ココロド_黄月家K's weblog

考えすぎ? ココロド_心理カウンセラー_黄月家Kの 思考いろいろ、ものづくり、カウンセリング心理学、時々庭、時々日記です。

今日は、思うままに徒然

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庭の大輪の水仙

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庭の あけびの 花

うちの庭も、春らしくなってきました。
大輪の水仙は、毎年見事に咲いてくれます。
あげびは、例年は、花がの後に葉がはえるのに、今年は葉が同時に・・・。
気候が例年とは・・違うのかな?

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今日は、お題なしで、「思うままに徒然」

 

「世の中は、嫉妬とねたみに満ちている」のでは?


人の成功や自負、自慢を誉める人は少ない
大抵の人は、無視・無反応、
一部の人は、ねたみ攻撃すらする。
成功者が育たない社会システム


弱い顔をしている方が、世渡りはしやすいのかな?


我をふり返れば、
「自分は・・・」と・・・
自分に中に、他人と比較してしまう自分を見つけてしまう。

劣等感。

自分を 目標に近づけたければ、
自分を出さないことが得策なのか?
これ、自己かい離(統合失調)の始まりでは?。

統合しづらい社会システム、

 


「となりの庭を眺める人は、幸福度が低い」


最近のメディアで そんなデータが話題になった。

劣等感は、誰にでもある人間らしい感覚。
劣等感自体は、問題無い。
劣等感を成長の糧にするか、
自己卑下や攻撃の糧にするか、
あるいは、気づかぬふりをするか(かい離)。
そこで、劣等感の意味づけが分かれる。

SNSや人の成功話に疲れるのは、
我の内部に内在する劣等感とのやり取りに疲れるからだと思える。

なら、いっそ、SNSの使い方を、
自分で決めれば良い。

SNS(他者)に気持ちを振り回されるのでなく、
自分の心のお世話を、自分でする。
自分の心が居心地の良い時間や環境を、自分が自分に与える必要性が出てくる。
自分の主は、自分であることが大事。

外側の自分と、
内側の自分が、

分離(統合失調)してしまわない状態(場所)を
自分に、用意してあげよう。

 

「他人の仕事をしていては、満たされない」


私は、技術者の側面があり、自分を高めるために技術を磨く。
技術で生きるために、命(睡眠時間や心)を削る

私の技術は、私自身の身体と心を、豊かにしているか?

自分が技術を開拓することも、次世代の元に貢献することも、とっても楽しい。
生き甲斐のあることだと思う。

されど、そのための、自己消耗は激しい。
バランス(統合)が難しい。

自己消耗の末の成果は、全体という成果で、
気が付けは、自分の元に残るモノは、消耗した自分。
そこにフォーカスすると、全体vs自分という構造か?
これ、大衆vs個人の構造
自分を取り戻す時期なのだろう・・・と思える。

自分に残るものは、何か?

考えてルーティーンを組み直し(変化)したい、
そんな気持ちになる。

欲望とか情熱とか、そんな野心なんてとおに無く

ただ、自分の心が豊かであることが、
他人に、豊かな心で接することができるようになり
しいては、関わる人々に、豊かな心で接することができるようになり、
しいては、関わる社会を、豊かにしていける自分になるというような、感覚です。

まだまだ 自分探し(変化する)したい。

 


ふと思う、

自分は「透明人間になりたい」と思う気持ちがある。

たぶん、人と比較されるのが苦手なので、
他者の、自分に対しての反応に、影響を受けやすいから。

「誰からも気づかれない 透明人間」の方が、
気持ちが楽と思ったりするのだとう思う。


矛盾してるけど、
「誰からも気づかれない」のは、

それは、それで、時々寂しくなることもあるんだけどね。
自由と引き替え(リスク)の 寂しさ(孤独)もあるのだろう。


だから、透明人間になりきっている 私のことを「見える人」がいると、
なんだか、涙が出てくるくらい、うれしくて、泣いてしまう。

 


「偶然の一致_シンクロニシティーを、探そう」


気が付くと、やっぱり、否定的自動思考に陥ってる。
過去の痛みやショックが、否定的な 思い込みを、固定化させてしまっていることが多い。

たとえば、
「自分はダメ」とか、
「自分のせい」
「絶対・・」とか、
「・・・する(ある)べき!」とか、
 決めつけや。
 悲観的な妄想、誇張。
 優劣な価値感。

※くわしくは、「否定的自動思考」の過去のweblogを参照ください。 

kizuki-ya-k.hatenablog.com

 「否定的自動思考」は、ぐるぐると考え続けても、
否定的な結論を、自分にすり込むだけで、
脳のエネルギーが消耗して、脳の疲れ(ウツ・鬱病の要因)になってしまう。


わかっているけど、気が付くと、思考が否定的に偏ってる。

特に、疲れているとは、「否定的自動思考」に おちいりやすい。


カウンセリング心理学での、「否定的自動思考」について、
陥っていると気づいた時の対処法として、

「考えを止める。」という方法がありますが、


浄土真宗の「念仏」って、
「否定的自動思考」を止めるための、呪文の役割があったのではないかと、
思えてきました。

確かに、
悲しみや、痛みは、
多くの知識を得ることが難しく、科学的な判断が難しく、
偏りがちな判断や、封建的ハラスメント的な社会構造の当時の庶民にとって、

繰り返される毎日が、肯定的な未来に変換しずらい
悲しみや痛みだったと想像します。


底知れぬ否定的な思考がグルグル巡ると、
自分すら、否定するか、
痛みと悲しみが、「恨み・憎しみ」に変わってしまうか・・・

まさに、「否定的自動思考」の状態に陥りやすい状態だったと察します。

頭の中の、否定(自己否定、他者否定、恨み)を、一端止めるための方法としての、
「念仏(唱え文)」だったのではないかと、

ふと、私には、思えました。

しかも、老若男女問わず、身分や学歴を問わず、
誰にでも、覚えれる短さで、
誰にでも、理解出来る意味を唱える。
お金も、道具もいらない。

心一つあれば、願うことができる。


それは、救いの呪文であったと・・私には想像できました。

 

そう考えると、

現代の今に置き換えて、


もし、自分が否定的自動思考に、陥っていることに気づいたら、

一端、思考を止めるための、
自分の心が救われる呪文を考えておけばいいんだと・・思った訳です。

 

