ココロド_黄月家K's weblog

考えすぎ? ココロド_心理カウンセラー_黄月家Kの 思考いろいろ、ものづくり、カウンセリング心理学、時々庭、時々日記です。

「恋」と「胸の痛み」

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Wish © kizuki-ya k

 

「好き」という感覚が、「痛み」として、感じられるとき、

それを「恋」と確信する

という、感覚の覚えは、ありますか?


---


今日のお題は、「恋」と「胸の痛み」


これは、恋が「病」であるという感覚と等しい。


ただの「好き」でなく、
ただただ、どうしようも無く、意識とは別のところで、
無性に惹かれてしまう、それを、「恋」というのではありませんか?


「恋」とは、つまり、
嗜好に近い、つまり、感覚の分野のモノ(ノ気)。

そして、「恋」が、「痛み」と関係しているのは、

それは、交流分析用語でいう「ラケット」
つまり、「第二感情」のようなものだから。


理論にしてしまうと、味も色気もないけれど、


過去(子供の頃)の、自尊心を曲げた気持ちや体験
たとえば、「我慢」や、「自分を曲げる」、
「心に反した立場や役目を受け入れる」体験、

いわば、それは、子供の無邪気さにとって、
外部の(相手の気持ち)の想像が未発達の年齢の時代には、

思い通りにいかない、「苦痛のトラウマ」であったり、

人間や生き方についての、「自由を失うような体験」であったり、

解釈のできない「理不尽」のまま、呑み込んだ「煮え湯」の「痛み」や
「もだえ」の感覚であったりする。


自分をムリに曲げて、外部に従うことで、社会に適応した体験。
これが、「根底(トラウマ)の痛み」

 
根底の「痛み」の感情に対して、
その別の形の再現感情を「第二感情」と捉える。

「ラケット」というのは、第一(根底)と、第二(打ち返し)の
感情の内容が、同じで無くて、「反応・打ち返し」であったりすることに因果する。


--

本来、人は、「痛み」や「苦痛」に気付くと、
「調整」しようと試みたりする。

自己回復力さえ、発揮することもできる。


にも関わらず、自己回復機能に反して、「痛み」「苦痛」に、引きつけれるのは・・。


その「痛み」が、それで良かったのだと想うことで、
自分の「痛みの伴った体験」を正答化(OK)するために、
人は、あえて、自らの「痛み(自虐)」を繰り返そうとする。

というのが、交流分析の、ラケット感情やゲーム理論の解釈。

インナーチャイルド理論の、お世話役とお世話され役の解釈も同じ。

恋愛依存症の、理論は、「見捨てられ不安」のインナーチャイルド理論が根底。


---

つまり、


「恋」が「痛み」と関連しているのは、

「恋」に、トラウマが関連してるからと言える。

 


そして、「恋」が「病」の所以は、

正気なら、


本来は、人は「痛み」や「苦痛」を調整するために、機能を発揮するが、


「恋」に関しては、「痛み」に惹かれて、
自己調整機能を麻痺させてしまうから、と言える。

 

 

その「痛み」に、基づいた人生の適応イメージ(人生脚本:交流分析用語)が、
無意識レベルで、求める感覚。

 

それは、自分の「人生イメージ(適応)のカケラ」に他ならならない。

適応したものが「痛み」であれば、
人は「痛み」で、「自分の存在を確かめる」ということになるのかもしれない。

 

これを、「負」の「人生脚本」という。


---

人生の適応イメージ = 人生脚本(交流分析用語)


一般的な脚本の構成と同様に、脚本を構成する装置がある。

一般的な脚本の構成と同様に、アンチテーゼも内包している。


---

私個人、

最近、もの凄く心聴かれる、感覚に惹かれている。

それは、まぁ・・「曲」であり「歌詞」であり、
結局はそれを作る「人」がいるわけだけど。

その「痛み(自滅的)」と、自分の「根底の痛み」がリンクしてまう。


エンタメの好き嫌いは、概ね「自己投影」できるか否かの部分があって、

「自己投影」と、気付いていれば、発展的に、解釈できる。

 

惹かれる部分が「痛み(自滅的)」だったとするなら、
確かに「病」な要素はあるのかもしれない、

負の人生イメージを持っている方は、特に、「衝動」には、注意を払いたい。

「衝動」こそ、負の人生イメージにプログラムされた、

「負」の「人生脚本」の執行に他ならない。


本当は「自由」選択する「自由」は、いつでもある。
自分の人生は、「自分で選択できる」

「選択できる」自分がいる。
「選択できる」自分を養ってきた今がある。
「選択できる」自分の選択を信じる選択をできる、

そんな自分でありたい。

 

