、人間の成長の道理に合っていて、
「大人」を好意的に思える人は、迷子(幻のネバーランドの住民)には
ならないのだろう思います。

 

迷子(幻のネバーランドの住民)の経験には、
道しるべのような「大人」の存在が、
いなかったのかもしれないと推測できます。


--

では、実際に「大人」とはなんでしょうか?


発達心理学的には、
自我アイデンティティーの確立、つまり、自律性の確立、
つまり、
自分の考えや判断を持ち、自分に責任を持って行動できる人が
成人ということになります。

TA(交流分析の心理学)で言うならば、
自分の内部構造の、子供の部分(チャイルド的な要素)と
秩序やルールや信念(親的な要素)の矛盾やバランスを、
状況把握をした上で状況に応じた時々のバランスを考慮できる
考えるチカラや判断力(アダルト=大人の要素)
のことを、アダルト=大人(教え込まれたものでないもの)と考えています。

 

後天的に、理論的思考ができる年齢(10才)以降に、徐々に発達する要素です。

 

最近は、
教育の場面で「考えるチカラ」が重視されるようになっていますが、

実際に、諸々の問題解決のためには、
利害や威力や欲求や、過去の常識に囚われすぎずに、
柔軟に「考えるチカラ」が必要になるからです。

その「考えるチカラ」を発揮するためには、
理論的に「伝えるチカラ」と、状況を「理解するチカラ」が
必要になってくるという方向性を持ちます。


このような心理学や発達心理学的の要素をベースに考えた上での、

「大人」の概念は、
1.)(他者や常識と自分を区別して自律的に)自分自身の考えを伝える事が出来て、
2.)(自分や常識と他者を区別して自律的に)他人や社会の状態を理解するリサーチ力があり、
3.)(常識と思い込みに囚われすぎずに柔軟に)調整することを試みる

以上の3つができる人間を、成熟した人間(=大人)と考えて良いのではないかと、
私自身は思います。

--

しかし、その3つができる「大人」って、現実的に居るのですか?
と考えると、実に少ない。と感じます。

アイデンティティーの確立」とは、
自分の確立ですが、
「自分自身を受容する」内的な作業の「結果」です。
(自分はこんな人・・という、自分を認めるという内的な作業になります。)

 

自己実現 = 自分自身の能力を発揮して、役立てることですが、
その大前提として、
自分を受容する(認める)気持ちが、
ベースになって、自分を発揮できる土台になります。
自己実現が、上の3.)の調整を試みる段階だとすると、
一説には、自己実現できている人はほんの一握り、0.5%程度なんだそうです。


そもそも、自分自身を認めない
I'm not OK 構え(自己卑下・自己嫌悪タイプ)に陥っている人の
多いこと多いこと。
(私自身の中でも、その構えが私の脚をいつもひっぱります。(苦笑)。)

 

自分にはできない、自分は役に立たないと思っている。
すぐにあきらめる。
自分の考えすら、伝えようとしない。
すぐあきらめる。

 

-----

私自身は、変わらなきゃと思います。

私のイメージの「大人」には、やはりなりたくない。

交流分析の人生脚本(シナリオ)理論を元に考えると、

 

私自身のシナリオのベースは、

見本(行動範例)の「否定形」のイメージだから、反脚本ですね。

 

私は、「嘘つき」にはなりたくない。
私は、「傲慢」にはなりたくない。
私は、「威力」に屈しない。


しかし、「否定形」は、自分自身ではないのです。

自分自身の確立とは言えない。


アイデンティティーの確立の前段階の、
反抗期と似ている。

それは、単に、反脚本に振れているだけ。


自分の心の言葉で、「肯定形」に直して言えたら、
それは、自分自身の言葉となる。

 