私自身、イヤなことや、耐えがたいことがあると、
はやり、自己否定がむくむくと増殖して、

否定的な、乱暴な言葉を、心で言ってしまうときががります。


その、「否定的で乱暴な決まり文句」を、言いたくなる状態の時に、

救われる呪文に、置き換えてば いいんだと気づきました。

 

「否定的で乱暴な決まり文句」は、公共の場では、具体的にかけませんが・・(笑)

それを、たとえば、
「なんとかなるさ」とか、「ご加護を!」とか、
「救われたい」とか、「明日があるさ」とか、

自分が楽になる言葉に、
人に聴かれても自己嫌悪に陥らない言葉に、

言い換えることにチャレンジ中
これ、なかなか良い感じです。


ご自分にしっくりくる言い換え言葉を探してみませんか?。

事前に考えておくことが功を奏します。


話しはそれましたが、

否定の渦「否定的自動思考」に陥っているときは、

いろんなこと、サインや前兆にきがつかない思考になってしまっています。


否定的なことに敏感で、否定しか見えない感覚、脳、眼になっているということ。
しかも、自動(オートマティック)思考なので、
発想や回路が固定的で狭く 行き先も決まってる。


なので、あえて、固定でなく、奇跡(偶然の一致)を探そうと。

脳の、リハビリにもなります。


たとば、自分の中で感じたコト

私の一昨日の偶然の一致(シンクロ)

誰かと無性に話したい気持だった日に、
もうずっと話していなかった、30年前の学生時代の先輩が、電話くれた。
しかも、メッセージでなく、電話。
話したい・・がシンクロした。

話せてうれしかった。
いろいろ思い出した。
たくさん話しをしてくれた先輩の様子もうれしかった。

というか、そこまで、率直に話せる人と、
30年前にであっていたことが奇跡

そして、
今も変わらず、率直に、話せる時間がやってきたことが奇跡

そう思うと、心が うるうるです。


---

春ですね・・。

人の 出会いも 別れも 
偶然の一致ですね。

気持ちが複雑すぎて、一気に消化できず、
心がパンクしそうになります・・・。

だから、
偶然の一致(シンクロ)を大事に、してみたいと思うのです。


ムリしなくて良い
なんだか気持ち良い


そんな人やモノとの、時間を大事にして、生きましょう。

自分の心は、影響として、微力ではあるけど、確かに 他者に繋がっているから。

 

 

 

「死に急ぐ衝動」鬼滅の刃、煉獄杏寿郎の人生脚本

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うちの梅の花

庭の 梅の花が ほころび始めました。

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今日のお題は、「死に急ぐ衝動」

 

今日、暁に覚めたとき、
私の中に、「炎」が流れていた。

そう、 劇場版「鬼滅の刃」無限列車編 の主題歌です。


炭治郎たちと、鬼殺隊最強の剣士の1人である炎柱の、煉獄杏寿郎のお話しです。


煉獄杏寿郎の背景が、ところどころの回想シーンや夢(無意識領域)の展開から、彼の、人生脚本(交流分析(TA)用語)を、
勝手に、感じることができました。

 

それは、絵に描いたような  解説しやすい
人生脚本のように、私には思えた。

 

--

「煉獄杏寿郎」の人生脚本を、うろ覚えの部分もありますが、
「見立て」を試みたいと思います。

 

★彼の禁止令: 父の杏寿郎に対する態度から
1)存在の禁止
  「存在していはいけない」「必要ない」
2)自己の禁止
  「ありのまま(自身)であってはいけない」
3)子供であることの禁止
  「子供のように楽しんではいけない」

 

対抗(拮抗)指令: 母の杏寿郎に対する態度や言葉から
1)強くあれ
2)人を守り助けよ
3)一生懸命に

対抗(拮抗)指令とは、受け入れがたい禁止令を
回避(対抗)するための条件として働き、
対抗(拮抗)指令が実行出来ない時は、
極端に禁止令へシナリオへ傾く性質のもの。

 

幼児決断(決意)
父は私を認めてくれないが、母に認められれたい。
私は守る。弱き人(母の面影投影)を私が守る。
たとえ孤独であっても私が守る。私は強く在ろう!。

 

脚本
人を守ること、強くあることの方が、私の存在や命より、意味がある。
自分の命より強くある人生を!。

 

★脚本の(悲劇的な)結末
守るため強くあるために、死す(存在の禁止)

 

誘発刺激(結末に追いやるような刺激)
鬼滅隊、鬼との戦い、人の死、命の尽きる人間であることを選択

 

行動範例
鬼滅隊柱の先人?、死んでいった隊員?

 

内的解放
煉獄杏寿郎の 夢の中?

 

脚本衝動(悲劇的な結末にむかわせる衝動)
鬼への嫌悪衝動。鬼との戦う衝動。


以上のように、「煉獄杏寿郎」の人生脚本を見立ててみました。

劇場版「鬼滅の刃」無限列車編 まだ、観ていない方は、是非劇場へ!
(「鬼滅の刃」と私は無関係です。応援心はありますが、広告のつもりはありません、理解的に読んでいただけると有りがたいです。)

 

--

本当のところは、
2時間のストーリー仕立てでは、解らないと思いますし、
作者さんや、「煉獄杏寿郎」さんが、違うと言ってしまえば、
違う人生脚本が存在することになりますから、・・
あくまでも私の「見立て」の範囲です。

 

---

なんで、「煉獄杏寿郎」さんの人生脚本を紐解こうと思ったか、

それは、やはり、

 

「存在の禁止」令を持ている、

 

という、私との共通点に尽きます。


--

「存在の禁止」令にも、程度や度合いの差がありますが、

多かれ少なかれ、無意識レベルで、
平穏で温厚な死をイメージしていません。


「死に急ぐ」ように、見えることもある。

 

--

「無意識レベル」というのが、ミソです。

 

経験や、成長の先に、
論理的思考が発達して、洞察(観察、五感・六感を含む)を、
理論で偏りのバランスを修正しながら、
「理解」や「調整」ができるようになると、

 

自分の悲劇的な人生(人生脚本)を、自ら描き直すことが可能になります。

 

しかし、その工程には、「無意識の中の、自分の習性や偏り」を
知っておく必要が生じます。

 

しかし、自分の無意識と向き合うことを、怖がる人もかなり多い。


自分の制御不能な領域と感じることも、多く、
そこに、闇や不安を、漠然と感じるからだと思います。

 