「負」は「行動」するか否かが、大きな境目


「負」は、「気づく」ことに、「大いなる意味」が派生する。


「行動」でなく、「気づき」の体験を有効利用することで、

人生イメージを 広げる切っ掛けになる。


---

逆に「痛み」が恐いから、

「トキメキ」や「感覚」ごと、封印してしまうのも・・ありがち。

--

人は、負の感情の存在や「痛み」の存在を認めることを
無意識にさけがち。

「自分の弱さ」に見えてしまうから。


本当は「負の感情」は、意味があって、

気付くことが大事なのに。


誰でも「負」は観たくないし、言いたくないし、気付かぬふりをしている。


「負の感情」は、行動してしまうと負になるけど、

「気づき」の段階では「発見の元(宝の入り口)」なんですけどね。


---

随筆しながら・・気づく。


これは・・自分(私)自身ですね。

見える世界はすべて自己投影(笑)のなすこと(苦笑)。

 

私にとって、エンタメは、ご褒美なんですね。

頑張っている自分を愛しましょう・・。自分へのご褒美を!。

 

私への私からのご褒美は、エンタメを感じる 自由、暇です(笑)。

 

そのエンタメが、「痛み」だっとしても・・
そのエンタメに「恋のような魅惑」を感じてしまったとしても・・

ここまで書いて、自分の「抵抗」に気付きました。
私は、「痛み」に向き合うことに、躊躇していたのですね・・(笑)。


自分の感覚を信じましょう!(と、私自身に言っている)。

---

 

本来、自分のことは、自分が一番知っている。

自分のがんばりに、自分へご褒美を与えるとしたら、

あなたへのご褒美は・・何ですか?

 

変化と「出会いの交差」

人は、思いの外、
他人の影響を受けている。

しかし、人は弱いが故に、
人と共に生きる、外的・内的構造になっている。


だからこそ、
自分を維持しながら、他者(外界)と接する。

自他のバランスを調整することが、
成長であり、自律性の確立条件であったり、するのだと思います。


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今日のお題は「出会いの交差」


ここ数ヶ月の出会いで、いろいろことを思いました。
そして、自分の考えが変わりつつあることを、感じます。


それは、ある意味、否定的な要素を含んでしまうけど、
「変わる」という要素には、ある意味、

段階として、「否定的な感覚」は、
あっても「良い」のではないかと思うのです。


「否定」は、極力したくない、というのが、
近頃の私だった気がします。

「I'm OK. You're OK.」(交流分析語録)

を常に意識しているからだと思います。

 

しかし、「否定」しないということは、
他者のコントロール(求められる)が、
自分の意志と違う場合は、
「違うと伝える」ことが必要になります。


往々にして、他者依存傾向が強い方は、
それを、「否定された」と捉えがちなので、
言葉や場面が難しい。


それでも、「否定」と捕らわれたとしても、
伝えることが、自分と他人の境界(バウンダリー)を維持すること
なわけで、

つまり、自分確保、自分の自律性、のために、
「必要なこと」なわけです。


今年、その「否定」を覚える(感じる)やり取りに違和感を感じたこと。

自分が「否定」を避けるがために、
片足を沼に引きづられそうになった出来事で、

いろいろなことを思いました。


それは、自分は思いの外、「独り」ではないということであり、
人のアドバイスや、人の助けで、泥沼に填まりすぎないで、
回帰できた気がします。

人は、自分のことは、自分で見えにくいですからね・・。


それは、「感謝」とともに、心が痛くて、
心が熱くなる感情でもありました。


なんでも、「独り」でやりきる私、からの、
変わりめだったのかもしれません。

---

自分が自分でありながら、

思って、行動して、それが何かしら他者に影響する。


一時期、自分は「透明人間」になりたいと思っていた時期があります。
自分の影響を他者に及ぼしたくないと思ったからです。

「自己表現が恐い」という感覚だと思います。

自分のせいで、他者を変えたくない。


私の感覚は、少し変わっているようで、
自分の感覚を「否定」されないために、
自分を出さないという選択をしたのかもしれません。


そう思っているうちに、自分を表現するすることが、
しづらくなっていたと感じます。

自己表現が恐い時期があった。


--
私の内側には「異物感」があります。

私は「異物?」「異人?」「異端」。


交流分析療法の、人生脚本的に理解するなら、
おそらく、「存在の禁止」や「仲間入りの禁止」という
トラウマがあるのかもしれません。


プロファイル的、理屈は、パターンを変えるための知識として役にたつけれど、
逆に、脚本に捕らわれすぎてしまう、要素にも成りかねないなって、
思う出会いがあった。


「脚本に捕られている」なぁと、
他人を見て思ってしまったのが、
この夏の気づきのきっかけだったと思います。
(これもまた、出会い)