言い換えてみよう。

それでも、やっぱり、私は、

大人であろうとなかろうと、

私は自分自身に「素直」であろうと思う。
自分をだますことはしない。
自分自身が、自分のことを信頼できる人間であるために。
結果的に、人に嘘を言う必要はない。


「傲慢」とは、理解のない事態のことだと思う。
人を理解しよう、自分を伝えよう。
相手がどうであれ、伝える努力はしよう。

人の尊厳は平等。
大人であろうと、子供であろうと、男でも女でも。
自分も、他者もOKの関係を模索する。


私の知っている「大人」が、
私のことを、「子供」だと愚弄してもかまわない。

私は、「大人」であるまえに、
ひとりの「人間」として、成長していこうと思います。


「大人」であることなんて、どうでも良いです。
なぜなら、大人の概念は人それぞれ、
誰かの概念に合わせるのも、自分でないような気がする。


ピーターパンシンドロームは、
アイデンティティークライシス(反抗期の末の虚無感)であったり、
パーソナリティー障害傾向であるかもしれましんし、
適応障害の傾向である部分もあるのかもしれません。
それでも、成長の段階で多かれ少なかれ、迷い、通る道なのかもしれません。


それは、それで良い。


「私は誰?」を乗り越えて、


「私は私」と言える、私自身と、歩んでいければ、
私の、良き理解者である、内側の私自身と、
一緒に悩んで、問答しながら、
私の生きる道を、内部の私と一緒に模索しながら、
歩んでいけたらいいなぁと思う訳です。


内部の私を置き去りにしない。
私は私を無視しない。

自分を迷子にしない!。

 

あぁ・・また否定形になってるので、言いかけます。


私は私を理解して、自分を活かしていけるよう、
私は私を、理解しながら見守り、寄り添いつづけよう。
私は、私を信じる。
信じられる自分でいよう。


今は、そこまでしか見えないけれど。

「行動変容」とバイアス

庭にテントウムシ来ました。
庭は変わらずです。ほっとします。

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庭のテントウムシ

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今日のテーマは「行動変容」と「バイアス」


3月の下旬に少し、新型コロナ対策の緊張が緩んだ時期に、
学校や仕事の打ち合わせがありました。

昼食なしで、例年より簡素だったと思いますが、
全国的に学校も休校で、新型コロナ対策に用心していたから、
心理的には、ちょっと抵抗ありましたが、
仕事なので行きました。
(仕事なので行く←これ「べき思考バイアス」)


初めてお逢いした方いまして、
ご挨拶の時に、お互いにマスクを外して、
近い距離で、ご挨拶しました。

最初のご挨拶なので、
顔がわかった方が良いだろうと思ったり、
あるいは、マスクだと失礼かもと思ったかも、
あるいは、相手がマスクを外したので・・。
あるは、親しみを示したくて・・。
(↑これ、「べき思考バイアス」です。)


これから、2週間ちょっと、
感染者が増える度に、自分がとっさにマスクを外したことを、
後悔しました。


自分が感染していれば、
相手も感染させてしまう可能性もあるし、

自分が感染すれば、
身近な人の生活や体調や命に影響してしまう。


今思えば、お互いにマスク外す行動は、
あの時、本当に必要だったのだろうか?


そんなリスクを、
とっさにしてしまった行動をふり返り、
自分の思考クセ(バイアス)、習性によってしてしまったと感じました。


「行動変容」とは、「当たり前」を、柔軟に
状況によって、変えていくことを選択することだったりします。


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東京は、新型コロナウィルス感染症のいろいろで
外出自粛やら、緊急事態宣やら、いろいろ日々めまぐるしく、
自分のペースをつかむのが難しいこの頃です。