特に、思考の発達が未成熟な場合は、
闇や不安に対しての対処を、自身の中で構築できない、
あるいは、構築するすべを持たないからだと、
理解すると、解りやすいです。


闇や不安への対処(武器や盾)、


つまり、武器や盾を持たない状態で、魔物のような敵と
出くわすことは、相当の恐怖かもしれません。

 

無防備で、恐怖にぶかっていけるのは、


「存在の禁止令」など、

恐怖を超える誘発刺激や衝動を持っているケースが多いように思います。

 

「存在の禁止令」を内在している人は、
往々にして、死に対しての恐怖心が薄い傾向があります。

 

これを、「勇敢」とか、「超人」とか、「無謀」とか、
言い換えることもしばしばあります。

 

もしも、

自分の、「無意識レベル」

つまり、「衝動」や、「習性(クセ)や、浸りたい、獲得したい「感情」の中に、

 

「自滅」や、「自己犠牲」「悲劇的」なものが

 

巣を造っているのなら、

 

 

あなたは、「悲劇的な人生脚本」で生きている、可能性が高いです。

 

---

「闇」、病み、ヤミ という言葉を、
自他、自己表現を作品化する時に、使う事が多々あります。

 

「死」というストーリーの表現物も多いです。


他人が「闇」という言葉を使うのを客観的に感じようすると、

 

「闇」とは 何か?

 

という、疑問が生じ、


自分の使う「闇」について、自問自答したけど、
その時は、丁度 はまる答えが見つからなかった。


ふと、今朝、

私のココロの奥にある「闇」が何か、解った気がした。

 

それは・・・・

 

衝動(無意識レベルの行動)という、分野の、

「自滅衝動」と「破滅衝動」と、「自己犠牲」と。


だから、私は、理論の土で、自分の衝動を葬っているのです。
という解釈に行き着きました。


されど、時々、死んだはずの衝動が、幽霊や亡霊の様に、
痛みと闇の空気の中で、うごめき、もがくき出すのです。

「死に急ぐ人」(存在の禁止)が刺激となって。


---

近々、学生時代の友人を若くして亡くしました。

 

私にとって、彼女の死は「誘発刺激」となりました。

悲しみと涙がとまらなくって。
これ 私にとっての「感情」の再起。


「感情」が張り詰めて、なんで悲しいのかすら、自己分析できない。


めずらしく「思考」滅しました。


私の中の「思考」が止まると、
私の中の「衝動」が誘発され、
私の中の「悲劇的な習性・想いクセ」が、

 

私の、過去にシフトさせたハズの、

「悲劇的な人生脚本」に、私を 戻そうとするのです。

 

衝動的時代の友人や、
悲劇的な感覚や感情、
悲劇的な想いグセ、口癖


残った人々は、私に言います
「友人の分も、楽しく生きよう!」
「がんばり過ぎず、楽に生きよう!」


..... 私にとって「生きる」ことは「苦」であり、決して「楽」ではない。

と・・改めて想ってしまうのです。

 

衝動と悪い習性でつぶやく。

「死んだ方が楽だな」・・と。


これ、「存在の禁止」の なす技です。

私の中に組み込まれた、悲劇的な忘れていた脚本の一部です。

 

こうして、何かのために誰かのためにと 言い訳(架せ)して、
「生きる」ことに背を向ける。


悲しみの中の、悲劇的な闇に、脚をとられて、動けない。

昨日は、そんな一日だった気がします。


--

一晩明けて、


私の、息苦しいほどの「理論的思考」への執着が、

自分を、悲劇的な「衝動」「感情」「習性・クセ」から守る、
葬りの土なのだと、気づかされました。

 

そして、それは、
時々闇から聞こえるゴーストのうめきに対する、
防衛であり、「生」を切り開く、剣であるのかもしれません。

 

幼い私に、「死んじまえ」と耳元で
繰り返し となえた身内と悲劇的な過去から、
「理論」を使って、
今の「生」を切り開いて、生きているのです。

 

もうしばらく、「生きる」ために、
私の悲劇的なゴーストは、理論の結界の下で、
安らかに眠っていただきましょう!。

 

「理論」で弔って。

--

理解的に 読んでくださって、ありがとうございます。
感謝です!。

 関連した私の過去のweblog

 

kizuki-ya-k.hatenablog.com

  

kizuki-ya-k.hatenablog.com

  

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kizuki-ya-k.hatenablog.com

 

 

kizuki-ya-k.hatenablog.com

 

「自身の操縦士(ドライバー)」「7つの習慣」思う

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紫の小花

庭に紫の小花が、地面を覆うように咲いています。
早稲田の方の学校に、勤務していたときに、道ばたに咲いていた花のこぼれ種。

いつの季節も、かわいらしく、咲いてくれます。

名前わかりませんが、好きなんです、この花。
見かけによらず、強くて、どんなときも、咲いている。

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今日のお題は、「自身の操縦士(ドライバー)」


私は、どこに向かって(生きて)いるのだろう?

私は、なぜ、走り(止まり)続けているのだろう?

私の、幸せとは何か?

私は、どん道を走り、どこにたどりたいたら、うれしいのだろう?

自分は、がんばっているはずなのに、なんだかむなしい。


そんなこと、考えたことありませんか?

 

先日、「7つの習慣」スティーブン・R・コヴィー著 という本のことを、
楽しく解りやすく伝えているyoutube中田敦彦YouTube大学 - NAKATA UNIVERSITY)を偶然にたままた拝聴しまして、

なんか、「前向きになれる自分」の心の変化を感じました。

(末尾に、参考リンクを貼っておきます。)


動画の中で、

成功とは何か?


について、スティーブン・R・コヴィー氏の「はじめに」の中に綴られているというお話し。

哲学者マズローの「自己超越」という言葉を使って
人の幸福感について、死の床を想像して語っている。

「人が、死の床で、思うのは家族や、愛する者のことである。
人は誰かのために生き、最後はその人達のこと思う。」

私の解釈になりますが、
人の幸せとか成功とは、人と共存していく中にあるという、

人が一人では、生きられない、成長できない、未来と繋がれない物理的な生物体で、
ある所以であるのかもしれません。


余談だか、マズローは、欲求を5階層化して説明した人。
自分の価値感は、マズローの欲求の階層として配置を観ることができる。


マズロー氏と、コヴィー氏や、アドラー氏、
その他多くの哲学者や心理学理論が、言葉は違えど、同じような過程を言っている。

総括して私の解釈に直すと、
コヴィー氏の言う、3段階は、以下のような心理的成長の過程と解釈できる。

依存(他者へ反応が生きること)

自律(主体に生きる)

協調共存(強調(主体的に関わる)

成功を手にできないのは、むなしい。
経済的に成功したとしても、
 そこに、自己や他者の犠牲があるのなら、どこかむなしい。
成功と自分や他人を両立させてこそ、幸せなのだと。

 

交流分析エリック・バーンが、「自律は幻想」という言葉の心意は、
協調共存の段階への入り口のことを意味すると解釈できます。
「単独自律の限界」というと伝わりやすいのかもしれません。

---

協調共存段階の入り口を、
ティーブン・R・コヴィー氏は、「7つの習慣」の中で、
「人格主義の回復」と言っている。
それを、「中田敦彦YouTube大学」では、

「終わりを思い描く」つまり、弔辞を想像する。と言ってました。


自分が亡くなったとき、誰かに、どのような言葉を言って欲しいか?