「人生脚本」は、まんまの脚本と、反脚本の2種。

本当の「自由」とは、「脚本フリー」。


「脚本フリー」とは、脚本通りでも良いし、脚本に反しても良い。
その時々で良い。
パターン化していないことが、「脚本フリー」。

つまり、「意外性」にこそ、「出口」になるということなのかもしれません。

 ---

本当に、自分の素質を活かすということは、


つまり、私は「異物」「異人」「異端」で良い。
むしろ、その、利点を活かせる、

自分に自信を持てる方が大事。

自分は、「異端」で良い、
「異端」で良いと思える自分になれば良いわけです。

「ふつう」にならなくても、良いんです。


だって、私の人生は「ふつう」になるような、
組み合わせではなかったんだよね・・・。

どんなに もがいても「ふつう」にはなれない自分がいるんだよね。


「ふつう」になれない自分だから、
「ふつう」の人には理解されない自分だから、
「独り」で何でもできるように、
自分は「独りだ」と自分に言い聞かせて踏ん張って生きてきた。


人を求めず、人を頼らず、人に屈せずも、
それでも、人を尊重しながら、
「独り」でありながら、出来る範囲で共存を願った。


それが、今ふり返る、私

なんとなく、変わり目を感じる

---

エンタメって、不思議。

生き方が変わるような、作品との出会いが、時々あります。


作者の意図とは違うところで、
視聴者は、いろいろな自己投影をして、影響をうける。

それが、エンタメという刺激。
それでも、そこには、意味がないようで、
それでも、意味を見出すことは、受け取る方の内部の作用だから、
そこは自由に感じたいし、感じて、影響されてよいと思いたい。


今回は、

まふまふ氏の「ひともどき」という作品との出会いが、
私にとっての、変わり目と交差(出会い)となりました。

生き方が変わるぐらいの衝撃だった。

最初から、一気にもの凄い印象の情報の音とイメージが流れ込んできた。

もちろん、それは、自己投影と分化が難しいので、
体験を伝えることは難しい。

けど・・。


【MV】ひともどき/まふまふ

自分の中に流れ込んで広がった音とイメージと、
誰のものか分からない感情と、
今の自分が、混ざって、
生まれた感覚は、

「異端の自分で生きよう」ってことだった。

まふさんの音と出会えてよかった。ありがとう。
まふさんが生きてくれてよかった。ありがとう。

---

人(人の作品も含む)に、影響を受ける生き物。

人は、思いの外、
他人の影響を受けている。

それでいい。

そう思える、自分に、変化しているんだなぁと、
思うこの頃です。

読んでくださって、ありがとうございます。
みなさんの、存在に感謝です!。

「死に至る病」の出口

「もう疲れた 神様お願い、私を殺して」

と、何度も願った、頃が、過去にある。


-----


今日のお題は「死に至る病」の出口

 

今でも、油断(自己制御の範囲外)をすると、
そちらの方向に、心が向いてしまうので、
根源は、内部にまだある。


いつも、限界すれすれのところで、生きてる。
それは、自分の存在証明。


私が、私であることを、証明したい、ただその一心。


そして、張り詰めた糸が、切れそうな痛みに、いっそ切れてしまった方が、
楽になれるのにと、願ってしまっていた。
と思う。


キルケゴールの「死に至る病」であり、
現代の言葉に置き換えると、「ウツ状態」という奴です。


鬱病のメカニズムは、「脳の疲労」ですが、
「脳の疲労」に至るには、「身体の疲労」に沿わずに、
思考だけがぐるぐると働き続けることに因果します。

それは、
むなしい答えしか見つからない否定思考のループ(否定的自動思考)、
終わりも、成果もない思考のループと分類されます。

疲れてきっているので、自分で思考を停止させることも出来ない。

死に至る病」、私はこれを、大卒の卒業論文で「絶望」と読んだ。


現代では、その「死に至る病」のメカニズムが大部解明されつつある。


--

「鬱」という分野では、
「身体の疲労」→「脳の疲労」→思考や行動のパターン
 →「否定的自動思考」→「トラウマ」→「スキーマ

更に、交流分析では、
 →「幼年期の環境」
 →「親・養育者」の思考・行動・トラウマの影響
 → 代々受け継がれた価値感の影響
切りのない、根っこに、さらに、ウツが増すこともある。

 

1)軽度のウツならば、
「生活のリズム」を整えることで、改善が見込める。


2)思考の偏り(認知の歪み)が見られるウツは、
「認知再構成法」の心理カウンセリングで、改善が見込める。


3)「死」に惹かれる(吸い寄せられる)タイプの場合は、
 人生脚本(交流分析用語)に「存在の禁止令」を持っている場合が多い。

 

 どこかで、「自分は邪魔者」とか、「自分が居ない方が良い」と、
 思考が発達する以前(概ね10歳以下)などに、
 無意識の中に定着するようなトラウマを抱えていたりする。