世界の数字を見ていると、
経験したことがないような、想像を超えた事態と感じます。

近年、ウイルス絡みのドラマなどなりましたが、
ついこの前まで、ドラマや想像の世界のお話しが、
現実の我々の廻りに繰り広げられている。

さて、この想像を超えた事態に、
ニュースやアナウンスで、

「行動変容」

という言葉を聴きます。

今、みなさんの「行動変容」が必要という内容です。

心理学ではおなじみの言葉でもあります。

何かを変える、不具合を変える、
不具合のループから抜け出すために、
「行動変容」が大事になるからです。


「行動」とは、「思考」よりも、「現実」側の階層になります。


行動が変わると、環境や人の流れが変わり始めます。

変わり続けることで、自分の丁度良いところに収まるような流れになります。

--

だけど、人間は「現状維持バイアス」があり、
変わることに不安を感じる傾向があるため、
多くの人は変化を好みません。


バイアスとは、傾向、偏見、偏り、先入観という意味です。
つまり、固定概念だったり、思いグセ、考え癖だったりもします。

 

バイアスは、人間の防衛機能や思考によるところが大きいので、
人間であるかぎり、誰もが、いくつか持っています。
私も、持っています。
持っていることが悪いことなわけじゃないですが、
状況が変化しているときは、
変化に柔軟になれれない原因になります。


特に防衛心が強い時に、はまりがち(固執的)になります。


他にも、「行動変容」を邪魔するバイアスが沢山あります。


「バイアスの盲点」
 自分はバイアス(偏見や先入観)が少ないと考えるバイアス。

心理的リアクタンス 」(Reactance)
 他人から選択を強制されたりすると、例えそれが良い提案であって反発する傾向。


以下は、憂うつのループの原因と言われる「否定的自動思考」に分類されるバイアス


「全か無かの思考」
 善か・悪か、白か・黒か、上か・下かなど、2極ですか思考できず、
 バランスや調整的思考が難しい。

「~すべき思考 」
 他人に対し、その人が直面しているケースに関係なく、
 彼らは道徳的に「すべきである」「しなければならない」と期待すること。

「行き過ぎた一般化」
 経験や根拠が不十分なまま早まった一般(全体)化を下す。

「心のフィルター 」
 物事全体のうち、悪い部分のほうへ目が行ってしまい、
 良い部分が除外されてしまう。

「マイナス化思考」
 上手くいかないことを当たり前と考える。

「結論の飛躍」
 一つの事象を、全体と思う(勘ぐり、予言、レッテル貼り)

「拡大解釈、過小解釈 」
 良いコトを過小評価し、悪いことを過大評価する

「感情の理由づけ」
 感情移入すると、合理的な判断ができなくなるにもかかわらず、感情を正当化する

「レッテル貼り」
 思い込みを、人物像や行動に帰属させて、ネガティブなレッテルを張ること。
間違った認知により誤った人物像を創作してしまう。

「自己関連づけ・個人化」
 なんでも「自分のせい」と思い込む


参考サイト:

認知バイアス一覧で社会心理学入門

認知バイアス一覧で社会心理学入門〜社会科学の知の蓄積を活用した社会教育の実現に向けて〜効果、錯誤、誤り、仮説一覧〜

 

 関連する 私の過去のWeblog

kizuki-ya-k.hatenablog.com

kizuki-ya-k.hatenablog.com


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「行動変容」が難しい時は、

 

行動の障害になるものは、
他にも、「時間がない」「お金がない」「自信がない」などの、
気持ちのなさを、「言い替え」したりする傾向もあります。
だいたいの人が経験済みだと思います(笑)。

 

「行動」の変容なのですが、
実際には「思考」のバイアスが影響していることが多いです。

もっと入り込んで言えば、
「気持ち」がない=本気ではない、から、
「思考」に留まっているということになります。


それはそれで、

少々厳しめに言えば、
「気持ちのない」ところへ、自分の行く手が繋がるという意味で、
自分に丁度良い場所に、繋がる訳です。


---


自分の思考がバイアスだと解ると、
思考を切り替えるチャンスにつながります。


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今は、新型コロナウイルスの蔓延を食い止められるため、
人々の「行動変容」による協力が必要になっています。

 

行動を変えるってことは、
「思い込み」を変えることだったりします。

 

「あれはできない・・」、「これはムリ・・」を、

 