私も考えました。

私は
「有能な人だった、有能さを貢献してくれた」を言われたい。


と・・・思うと、これ、実は、私のドライバー(交流分析用語)なんです。

交流分析という心理学に、人生脚本という理論があって、
人生脚本とは、「無意識のうちに、自分がどのように生きるか」のイメージのこと。

人生脚本には、いろいろな脚本装置あって、
ドライバーもその1つ。

交流分析のドライバー(拮抗指令・対抗指令)を、解りやすい言葉に説明すると、

「導き手」「自分の操縦士」「人生をかきたてるもの」「人生の指針」みたいな意味になります。


自分の人生を導いている(無意識的な)指針のようなもの、
自分自身の活動の動機でもある。

みたいなもの。

無意識に自分の中に入り込んでいるのは、
自分が吟味して理論的に選んだ指針ではなく、
自分の人生の中で出来事や環境や行動範例の中から、
気が付いたら思い込んでいた、良い(良心)とおもうこと。


だけど、そこに、架せがある場合に、
たとえば、否定的な条件(禁止令・自己犠牲)の打ち消しとして、
そのドライバー(禁止令の対抗指令)が存在する場合は、
否定的な条件の強さと比例するドライバーの強さになって、
自分を滅ぼしても、走り続けることにもなります。


その指針を、ほど良い程度に、
ドライバーに振り回されすぎないために、
自分自身が、自分自身の操縦者であるために、


自身のドライバーのクセを知ること、
ドライバーの架せ(禁止令)を知っておくと、
自分の調整ができる。

というのが、交流分析の考え方。

交流分析の人生脚本のワークの中では、
自分の、禁止令やドライバーを見直たりします。

---

交流分析の中では、
ドライバー(自分の操縦士)は、
大まかに5つに分類されています。

交流分析の言葉は解りづらくキツイので、
私の言葉に置き換えます(かっこに用語を残します)、

1.速いことがことが良いコト!(急げ!)

2.完全が美しい。(完全であれ!)

3.一生懸命が素晴らしい。(もっと努力しろ!)

4.人の役に立つことが立派。(人に喜んでもらいなさい)

5.強いことが大事(強くあれ!)


このドライバーを、否定形の架せとして捉えた場合は、
自分の価値感が、自分や他人を否定的価値感に 化けてしまう。
たとえば、

1.遅い奴はダメ!(急げ!)

2.失敗は命取り。(完全であれ!)

3.努力しないクズ。(もっと努力しろ!)

4.役に立たないボンコツ。(人に喜んでもらいなさい)

5.弱い者は敗者(強くあれ!)

くれぐれも、肯定的の範囲で、自分のドライバーと付き合い、
否定的な要素がよぎったときは、

一端、自分のドライバーと距離をとることが大事です。

 

私の現在のドライバーを、自己分析すると、

有能の有は、4)の役に立つ、貢献も4)の役に立つ、
有能の能は、技能の能で、2)3)のmixのような気がします。

私の場合、ドライバーは一つだけじゃない、mixだんだよね。
それに、自分で脚本を書き換えも、してきましたし。

若い頃は、5)の強くあれ!、がスゴク強かったと思います。

幼い頃、両親が、男子を欲して私を男子のように育てたことや、
強烈な性別や存在否定の中で、育った過程があったからだと思います。
幸か不幸か、私はあまり泣かない(笑)。

結果、自分を壊してしまったので、
5)のドライバーとは、距離を置き、こだわらないことにし、
今に至ります。

弱いなりに、生きていこうというところでしょうか。


私の特性と、ドライバーが合っていれば、
たぶん、幸せなのだと思います。

幸せにむかって、ひた走れる。

だけど、
5)の強くあれは、自分の特性とは違ったのだと思います。
弱くなることがある、無防備になることある。
他人を思いやるあまりに、自分を守れない。


ドライバーは、一つじゃない。
親に与えられたドライバーだけではない。
後発のドライバー(指針)だって、いくらでもある。

だから、尊敬出来る人やコトと 出会うというのは、
自分が生きる上で、大事なこになるわけです。

しがらみの否定的な影響を受けるより、
尊敬出来る人やコトから、肯定的な影響を受けることの方が、
未来の自分や未来の自分の周りにとっても、幸せなことだと理解できます。


弱い私でも、活かせる私と考えると、
それは、やはり私にとっては、技能やアイデアということで、
それで、経済的に自分を成り立たせることができて、
更に、人の役にたてたら、人と共存共栄していけたら、
たぶん、幸福なんだと思います。


もう一つ、
否定形の関心に疲れて、「透明人間」になりたいと言った時期がありました。
引きこ森の同義づけみたいな感覚です。
今は、すっかり、内面、引きこもり気質。

今も、目立つことや人前にでることには抵抗がある。


でも、今思うのは、「透明人間」でも、
スキルとアイデアを活かすことは出来るし、
それが人の役にたつこともあるかもしれないと思うと、

「透明人間感」(私の中の引きこもり同義)と、
「役に立つ」が、両立することは、可能だと
思える時代になったのかもしれません。


「引きこもりでも、自分を活かして、役に立ちたい!。役に立てる!!。」

(笑)。

時代や事象の変化もあるけど、自分の考え方のシフトも、
最近感じます。

自分のシフトが、一段階変わったような気がしているのです。今年に入って。


自分の中の、感覚と、偶然の一致的に、
コヴィー氏「7つの習慣」や、
中田さんのYouTube大学に出会ったことも、
意味があるのかもしれません。

主体的に言い換えれば、

自分が望んでいた、と、考えると
自分の心に、自分の想いに、重さや、立体感や、
自分自身の存在感も感じることができます。

透明人間なのに(笑)。

--

今日、学生の頃、よく話した友人の訃報が届きました。
久々に、泣きました。

優しいあの人は、「自分に優しくできただろうか?」

終焉には若い彼女の人生は、彼女にとってどんな人生だったのだろう。

私の知る限り、多くの人に囲まれた笑顔の人でした。

「あなたと話したことは、今の私の一部です。存在に感謝です!。」


そんなこんなで、最近、いろいろ考える切っ掛けを頂いておりました。

友人の冥福を祈ります。

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今日の記事の参考:

 

 


【7つの習慣①】

 

 

 

 

「人生」と「時間」

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独り道

夕暮れ、気分展開に歩いた道の風景です。

---

 

今日のお題は、「人生」と「時間」

 

人生は、「時間」であり、
「時間」は「ストローク」のために費やさるから、

「人生はストローク」とも言い換えできます。

もっと言えば、

ストロークの質は、人生の質」とも、言えます。

---

人生は、文字の通り、
人が生まれてから、死ぬ時までの、時間経過 というのが、
客観的に解釈しやすい概念かと思います。


人生は時間を超える要素ががあることを、
私は認めますが、理論的に説明するのは時間がかかるので、
「時間を超える要素」については、また後日。

--

「人生という時間」


「時間」量には限りがあります。
物理的な側面です。

しかし、長く感じるか、短く感じるか、
時間の長さの感覚は、実に、人それぞれ、


「時間」の質に関係するのかもしれません。

交流分析に、「時間の構造化」という理論があります。

「時間の構造化」は、ストローク(心の栄養)の理論を元に、構築されています。


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心の栄養・成長の元を、「ストローク」(交流分析用語)といいます。


人は、

水や空気や食物が必要なのと同じように、

心身の成長に、ストロークを必要とし、

ストロークを求めやまない性質があり、

その時間と知恵と行動の、目的は、「ストローク」であると、考えると、

「人生」や「時間」を整理して考えやすくなります。

---

ストロークとは、交流分析では、「存在認知」という意味で、
肉体的には、水や空気や食物が必要不可欠なように、
精神的に、必要不可欠な刺激、のことです。

心理学的な用語で言えば、刺激と反応の一往復の単位。


解りやすく言うと

「アクション」と「リアクション」
「行動」と「結果」
「働きかけ」と「報酬」

のような、ペアのやり取りのこと。

「リアクション」「結果」「報酬」などを得ることで、
自分の存在証明(存在認知)を確認できる
自分を感じることができる、

自分の存在を確認できることが、人の成長に必要なもので、
「生きる」という方向性では、
無意識レベルの動機や目的と言い換えることができます。


子供の頃は誰でもかまって欲しいし、誉めて欲しい。
存在を認めて欲しい。
必要な、注目が得られないとき、
悪いことしてまで、注目を浴びたい・・。

これ、キレイな水が無ければ、泥水でも呑むのと同じ、
人間が欲して止まない必要不可欠なものの一つが ストロークという訳です。


リターンとしての、「リアクション」や「結果」や「報酬」ばかりを
目的としがちですが、

ストローク経済の法則」があり、

ストロークは、更なるストロークを産み、
正のストロークには正のストロークが循環しやすく、
また、環境やタイミングや影響力の作用で効力の時差も生じることから、

アクション、リアクションは、「卵が先か?鶏が先か?」
と同じ価値感なります。
だから、対で「心の栄養・ストローク」という訳です。


ストロークには、正(栄養)と負(毒)もあり、

言葉、態度、モノ、お金、評価、感覚、など様々な形態でもあり、

対象(相手)は、他者だけでなく、自分、環境、自然、時間、未来、など、

精神の発達レベルや洞察範囲によって、理解や認知の対象が増えてゆきます。


自分でOKストロークを、自分に与えることができる(自尊)と、
精神的な自律が可能になります。

発達心理学でいう、アイデンティティーの確立(概ね20才程度)の
発達課題にあたります。

心の栄養ストロークについては、
過去のweblogを参照してください。

kizuki-ya-k.hatenablog.com

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「時間の構造化」理論での、「時間の使い方」は、

以下の6つに分類できます。

交流分析の言葉の定義や、独特の用語は、日常用語と混乱する部分も多いので、
今回は、なるべく、解りやすく、私の言葉に置き換えて、解説に努めたいと思います。
(カッコに、交流分析用語を残します)


時間の使い方の種類は、

1)「自分メンテナンス」(引きこもり、閉鎖)
2)「ルーティーン」(儀式)
3)「社交」(社交)
4)「活動」(活動)
5)「不毛な関係」(ゲーム)
6)「本音の交流」(親密)


個々に解説すると、


1)「自分メンテナンス」(引きこもり、閉鎖)

 自分と対話している時間。 自分で自分にストロークを与える状態。

 たとえば、ほーっとしたり、睡眠したり、
 趣味をしたり、自己メンテナンス時間。


 ※ リターンとしての、心の栄養価量(ストローク刺激量)は、
 他の時間に比べて少ないが 確実に安全に得ることができる。

 心の栄養価の質(ストローク刺激質)は、自分で選択できる。
 

2)「ルーティーン」(儀式)

 形式的、習慣的な他者とのストローク
 挨拶や、朝礼、ペットのえさやり、など

 ※ リターンとしての、心の栄養価量(ストローク刺激量)は、
 1)に比べて優位だが、6種の中では、5番目で、
 3,4,5,6)に比べて少ない。
 
 習慣的に得ることができる。予測できる。
 心の栄養価の質(ストローク刺激質)は、習慣の質による。


3)「社交」

 表層の情報交換。
 形式的なストローク交換。
 ルーティン(儀式)とは違い、場所やタイミングは固定されていない。
 様子伺い。仮面(ペルソナ)・肩書き・表層的。
 関係の発展性は、あまりない。

 ※ リターンとしての、心の栄養価量(ストローク刺激量)は並。
 1)2)に比べて優位だが、6種の中では、4番目。

 心の栄養価の質(ストローク刺激質)は、仮面や立場・肩書きによる部分も大きい。


4)「活動」

 目標や任務などの、具体的成果を得るためのストローク交換の交流
 
 ※ リターンとしての、心の栄養価量(ストローク刺激量)はやや高い。
 6種の中では、3番目だが、具体的で正当な成果に対しては、効率的。

 心の栄養価の質(ストローク刺激質)は、
 具体的で正当な成果を得ることができるため、
 活動量と、成果の妥当性の考慮をすれば、質の選択が可能。


5)「不毛な関係」(ゲーム)