 そして、概ね子供の頃のトラウマは、
「親のため息」は、「自分のせい」と思ってたり、
「お前でせいで・・」と言葉を浴びせられることもある。

 トラウマによる「禁止令」は、
 OK条件とセットで、行動タイプを作ってしまうことが多い。

 

 たとえば、「存在してはいけない」という無意識の思い込みを、
 回避する条件として、「人の役に立つ」という概念をセットで、
 人生脚本に組み込んでいる人は、

 「自分の存在の価値」を、「人の役に立つ」ことで、
 存在証明しようと生き、 自分の存在を消耗して、
「人の役に立つ」ことを証明しようとする行動パターンを 繰り返す。

 そして、「人の役に立つ」を否定された瞬間、自己消耗の方向で
「死」に向かう。


 「禁止令」と、禁止令の「回避条件」の組み合わせは、何通りもあり、
 自己のパターンとして、繰り返し強化されていく。


 自分で気付くことができれば、パターンは分析・解析可能で、

 自分で気付くことができれば、人生脚本を、生きやすい脚本に
 書き換えることが可能というのが、交流分析療法の心理カウンセリング。

 
 具体的には、「改善したい」という気持ちに従って、
 「禁止令」による人生の選択を、「禁止令」を解くことで、
 生きやすい人生脚本に書き換える。

たとえば、「存在の禁止」がかかっている場合は、
大抵、悲しい自分の「死」を漠然とイメージしていたりします。

あるいは、自分は「生きていてはいけない」と思ったりします。
あるいは、「ここに、居ていけない」と思ったりします。

「存在の禁止」を解くことは、

「生きていて良い」
「ここに居て良い」
「存在していいんだ!」

と、思えることであり、今後、
「生きる」「存在する」行動を、選ぶことで、あったりします。

そして、
「「生きる」「存在する」行動を選ぶこと」は、

自分の価値を、軽視する、他人や自分との交流から、
距離をとることでもあります。


---
ここまで、私自身、

(認定)交流分析療法師であり、学びつづけている中、

実は、結構限界を感じます。


禁止令や、スキーマの経緯を、自覚する工程で、
幼年期の存在や、親との関係をふり返る時、


このとき、心の痛みに絶えられない時、
痛みの全てを環境や親を憎んでしまう場合がある。

自分のトラウマを、認知することが、
養育者を悪に作り上げてしまったり、
歪んだ自分の言い訳を強化してしまったり、


痛みから抜け出せないもがきを
自分自身も含め、どうしようもなく、
ただただ・・見てきた。


この夏、思った。

 

「人生は変えようとすれば変えられる。」

だけど、もだえて変えるばかりではないのだと・・


実は、「分析」のもっと先の、
「どんぐりの・・」ジェームズ・ヒルマンの「魂のコード」
更に先の・・


出会いや、偶然の一致・・や・・


人は独りで生きているわけでなく・・
さまざまな偶然や必然がかさなって、

成り立っている、今の自分の存在・・・

悲しみも、痛みも、実績も・・。


流されるので無く、
流れに乗るような、感覚の切り替えができれば、

 

これから、どう生きるのか・・


波に耐えもだえなくても、
流れに自分を預けてみることができたら、


乗る流れを見極めることができれば・・・


より楽に、多くの人が、
この先、より多くの人が生きてゆけそうと、思い・思い出した。


痛みを知ったからこそ、
自分を信じられる、自分がある。


過去の嫌いな自分を、抱きしめながら、生きれる方法へ、
出口は、来る・・。

 

 

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自分喪失、「自分のカケラ」

サボテンの花が咲きました。

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サボテンの花

---

 

目的があって、頑張っていたはずなのに・・・
好きなことをやっているはずなのに・・・

なんだか、むなしい・・

楽しくもなく、悲しくもなく・・
感覚がにぶくなているような・・
何も感じない・・ような・・。

 

「本当の自分」を 何処かに置き忘れていませんか?


・ あ忘れ物、うっかり

・ 遅刻、寝坊、

・ 倦怠感、やる気が出ない

・ 身体が思い通りに動かない


そんなときは、「本当の自分」を忘れないで!のサインです!。


・ 無性に反抗したい

・ 言われた通りしたくない

・ 別のことがしたい自分がいる

こんな時は、速く「本当の自分」に気付いてやって欲しいタイミングです!。

 

---

ということで、

今日のお題は「本当に自分」

 