人や自分を大事にしながら、
「ああしたら出来るかも」、「こんな手もある」に
変えていく勇気が大事ということです。

 

ムリなんてしなくていいです。

 

自分に出来ることを、変化に有効なやり方で
「柔軟になる自分」を「励ます」だけで、良いのだと思うのです。

 
--


正直、自分の生活も余裕なく、で、
状況もめまぐるしく変わり、
他者に言葉を連ねることも、自分の中で抵抗も、あります。

自分なんて・・という・・
自己卑下(I'm not OK)に陥っている心理状態にも気づきます。

私に出来ることをしようと、思って、行動してみました。
余裕のない今の私にとっては、
不安と表裏一体の部分もあります。

こんな時期に、ブログに言葉を連ねることに、結構勇気が要ります。

どうぞ、私が自分のブログで発言することを許してください。

「思いやり」の「ホンモノ」

「思いやり」

今日のテーマは「思いやり」

「思いやり」には、「ニセモノ」と「本物」があります。

「思いやり」と聞いて、嫌な印象を持つ人は、
おそらく、ニセモノの「思いやり」、
押しつけや、見返りを目的として
他者コントロールとして、派生した「思いやり」が
身の回りに多い人なのでしょう、
と私は思います。

「思いやり」と聞いて、温かい印象を持つ人は、
心の伴った、行動や気持ちを受けとって、
心のチカラになった経験がある人、
と、私は察します。


たとえば、「手伝い」って、
本当に、手伝う対象のことを理解していないと、
逆に足手まといになります。
でも、気持ちがあれば、
理解しようという方に、言葉や行動が伴います。

やがて、

手伝う側と、手伝われる側ともに、
気持ちと結果が、結びます。

気持ちがあるということは、
カウンセリング心理学的には、
「感覚や身体」を見ていると解ります。

心が(ともなわ)ない人は、「感覚(感情)や身体」が、
考えや言動と、合わない状態「不統合な人格像」に陥っていると言えます。

知識優位、理想や規則、マニュアル(CP)優位になると、
「不統合な人格像」に陥りやすい状態となり、

自分の「感覚(感情)や身体」を、
軽視(ディスカウント=交流分析用語)して考えてしまいがちになり、

心と体が悲鳴を上げ初めても、気が付かないふりをして、
自分自身を壊していく傾向が増してしまいます。


「思いやり」って、なんだろう?


欲しいときに、丁度良い具合に、はまるものだよね。

それって、理解がベースあるから、丁度良いが解るわけだよね。

だから、「理解すること」なのだろう、
と私は思うのです。

自分が「手伝う」も、「手伝わない」も、
「やる」「やらない」も、「見守る」も、
対象にとって丁度良く、
自分にとっても無理のない可能な範囲であるからこそ、
それは「思いやり」として成立するのでは、ないだろうか?

「思いやり」が、「余計なお世話」の、思い込みの押しつけ
「思いやり」が、「やってやったのに」の、見返り共依存症
「思いやり」が、「もっともっと欲しい」の、依存症
「思いやり」が、「〇〇してくれない」共依存症候群←(欲求を伝える機能の未発達)

なぜ、「ありがとう」と心から感謝できないのだろう?

 

理解不足

↑ 観察力不全

↑ 考えるチカラの未発達

↑ コミュニケーション不全

↑ コミュニケーション力の未発達

という感じなのでしょう。


そもそも、

人の(身体に対して)精神の成長には、
「表現」が大事だということは、
憲法に書かれている通り。

人が人として(特に精神的部分が)、成長するためには、
コミュニケーションが不可欠、
だからこそ、「表現」が必要となる。
「表現」の原始的なものは赤ちゃんを見ていれば解りますが、
「不快」を「泣く」という行為で「表現」します。
もし、人間が、表現しなければ、何も伝わらず、
調整も出来ず、成長はおろか、「生きる」ということすら、
大変になります。

人の成長に「表現」が如何に大事か。
ましてや、精度が増す「調整」におちては、
更なる精度の「表現力」=コミュニケーション力が必要になると言えます。


だけど、最近の我々はどうでしょう?