 繰り返し起こる、人間関係のトラブルパターン。
 裏面の交流。
 駆け引き、暴力、略奪や嫉妬、悲劇的な関係。
 依存症、共依存関係。上下支配。淋しがり。
 「思いやり」という思い込みによる裏面の他人コントロール
 他者の時間と、ストロークを奪う様なもの。

 ※ リターンとしての、心の栄養価量(ストローク刺激量)は高く強烈。
 ストロークの刺激量は強いが毒素も強い。
 6種の中では、2番目だが、建設的な結果にならない。

 心の栄養価の質(ストローク刺激質)は、不毛な結果に終わり、
 建設的な結果にならない。
 激痛で強烈な場合が多い。時間ムダ使い。
 
 不快なゲーム関係(交流分析用語)のレベルもあり、
 a) ブラックユーモアのようなものもあれば、
 b)社会的に人に言えないレベルのもの(いじめ・不倫・二股など)や、
 c)詐欺、犯罪や殺人レベルのものもある。
 
 最終的に、無念さ、虚無感を、お互いに味わうが、
 自分の影響力や存在感を強烈に 刺激的に味わうことができる。
 

 「不毛な関係」を見分けるキーワードは、

 「繰り返し」、「犠牲者」「救援者」「迫害者」、「役割スイッチ」、
 「正義感」「罪悪感」のラケット感情を持っている人は、カモになりやすい。


 大抵の人の場合は、行動範例となる見本があり、
 無意識的に、衝動的に、心の穴を埋める方法として、
 習性的に、不毛なやり取りで自分の存在を確認しようとする場合が多い。


6)「本音の交流」(親密)

 心のふれ合いを目的としたストローク交換、交流。
 立場にとらわれることなく、対等に、本音で、気持ちや感情の話ができる交流。

 本音は、防衛心や虚栄心が強い人にとっては、
 一見傷つくことも多い様に、思えるかもしれないが、

 嘘がないという部分は、信頼ができ、安心の基盤となる。
 
 本音の交流には、
 I am OK, You are OK.(私は私でOK、あなたはあなたでOK)の構えが基盤になり、
 比較するのではなく、平等を主張するのでもなく、
 違いを認め合い、尊重し合える関係が必要なる。


 ※ リターンとしての、心の栄養価量(ストローク刺激量)は最も高い。
 共感の範囲を選ぶことで、部分的な、刺激量を得ることもできる。


 心の栄養価の質(ストローク刺激質)は、本音なので、本物。
 自分と他者の心理的な発達度に関わる部分はある。

 他者と自分を比べしまうときは、逆効果なので、影響を受けすぎないよう、
 距離をとれる距離感も大事になる。

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6つの時間を、自分はどのように使っているだろうか?


時間の使い方の、分布をグラフにするワークをすると、解りやすいです。

 

私の場合は、

自分の「時間」の使い方(=人生)を 見直す切っ掛けになりました。

 

私の場合は、以前も、今も、「活動」が多いです。仕事好き。

好きなことを仕事にしているのもあり、
以前も、今も、活動に一番時間を使っています。

以前と、今の違いは、
「活動」時間には、明確な「成果・報酬」を意識するようになりました。


目的を明確にすることで、

「活動」の人間関係が、「不毛な関係」(ゲーム)にならずにすむようになりました。


あとは、「本音の交流」を増やせたら満足感があるのかもしれませんが、
相手にも限りがありますから・・。

 

「本音」と「表層」のリターンは意識するようになりました。

 

他者の影響を受けやすい私は、

自分が自分でいるために、

「自分メンテナンス」(引きこもり、閉鎖)に、
時間を使う必要性を感じています。

何と言っても、「不毛な関係」は、
早く気づいて、極力、関わらないようにするようになりました。


「時間の使い方」を変えると、人間関係も変わります。

時間を構築すると、人生の構築にもなる、という仕組みです。

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「時間」は、有限で、限りがあるので、時に選択をすることになります。

これもまた、人生の選択というなのだと思います。

人生は、自分で選択できる、という交流分析の指針です。

 
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人生の終わりについて、考えることがありました。

哲学やいろいろで、死を意識してきた自分の死生観は、
死を忌み嫌ったり、怖がったり、意識してこなかった人からすると、
同調なきフラットに感じるかもしれません。

実際に、死に向き合う場面の方には、
辛さや複雑な感情を、刺激してしまう側面もあるかもしれません。

死について、哲学するのは、
実社会ではデリゲート(忌み)なことなのかもしれません。

しかし、「人生」や「生きる」ということを考えるとき、
区切りであったり、相対にある「死」を意識するというのも、
必然であったりします。

全ての人に配慮できない部分があると思います。
もし訳ありません。

そして、改めて人生をふり返る機会をくれた友へ

感謝の気持ちです。ありがとう。

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「死ぬまでにやりたいこと」列記してみました。

以外と少なかったですし、
若い頃とあまり変わってなかった。

私は「仕事がしたい」ということも、よく解りました(笑)。

今の私は、以外と、必然な状態なのかもしません。
そう思ったとき、痛みや理解できなかった過去のつじつまが、

すーっと、繋がった気がしました。

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最近は、今期は、お仕事が毎週徹夜という状況だったのですが、
今週一段落したところです。

少しカラダも心もメンテナンスした方がよいなぁと、
感じていたりします。

また、どこかでお話しましょう!。

「ココロド」とは

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ココロド

「ココロド」について about The Kokolodo

「ココロド」について、あらためて

 


「ココロド」ってなに?