「本当の自分」といっても、

身体も、心も、行動も、どれも、「自分」に違いないので、
「嘘」の自分とか、「偽り」の自分がある訳じゃないです。

内面と、態度が意識的に分離してしまっている場合は、
「嘘」や、「偽り」と感じる自分の一面が、ある場合もありますが、

気づけていることは、素晴らしいです!。


気づく部分があるのなら、偽りの意味付けや割り切り、
あるいは、修復や方向転換の可能になるからです。


大抵の人は、疲れたり、悩みを抱えていると、視野が狭くなり、

自分のいろんな要素、

たとえば、一生懸命な自分、思いやる自分、考える自分、自分の感覚、弱い自分など、
が、偏ってしまっていることに気が付かない事があります。


「自分」と一言でいっても、

人間は、身体と心、思考と感覚、強さと弱さ、
大人っぽさ や 子供っぽさ など、

矛盾を内在しています。


「矛盾」があって当たり前、というのが、「人間っぽさ」であったりします。


ゆえに、人間は、迷いやすく、非合理な部分が多くあります。


だから、「悩んだり」、「考えたり」する経験が、
自分のアイデンティティを育てるわけですが、


現代人は、時間がないらしい。

 

時間をケチるということは、一見、合理性で、建設的のように思えるけれど、

経験や、考えるチカラ、悩みを抱える強さ、
痛みやダメージを癒やす回復の時間や機会をも、
同様にケチってしまうので、

現代人は、自分のことを考えるチカラの経験が少なく、
矛盾に弱く、痛みやダメージに弱く、
自分を癒やす前に、防衛と攻撃の違いすら微妙な場面も、見受けられます。

 

自分の中の、別の自分、
矛盾した自分に気付くことが、第一歩だったりします。

 

矛盾の大抵は、

頭ではわかっているんだけど・・の、理想や、学習している自分

VS

素の自分、自分の状態や感覚や、キモチ

の 板挟みだったりします。

 

それは、理想だったり、合理性だったり、結果・評価思考だったりする要素と、

VS

自分の生っぽさや、人間ぽさの要素だったりします。

 

一生懸命がんばり過ぎているときは、
頭や、思考に偏りがちになりますし、

偏りを通り過ぎると、
思考しても、身体が反対の状態になる・・
みたいな、自分の中が、バラバラの状態になってしまっている
ということになります。


だけど、意識は、思考や理想に偏っているから、
片方の、忘れている自分を認識できなかったりします。
「自分のカケラ」に気が付かないなんて・・思いたくもないから・・
思い込みと無意識が、更に、自分のカケラを 観ないように
柔軟性を欠いた自分の方へ、硬く偏ってしまいがちです。


取り残された「自分のカケラ」は、自分に見捨てられて悲しいね。


何処か、遠くで、さみしさや虚しさが自分を包むのは、

「自分のカケラ」を何処かに置き忘れているからなんですよ。


「本当の自分」とは、忘れがちで、受け入れがたい
矛盾し自分であったり、自分の弱さであることが、多いです。

 


人間は、構造上、矛盾を抱えやすい存在なのです。

弱くていい。
矛盾があっていい。
人間だもの。

ありのまま、ありのまま、
矛盾があるからこそ、方向転換もできる、可能性も広がる。
矛盾があるからこそ、考えられる。
弱さがあるからこそ、学習できる。
考えられる。


自分の中の、矛盾や弱さに気付いたら、

自分の別の部分で、見捨てず、見守り、寄り添い、
時にお世話労れることが、
自分を成長させるコツだったりしします。

 


--
どうしたら、自分のカケラを愛せるのか?。

 

自分で、自分のお世話ができるようになる。

そのために、自分の状態に目を向ける。

そのために、まず、「安全な場所、自分が居てもよい場所を確保」する。

自分を壊さなくても、愛されない自分でも、居て良い場所。

それは、時々、ひとりきりになれる場所であるかもしれないし、
想い出の場所であるかもしれないし、
誰も知らない、自分が出せる場所であるかもしれないし、
あるいは、シェルターや 
カウンセリングルームだったりするのかもしれないけれど、

自分の中の、傷ついた自分と一緒に入れる場所、
それが、安全な場所。

 

自分の状態に目を向ける。
自分の中のカケラの声を聴いてみよう。


自分も他人も同じだよ(対等)。


もしも、自分(他人)が 悲しんでいたら、優しくしてあげて。

もしも、自分(他人)が 泣いていたら、そばに居て抱きしめてあげて。

もしも、自分(他人)が 怒っていたら、話を聴いてあげて。

もしも、自分(他人)が 喜んでいたら、喜びを分かち合って。

もしも、自分(他人)が 迷っていたら、待ってあげて。


時間や成果では、得られないものが、
そこにあるから。

幸せや、幸福感は、時間や成果で得られるのは80%まで、
どうしても、足りない20%があるのなら、

それは・・

 

もう一人の、自分の中の
置き去りにされている「自分のカケラ」の存在だったりする。

 

 