コミュニケーション嫌いですよね。

何でだと思います?


みんな弱っているんじゃないかな?
みんな、コミュニケーションに参っちゃってるんじゃないかな?

ってことは、
質の悪い、コミュニケーション(表現)が沢山あるから、
コミュニケーション事態が、人の表現事態が、
嫌になりかけているのではないかな?

私は、自分の周りをみて、そんな風に思えた。


つまり、
「否定感」から、アンチ(否定の否定)に「肯定的」に
発想を切り返しますと、

「嫌なコミュニケーションは止めて、
良質のコミュニケーションを探せば良い」

ではないでしょうか?


「良質のコミュニケーション」を探しても、無いのなら、
自分で作り出せば良いではありませんか。

他力と自力の4WDで。
それが、自律ってやつな気がします。

一人では成立しなから、
やっぱり、上手く稼働するためには、
他力と自力の両方が、必要な気がします。

(他力の部分は、母学や、諸先輩方の教えも、
自分の中で、活きているんだなぁと、思います。)
自分も、他者も、活かす。これが、近頃の私のテーマのような気がしております。

 

では、
「良質のコミュニケーション」とは何か?


時々に、自分のコトを伝えることが、
相手にとって、一時的な打撃になることがあります。
どう解釈されるかは、特に、相手の思考ぐせに寄ります。

でるだけ、相手に都合が悪くないように伝えたいけど、
そうも行かない、お互いの利害が完全に合うことは、
なかなかないから、相手に不都合なことも、
伝え無ければならない場面があります。

つまり、「NOを伝える」こと。

「私は、違う意見を持っている」ということを、
伝えることが、必要な場面があります。


それは、「良」なの「悪」なの?


「良」「悪」の基準は、
価値感によるので、一概には判断は出来ない。
むしろ、メリットと、デメリットの両方を見えていることが、望ましい。
片側だけの視点では、「偏っている」思考に過ぎない。

だとすると、

「良」「悪」の基準は、
真実か、嘘か、の方が、解りやすい。

つまり、「ホンモノ」と「ニセモノ」。

真実なら、都合が悪くても、
受け入れざるを得ない。
嘘の上に、本物は建設できないよね。

嘘は、次の嘘を産む。
嘘は、信用できない。
嘘は、嘘の「思いやり」。


往々にして、
機能不全家族で育ってしまった人は、
NOと「言えない」
NOと「言わない」
ように、適応して育ちます。
自律的な意見を持つことが難しい状態です。


なぜなら、言えば、
「無関心(無視)」または、
「暴力的・威力的、理不尽的」に
出くわしてしまうからです。

(無関心と、暴力的な言動や行為をみると、
 コミュニケーション不全をおこす人格傾向が見えてきます。)
自分の傾向に、気づいているかいないかで、
その人がどんな人間関係を作っていくか、ある程度察することができます。


このように、負の連鎖を生むものを、
「悪質なコミュニケーション」と定義すると、

「良質なコミュニケーション」は、
正の連鎖を有無ものと定義できます。


正の連鎖とは、「心の栄養」になるもので、

 

「良質なコミュニケーション」は、つまり


交流分析用語で言えば、「心地よいストローク」と言えます。


ストロークについては、過去の記事を参照してください。
ストローク経済の法則で言えば、
「心地よいストローク」は良いストロークを産み、集まる。
ストロークが枯渇すれば、心も枯渇する。

水も、気も、お金も、ストロークも同じなのかもしれません。

 