 ココロドは、私個人(黄月家_K)の心理やメンタル分野の活動側面、活動領域です。

 ココロド(心扉)には、自分のあり方や、どう生きるか、「本当の自分探し」を、カウンセリング心理学理論を応用して、自分発見をするために自分自身の心の扉とむきあう機会となることを望んでいます。


ココロド・ポリシー

 みんなひとり一人が、生きるチカラを持っています。そのチカラに気づいて、自分だけの素質をチカラに変えて活かしていく方法は、ココロ(心)の扉の向こう側にあります。
 ココロドがめざすところは、各々が、自分の素質を生かして活き活きと、自他共に活かしあえる、心づくりです。 本当の自分(の素質)を知って(気づき)、本来の自分を活かすことや、他者との違いに納得して、自分の個性を尊重することで(自己受容)、他者の個性の違いも尊重(他者受容)できるようになり、違う特性を利点として機会に応じて活かしあうことで、支え合える心を持つことをめざします。気づきの心や自他を認めあえる心は、新しい人間関係を築くことができ、これまでの生きづらさを、軽減することが可能になると思っています。

 


ココロドが したいこと

 ココロドは、自分を見つめ直したい方、本当の自分の探しや、 自分のアイデンティティーの確立や、環境や関係や生活の変化によるアイデンティティーの再構築の機会を、日常の出来事や、重たい気持ちに、心理学知識を応用する方法で、それぞれの生きるチカラを見出していただくための気づきの機会にしていただけることを目指します。


筆者 黄月家_K

 ココロドは、私個人(黄月家_K)の心理やメンタル分野の活動側面、活動領域です。私個人は、CGを始め多様でマルチな生業で、なかなか他者に理解されがたい部分を持っていますが、その基盤となているものに、「生きる」というテーマがあり、常に「愛あるもの」をつくりたい気持ちが私の主軸になっております。

 

「恋」と「胸の痛み」

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Wish © kizuki-ya k

 

「好き」という感覚が、「痛み」として、感じられるとき、

それを「恋」と確信する

という、感覚の覚えは、ありますか?


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今日のお題は、「恋」と「胸の痛み」


これは、恋が「病」であるという感覚と等しい。


ただの「好き」でなく、
ただただ、どうしようも無く、意識とは別のところで、
無性に惹かれてしまう、それを、「恋」というのではありませんか?


「恋」とは、つまり、
嗜好に近い、つまり、感覚の分野のモノ(ノ気)。

そして、「恋」が、「痛み」と関係しているのは、

それは、交流分析用語でいう「ラケット」
つまり、「第二感情」のようなものだから。


理論にしてしまうと、味も色気もないけれど、


過去(子供の頃)の、自尊心を曲げた気持ちや体験
たとえば、「我慢」や、「自分を曲げる」、
「心に反した立場や役目を受け入れる」体験、

いわば、それは、子供の無邪気さにとって、
外部の(相手の気持ち)の想像が未発達の年齢の時代には、

思い通りにいかない、「苦痛のトラウマ」であったり、

人間や生き方についての、「自由を失うような体験」であったり、

解釈のできない「理不尽」のまま、呑み込んだ「煮え湯」の「痛み」や
「もだえ」の感覚であったりする。


自分をムリに曲げて、外部に従うことで、社会に適応した体験。
これが、「根底(トラウマ)の痛み」

 
根底の「痛み」の感情に対して、
その別の形の再現感情を「第二感情」と捉える。

「ラケット」というのは、第一(根底)と、第二(打ち返し)の
感情の内容が、同じで無くて、「反応・打ち返し」であったりすることに因果する。


--

本来、人は、「痛み」や「苦痛」に気付くと、
「調整」しようと試みたりする。

自己回復力さえ、発揮することもできる。


にも関わらず、自己回復機能に反して、「痛み」「苦痛」に、引きつけれるのは・・。


その「痛み」が、それで良かったのだと想うことで、
自分の「痛みの伴った体験」を正答化(OK)するために、
人は、あえて、自らの「痛み(自虐)」を繰り返そうとする。

というのが、交流分析の、ラケット感情やゲーム理論の解釈。

インナーチャイルド理論の、お世話役とお世話され役の解釈も同じ。

恋愛依存症の、理論は、「見捨てられ不安」のインナーチャイルド理論が根底。


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つまり、


「恋」が「痛み」と関連しているのは、

「恋」に、トラウマが関連してるからと言える。

 


そして、「恋」が「病」の所以は、

正気なら、


本来は、人は「痛み」や「苦痛」を調整するために、機能を発揮するが、


「恋」に関しては、「痛み」に惹かれて、
自己調整機能を麻痺させてしまうから、と言える。

 

 

その「痛み」に、基づいた人生の適応イメージ(人生脚本:交流分析用語)が、
無意識レベルで、求める感覚。

 

それは、自分の「人生イメージ(適応)のカケラ」に他ならならない。

適応したものが「痛み」であれば、
人は「痛み」で、「自分の存在を確かめる」ということになるのかもしれない。

 

これを、「負」の「人生脚本」という。


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人生の適応イメージ = 人生脚本(交流分析用語)


一般的な脚本の構成と同様に、脚本を構成する装置がある。

一般的な脚本の構成と同様に、アンチテーゼも内包している。


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私個人、

最近、もの凄く心聴かれる、感覚に惹かれている。

それは、まぁ・・「曲」であり「歌詞」であり、
結局はそれを作る「人」がいるわけだけど。

その「痛み(自滅的)」と、自分の「根底の痛み」がリンクしてまう。


エンタメの好き嫌いは、概ね「自己投影」できるか否かの部分があって、

「自己投影」と、気付いていれば、発展的に、解釈できる。

 

惹かれる部分が「痛み(自滅的)」だったとするなら、
確かに「病」な要素はあるのかもしれない、

負の人生イメージを持っている方は、特に、「衝動」には、注意を払いたい。

「衝動」こそ、負の人生イメージにプログラムされた、

「負」の「人生脚本」の執行に他ならない。


本当は「自由」選択する「自由」は、いつでもある。
自分の人生は、「自分で選択できる」

「選択できる」自分がいる。
「選択できる」自分を養ってきた今がある。
「選択できる」自分の選択を信じる選択をできる、

そんな自分でありたい。

 

「負」は「行動」するか否かが、大きな境目


「負」は、「気づく」ことに、「大いなる意味」が派生する。


「行動」でなく、「気づき」の体験を有効利用することで、

人生イメージを 広げる切っ掛けになる。


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逆に「痛み」が恐いから、

「トキメキ」や「感覚」ごと、封印してしまうのも・・ありがち。

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人は、負の感情の存在や「痛み」の存在を認めることを
無意識にさけがち。

「自分の弱さ」に見えてしまうから。


本当は「負の感情」は、意味があって、

気付くことが大事なのに。


誰でも「負」は観たくないし、言いたくないし、気付かぬふりをしている。


「負の感情」は、行動してしまうと負になるけど、

「気づき」の段階では「発見の元(宝の入り口)」なんですけどね。


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随筆しながら・・気づく。


これは・・自分(私)自身ですね。

見える世界はすべて自己投影(笑)のなすこと(苦笑)。

 

私にとって、エンタメは、ご褒美なんですね。

頑張っている自分を愛しましょう・・。自分へのご褒美を!。

 

私への私からのご褒美は、エンタメを感じる 自由、暇です(笑)。

 

そのエンタメが、「痛み」だっとしても・・
そのエンタメに「恋のような魅惑」を感じてしまったとしても・・

ここまで書いて、自分の「抵抗」に気付きました。
私は、「痛み」に向き合うことに、躊躇していたのですね・・(笑)。


自分の感覚を信じましょう!(と、私自身に言っている)。

---

 

本来、自分のことは、自分が一番知っている。

自分のがんばりに、自分へご褒美を与えるとしたら、

あなたへのご褒美は・・何ですか?