自分の中の片割れが、愛されない自分なら、
自分が満たされる感覚は半分になってしまう。

自分の片割れが、本当に愛されたいのは、
自分自身なんだよね・・。


立派だから、愛する、愛されるわけでなく、
条件付の愛なんて・・本当の愛じゃなんだよ。

ただ、存在していることが、
そこに、存在していてくれること、
それ自体が愛なんだよ。


ま、私自身も、自分嫌いの王者で、
「自分のカケラ」を、自分で粉々に砕いてた時期もあったと思います。


それでも、こんな私が、
「自分のカケラ」を・・ま、抱きしめることは、なかなか難しいですが、
寄り添うことは、出来てきたのかなと・・
思うこの頃です。

人には、「本当の自分」大事にしてくださいね! と
言いつつ・・


自分は、まだ時々、忙しさにかまけて、
「自分のカケラ」を、何処かに忘れてしまうことも、まだまだあります。


でも、上手く行かないときは、
意図的に、「自分のカケラ」を探しに行きます。


こんな「カケラ」守ってやれるのは、私しかいないのだから・・(苦笑)。

(ちょっと、ディスりはいってるかも知れない言い方ですみません・・。)
(私も、無条件の愛を知らずに大人になった経緯がそうさせているのだろうと思います。)
(ま、このようなキズや痛んだ私も、私のカケラなのだから、
 痛んだ私も存在していて良いと思うことにします。)


以前、「本当に自分」と出会うことについて、
ワークをした事がありますが、

その時、一人の学生が言ってた・・「ほろ苦い」感じって。


人間って・・複雑やね・・(苦笑)。

 

 

地雷女!?、「嫌なやり取り」繰り返すパターンを見抜く

今日のテーマは、「嫌なやり取りを見抜く」


最近の「地雷メイク」とか、「地雷女」という言葉を耳にします。

地雷女とは、
“見た目はかわいいが関わると厄介な女性”

“地雷メイク”は、
地雷メイクは別名「病みメイク」ともいわれていて
泣きはらしたような赤い目元や血色感の無い肌、
真っ赤なリップなど病弱さを演出し病み感を出すのが特徴です。
なのだとか

参考 : 

「地雷メイク」ってなに?メイクからコーデまで地雷女になるためのHow toをご紹介|MINE(マイン)

地雷女とは? 地雷女の7つの特徴と見極め方。付き合ったら地獄!? | iVERY [ アイベリー ]

--

地雷女を、交流分析(TA心理療法)のエゴグラムので、分析解説すると、

泣きはらした目や口の赤と、対照的な血色のない病弱そうな肌は、
傷ついた子供の心

つまり
AC(Adapted Child 順応、傷ついた自分)が前面に出ている状態。

交流分析エゴグラムの、ACを、
インナーチャイルド理論に当てはめると、
同じく AC(アダルトチャイルド、傷ついた子供の側面)
になります。

「地雷女」の、実際に関わると「厄介な部分」とは、
前面は、フック、つまり、キャッチ(つかみ)の部分、

ACは、他者の、交流分析エゴグラムでいう、
NP(Nurturing Parent 優しさ)を刺激します。

前面のフックが、AC(かわいそうな子供)なので、
NP(優しいお世話人・優しい親心)心を刺激(誘引)するという
交流パターンが発生しがちです。

しかし、実際に関わると「厄介」と感じるのは、
見た目のか弱いACが、
実際には、自己中だったり、二面性が激しかったり、
コントロール的になったり、
他の、側面とスイッチングするから厄介ということになります。

これ、まさに、交流分析の「ゲーム(不毛な関係)」のパターンで、
解説できます。


--
自分の内部の、性格や傾向のバランスのこと、

交流分析(TA)のエゴグラム、構造分析(自我状態)について、
下記に、おさらいしておきます。


心の中を、交流のエネルギーの 3つ要素に分けて説明する理論です。


P = 親(Parent)
    上から目線的な思考や感覚、規則や信念、教え込まれた自分、定着した概念。

A = 大人(adult)
    思考・思案する。知識や観察による論理的なで柔軟な判断。中立的。科学的、客観性、対等な価値感。

C = 子供(Child)
    子供的な思考に寄らない部分、感覚的、想像性、無邪気さ、弱さや、従順、順応さ。

 

※ 現代日本文化と、交流分析用語の、連想が繋がりにくい用語が多いため、
  交流分析用語のままでなく、伝わりにくそうな言葉を、
  私なりに、解りやすく、変え伝えています。


さらに、Pと、Cの、相反する特徴を細分化して、5つの傾向に分けて解釈します。


CP(Critical Parent きびしさ)
    厳格で、過剰になれば批判的。上下関係的価値感。支配的。

CPが高いと、
否定的自動思考傾向が強い。
実は思考力、理解力が弱く、柔軟性に欠ける。
親子関係交流では、子供がACに陥り易い。
You are not OK(他者否定型)の構えと関係が深い。