私もふだん、
なるべく、「心地よいストローク」を創っていこうとしているけれど、
利害が合わないとき、「NO」な場面はある。

自分に無理をして、
自分を落として(I'm notOK)の立場で相手を持ち挙げるストロークも、ニセモノ。

他者比較の優劣の価値感で、
出口のない競争苦に陥っている世界の価値感に過ぎない。

やがて、自分か、他者のどちらかを滅して
終止符を打とうとする価値感に繋がります。

奪い合いとでもいいましょうか、
奪い合いに疲れたら、投げ出すという結末でしょうか。


自分を大事に、他者を大事に、
私もOK(これでいい)、他者もOK(それでいい)と自他を両立して、
時々、足りないところで助け合い、思いやって、
そこに、素直に感謝できて、感謝を伝えることができる、
そんな状態が、

「良質なコミュニケーション」なのだと
私は感じます。


人から奪わなくても、ケチな人から貰わなくても

ストロークは、自分の中にあるし、どんどん作り出せる。
自分がマイッてきたら、
自分自身に良質なターゲットストロークを与えたら良いんです。


ターゲットストロークとは、
丁度欲している、必要なストロークのこと。

休みたければ、自分に「休んでいいよ」と声をかけてやればいい。
泣きたいなら「泣いていいよ」と、
怒りがあるなら「なんで怒ってるの?」って、
自分を怖がらず、自分の話を聴いてやればいい。
誰も気づいてくれなっくても、
「自分、がんばっているね!」って、自分を認めてあげたらいいんです。

 

自分OK、他人OKを、知る過程で、
自分の足りない所を知る必要もあるでしょう。
自分の出来ないことを、他人が出来ることを知る必要もあるでしょう。

その時に、
他人を、少し尊敬して、
また、自分も、少し尊敬できる。

そんなことの積み重ねだと、私は思います。

「尊敬」というと、
服従」関係を思い浮かべてしまう人は、
上下の、人と比べる共依存社会に、適応しすぎてしまっていると感じます。

「尊敬」と「上下」と、「服従」は、それぞれ、独立して
考えたり、感じたりできることが、
「良質なコミュニケーション」のコツだと言えます。

そして、その精度も、もう少し、細かく
考えたり、感じたりできると、
更に、「豊かなコミュニケーション」が出来ると思います。

 

「思いやり」って?

 

「本物」と「ニセモノ」がありました。

「思いやり」とは「理解すること」でもありました。

「本物」とは、「真実」と捉えました。

「真実」とは、
「良い」「悪い」でなく、メリット・デメリットの両方を理解すること。

「尊敬」とは、「上下や服従」とは、独立しているものでした。

 

そして、私が、今日書きたかった内容は、

本物の「思いやり」とは、「プチ尊敬」なのだろう。

 

理解が伴って、本当の「思いやり」は成立する気がします。

理解するには、多少の「尊敬」が必要で、

たとえば、
「がんばっているなぁ」
「一生懸命だなぁ」
「応援してるよ」
「ステキだな!」
「もう少しだ」
「君の夢は素晴らしい」

みたいな気持ちが、理解から生じた気持ちが、
「思いやり」なんじゃないかな。

そんなことを思った、今日この頃でした。


--
最近、子ども関係の学校説明会などに行く機会が多々ありまして、
現実の日本社会が、これからどうなってくのか、
子ども達が、大人になった頃、
この日本はどうんな時代になっているのかな?
なんて、データを、目にします。