 

変化と「出会いの交差」

人は、思いの外、
他人の影響を受けている。

しかし、人は弱いが故に、
人と共に生きる、外的・内的構造になっている。


だからこそ、
自分を維持しながら、他者(外界)と接する。

自他のバランスを調整することが、
成長であり、自律性の確立条件であったり、するのだと思います。


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今日のお題は「出会いの交差」


ここ数ヶ月の出会いで、いろいろことを思いました。
そして、自分の考えが変わりつつあることを、感じます。


それは、ある意味、否定的な要素を含んでしまうけど、
「変わる」という要素には、ある意味、

段階として、「否定的な感覚」は、
あっても「良い」のではないかと思うのです。


「否定」は、極力したくない、というのが、
近頃の私だった気がします。

「I'm OK. You're OK.」(交流分析語録)

を常に意識しているからだと思います。

 

しかし、「否定」しないということは、
他者のコントロール(求められる)が、
自分の意志と違う場合は、
「違うと伝える」ことが必要になります。


往々にして、他者依存傾向が強い方は、
それを、「否定された」と捉えがちなので、
言葉や場面が難しい。


それでも、「否定」と捕らわれたとしても、
伝えることが、自分と他人の境界(バウンダリー)を維持すること
なわけで、

つまり、自分確保、自分の自律性、のために、
「必要なこと」なわけです。


今年、その「否定」を覚える(感じる)やり取りに違和感を感じたこと。

自分が「否定」を避けるがために、
片足を沼に引きづられそうになった出来事で、

いろいろなことを思いました。


それは、自分は思いの外、「独り」ではないということであり、
人のアドバイスや、人の助けで、泥沼に填まりすぎないで、
回帰できた気がします。

人は、自分のことは、自分で見えにくいですからね・・。


それは、「感謝」とともに、心が痛くて、
心が熱くなる感情でもありました。


なんでも、「独り」でやりきる私、からの、
変わりめだったのかもしれません。

---

自分が自分でありながら、

思って、行動して、それが何かしら他者に影響する。


一時期、自分は「透明人間」になりたいと思っていた時期があります。
自分の影響を他者に及ぼしたくないと思ったからです。

「自己表現が恐い」という感覚だと思います。

自分のせいで、他者を変えたくない。


私の感覚は、少し変わっているようで、
自分の感覚を「否定」されないために、
自分を出さないという選択をしたのかもしれません。


そう思っているうちに、自分を表現するすることが、
しづらくなっていたと感じます。

自己表現が恐い時期があった。


--
私の内側には「異物感」があります。

私は「異物?」「異人?」「異端」。


交流分析療法の、人生脚本的に理解するなら、
おそらく、「存在の禁止」や「仲間入りの禁止」という
トラウマがあるのかもしれません。


プロファイル的、理屈は、パターンを変えるための知識として役にたつけれど、
逆に、脚本に捕らわれすぎてしまう、要素にも成りかねないなって、
思う出会いがあった。


「脚本に捕られている」なぁと、
他人を見て思ってしまったのが、
この夏の気づきのきっかけだったと思います。
(これもまた、出会い)


「人生脚本」は、まんまの脚本と、反脚本の2種。

本当の「自由」とは、「脚本フリー」。


「脚本フリー」とは、脚本通りでも良いし、脚本に反しても良い。
その時々で良い。
パターン化していないことが、「脚本フリー」。

つまり、「意外性」にこそ、「出口」になるということなのかもしれません。

 ---

本当に、自分の素質を活かすということは、


つまり、私は「異物」「異人」「異端」で良い。
むしろ、その、利点を活かせる、

自分に自信を持てる方が大事。

自分は、「異端」で良い、
「異端」で良いと思える自分になれば良いわけです。

「ふつう」にならなくても、良いんです。


だって、私の人生は「ふつう」になるような、
組み合わせではなかったんだよね・・・。

どんなに もがいても「ふつう」にはなれない自分がいるんだよね。


「ふつう」になれない自分だから、
「ふつう」の人には理解されない自分だから、
「独り」で何でもできるように、
自分は「独りだ」と自分に言い聞かせて踏ん張って生きてきた。


人を求めず、人を頼らず、人に屈せずも、
それでも、人を尊重しながら、
「独り」でありながら、出来る範囲で共存を願った。


それが、今ふり返る、私

なんとなく、変わり目を感じる

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エンタメって、不思議。

生き方が変わるような、作品との出会いが、時々あります。


作者の意図とは違うところで、
視聴者は、いろいろな自己投影をして、影響をうける。

それが、エンタメという刺激。
それでも、そこには、意味がないようで、
それでも、意味を見出すことは、受け取る方の内部の作用だから、
そこは自由に感じたいし、感じて、影響されてよいと思いたい。


今回は、

まふまふ氏の「ひともどき」という作品との出会いが、
私にとっての、変わり目と交差(出会い)となりました。

生き方が変わるぐらいの衝撃だった。

最初から、一気にもの凄い印象の情報の音とイメージが流れ込んできた。

もちろん、それは、自己投影と分化が難しいので、
体験を伝えることは難しい。

けど・・。


【MV】ひともどき/まふまふ

自分の中に流れ込んで広がった音とイメージと、
誰のものか分からない感情と、
今の自分が、混ざって、
生まれた感覚は、

「異端の自分で生きよう」ってことだった。

まふさんの音と出会えてよかった。ありがとう。
まふさんが生きてくれてよかった。ありがとう。

---

人(人の作品も含む)に、影響を受ける生き物。

人は、思いの外、
他人の影響を受けている。

それでいい。

そう思える、自分に、変化しているんだなぁと、
思うこの頃です。

読んでくださって、ありがとうございます。
みなさんの、存在に感謝です!。