NP(Nurturing Parent 優しさ)
思いやり、お世話傾向。協力上手。自己消耗。

NPが高いと、
強調性・共感性に優れ、人間関係を作りやすい。
「かわいそう」という上から目線の偏り。
    Aの思考力が低く、NPが過度に高すぎる場合は、自己犠牲、自己消耗に陥りやすく、
甘やかし傾向、他者の自己成長の機会を奪う。
共感性は高いが、実は、論理的思考力が弱い。
You are OKの構えとの関係が深い。

A (adult 論理的思考、考えるチカラ)
    知識や観察による論理的な判断、科学的、客観性、対等な価値感・検討。

Aが高いと、
合理的、建設的。能率的。思考力、理解力が高い。自律的。
経過や変化とともに、情報や判断が変わることができる柔軟性。
情や、関係性に左右される部分が他のパーソナリティーより少ないため、
あっさりと感じる。
中立・対等な関係のため、二分法思考(上下・優劣、強弱主義)の人には冷たいと思われがち。
I'm OK. You are OK.の構えとの関係が深い。

FC(Free Child 率直さ)
のびのび、自由、行動的、想像性、感覚的、楽しい、率直、無邪気、生まれたままの素質でOK

FCが高いと
想像力が豊か、行動的でエネルギッシュ、自己肯定感、自己能力開発、
共感性が高く、同調的。

Aが低くFC高すぎる場合は、
自己優先のわがまま。他人の権利を奪う場合は、自分勝手。
NPに保護・生成される部分が多く、NPの組み合わせの縁が深い。
    I am OK の構えとの関係が深い。

AC(Adapted Child 順応)
イイ子的、自己抑制、遠慮、従順、過適応、過順応、
人に合わせる、他人依存、自己卑下、自分がない、見捨てられ不安。

ACが高いと、
他人依存、自我アイデンティティー(自分とは何者か?)の確立が難しく、非自律的。
ACが高すぎて、限度(リミット)を来れると、逆ギレを起こすため、
ACの高さは、要注意。
ACが高すぎは、反抗・反逆傾向に傾く、RC(反抗する子ども)を派生する場合がある。
ACは、FCとの組み合わせで、増長・固定化・固着することが多い。
I am not OK の構えとの関係が深い。


--
参考webサイト:

エゴグラム無料診断のサイト

エゴグラム性格診断|心理テスト性格診断無料

ウィキペディア 交流分析

交流分析 - Wikipedia

 

--


交流分析に「ゲーム理論」という、嫌な気持ちになるやり取りのパターンを
解説した、理論があります。


交流分析の「ゲーム」は、楽しいものを意味していないので、
一般的に使われる「ゲーム」とは意味が違うこともあって、
私自身、とても、解りづらい理論だなぁと、感じています。


私なりに、言い換えれば、
自分か、他人を、嫌な気分におとしめるやり取りで、
繰り返すトラブルパターンのことです。


自分のトラブルをふり返ると、
いつも似たようなパターンがあることに気づくことありませんか?


たとえば、
いつも、自分は悪者、

いつも、人を責めてしまう。

いつも、役に立ちたいのにダメな自分を思い知る。

「いつも」、はまってしまう嫌な交流パターンのことを、
交流分析で「ゲーム」といいます。

--
交流分析の「ゲーム分析」について、
かかれている他のサイトを以下にあげておきます。

 

交流分析のゲームの分類とゲーム分析


--

 
言葉(交流分析用語)が、わかりにくいので、
交流分析の「ゲーム」を、このサイトでは、「不毛な交流」と言い換えることにします。
(大抵は「不快な交流」と説明する方もいます。)

なぜなら、
嫌な気持ち = 自分か、他人、または両者が、not OK で終わるので、
建設的な結果になりません。
交流分析の「ゲーム」のことを、「暇つぶし」と訳すのは、建設的な要素がない
という意味です。

 

「不毛な交流」の特徴は、


1)見せかけ(仮面)のストローク(やりとり・交流)で始まる
2)途中で役割が入れ替わる。
3)繰り返す


知識があれば、「不毛な交流」を見抜くことができます。


心理カウンセリングでは、

「いつも」
「繰り返し」
「逆ギレ」

などのキーワードが有るときは、
「不毛な交流(ゲーム)」パターンを疑います。


--

具体的なパターンは、沢山ありますが、


それらを、カープマン,Sの理論では、
人生脚本の中のドラマの配役のような解釈で、
下記の 3つの 役割(配役)として、とらえたました。

1)迫害者
2)犠牲者
3)救済者

「不毛な交流(ゲーム)は、の三つの役割(入り口)から始まり、
途中で役割が入れ替わるという解説です。

 