自己犠牲を強いる日本社会の限界点、
海外との経済(心理)の成熟の違い。

子どもがいなくなり、企業がなくなっていく傾向にある日本、

自分の眼で、本当(真実)を観る勇気、大事なだぁと思います。

自分は何を貢献出来るか?と、欧米の大学入試では問われるらしいですが、
自分に何が出来るのか?、

自分の真実(メリットとデメリットの両方)を理解できるって、
素晴らしいと思う。
自分の活かし方を知っている人だと思う。


「21世紀は〇〇の時代」なんて言葉もよく聴きます。
〇〇に当てはまるものは、本当に多様だと思う。

多様だと、理解力も多様性が必要になるよね。
だけど、我々の理解力は、逆行している部分もあったり、
広がってる部分もあったり・・と感じたり。


コミュニケーションが負に傾いていると、
やっぱり、それが本当に「負」なのかどうか、
「ホンモノ」観る眼が育つ方へ、自分を向けることも必要かなと思いました。


私は、何が貢献出来るか? と考えますと、
やっぱり、私の哲学に、行き着きます。

「愛あるものを作る」という黄月家の方針に戻ります。

やっぱり、「作る」ことで「愛あるもの」であること、
それが、やっぱり、私の心がむく方向なのだと、確信するのでした(苦笑)。
私にも、得意不得意があります。
保守より、「作る」でチカラを発揮できます。
実際には、毎日の現実の日々をなんとかするのが、めいっぱいではありますが(笑)・・

着実に、昨年も今年も、少しづつですけど・
地域や子ども達が自分に自信がもてるようなことに役立つ方向で、
「つくる」に取り組んだつもりですし、
今も作っている最中でして・・
相変わらず・・バタバタと過ごしております。

全然、時間ないけど、
あふれてくる気持ちや言葉の整理がてら、
書いてしまいました。

また、みなさんの哲学、聴かせてください。

「人は、何のために生まれたか」

「私は何のために生まれたか?」

青春時代の課題であり、
自己アイデンティティー確立時には誰でも想うこと。


「人は、何のために生まれたか」
人は「愛されるため」に生まれるのではなかろうか?。

だから人は単独から発生しない仕組みを用いて、
単独で成長できない仕組みを背負っているのではなかろうか?。

人は愛され成長する仕組み。
しかしながら、「愛」は充分でなく、
だいたいはほどほどで、

 

だからこそ、
その満たない愛を獲得するために様々な技能を身につけ
迷いながら成長するのではなかろうか。

成長する自分を愛することで
迷う自分を愛することで

愛を生める人になり、
成長する他者を
迷える他者を愛せる仕組みではないだろうか。

 

愛を、奪いつづける人になるか、

愛を作り出せる人になるかの

分かれ目は、

成長つまり、自我アイデンティティーの確立という境目なのだろう。
つまり自律性。


愛が充分感じられない人は、
自分の生まれた意味=自分を活かす方法をみつけることが
ぼんやりと遠く感じられる。

生きる意味などないとすら思うコトもある。

 

だからこそ、言おう、
人は愛されるために生まれたきたのだよ。
ニセモノの愛(条件付の愛)に踊らされないために、
人からニセモノの愛を貰うために自分を滅しないために、


本当の自分を

本当に愛せる自分になればよいのだろう。

 

見せかけでなく、
それは格好悪い部分も含むけど、

理想でない愛は、
現実の愛は、
痛みを知って居る。

格好悪い自分にそっと寄り添うことだたりする。

内側の本当の自分と一緒に泣いてくれることだったりする。

とりとめの無い、本当の心の話を、聴いてあげることだっだりする。

ただ耳を傾けることだったりする。

(考えと行動は別だから、それができる。)

---

あっという間に年の暮れになりました。
とにかく、私はむちゃむちゃのムチャクチャ忙しかった。

他者と自分へ愛を得るためであっただろうし、
他者と自分の生活のためであったと思うし、
他者と自分の未来のためと思っていただろうし、
向上心であっただろうし、
愛される自分になるためであったり、
愛せる自分になろうとしていたのだろう。

つまり、自分の存在意義の模索であったのかもしれない。

 

それでも身体が資本とはよく言ったものです。

人は身体という物理的な制限の中で、生きている。

そこんところ、まだ、自分で今ひとつ・・現実が遠く、
気が付くと、身体がボロボロになってたり・・
身体とココロは繋がっているから、ココロもボロボロになりがち・・。

自分でケアできるのが、本当の大人(自律性)でしたよね(笑)。
メンテナンスも大事ですね。

みなさまも、自分自身のメンテナンスも大事になさってください!。

明日もがんばれるために。