3つの役割を、私なりに
交流分析エゴグラムの5つの性格傾向に当てはめると、

1)迫害者 = CP(Critical Parent きびしさ、批判家)

2)犠牲者 = AC(Adapted Child 順応、傷ついた心)

3)救済者 = NP(Nurturing Parent 優しさ、お世話役)


性格傾向に当てはめて観ると、
つまり、
「不毛な交流(ゲーム)」に陥りやすいタイプは、

CPと、NPの、上から目線の人達と、
ACの、他人依存、
3つの顔が前面に出ている方々である、と考えることができます。

家族にありがちなことも、納得です。


CPは父性的、NPは母性的、
自律的思考の発達の機会を得られなかったC(Child)は、自律てきずにACになります。


「恋愛は、親子関係の未完の課題を満たすもの」
という恋愛依存の理論によれば、

恋愛で、
欲しかったNPを求めるか、
自分のnotOKの構えを、証明・確認するために、
CPを求めるかということになります。
(自分がダメであることで、子供として認めて貰えるという歪んだ感覚)


そして、
ACが、思考なしに、大人の役に転換すると、
CP(批判的)、NP(お世話)、に至りがちです。


--

人は、自分も含め、
ある程度、傾向の偏りがあるので、
だれでも、どんな人でも、
「不毛な交流(ゲーム)」のパターンを、いくつか持っていて、

無意識に、はまりやすいパターンがあります。


※関係者は、無意識なので、「はまる」という感覚がある気がします。

 

特に、相手に役割によって、誘発される場合がほどんどです。

 

しかし、自分の「不毛な交流(ゲーム)」パターンに気づく(知る)ことで、
意識的に、回避できます。

■--気づくサインは--

裏面です。

1)自分(相手)が、言葉と、行動が合わない。
2)自分(相手)が、あまのじゃく(自虐的・非建設的)と感じる
3)自分(相手)が、建て前の行動をしている。
4)本音で話ができない。
5)言えない。
6)聴かない。
7)一緒にいても、さみしい。むなしい。
8)執着・固着している。

 

もしも、「不毛な交流(ゲーム)」に、はまっているのでは?
と感じたなら、


■--脱出する方法--

1)物理的な距離をおく。
2)期待に応えなくてOK。
3)相手に影響されすぎないで、自分を守る。
4)自分の本音を、早いうちに伝える。
5)自分の考えを持つ。
6)自分と他人は違うと、割り切る。
7)上下関係にならず、上でも下でもない対等を維持する。
8)A(考えるチカラ)で対等に対応する。
9)相手を誉めて、対等に、自分も誉める。
10)自分を保てる距離感を保つ。

 

■--「不毛な交流(ゲーム)」体質から変わる方法--

1)いろいろなタイプの人と交流する。
2)自分の良さを探す(持つ)。
3)自分のこと(考えや気持ち)を伝える場所を持つ。
4)自分OKの範囲を作る。自分と他人の境界を作る。自分は自分。
5)自分のことは、自分で考える。
6)考えるチカラ(理論的もの)に触れる。
7)自分で自分を好きになる。
8)自分で自分のことを誉める。
9)自分のお世話は、自分でできる。

 

※ 結局のところ、

1)迫害者 = CP(Critical Parent きびしさ、批判家)
2)犠牲者 = AC(Adapted Child 順応、傷ついた心)
3)救済者 = NP(Nurturing Parent 優しさ、お世話役)

は、相手がいないと、役割が成り立たないという、
共依存(自律に至らない未発達な状態)な部分、
ということができます。

だからこそ、相手(他人)を巻き込みやすい反面、
自律的な、精神の成長の方向に、進めば、
おのずと、相手を必要としなくなる原理です。

自律性とは、
I'm OK. You are OK.(自分尊重、相手尊重の両立)で、
そのためには、お互いがOKである、境界と距離感が必要になります。

そして、そのためには、
その都度、状況や状態を、観察・把握、吟味・検討して、
柔軟にOKを出せる、Aの 「考えるチカラ」を養い、
影響を受け過ぎず、自分を守れる、自己信頼を、
持つことだったりします。

 

--

お話し長くなりました。

最後まで、読んでくださって、ありがとうございます!!。


感染症や、災害や・・
今、大変で、予想外のことが、沢山で、
経済優先? 何が大事?
どう生きていったら良いかさえ、迷うことも多いです。

 

大切なことは、

裏面では、おうおうにして、不毛な結果になることが多いです。

どうぞ、困難なときこそ、
自分の本当の、心の声に耳を傾けてあげてください。

私も、体力も、時間も、限界があり、
自分の無力さが悲しいと思います。

困難なときこそ、自分の心と会話しようと思っております。
ときに、自分を励まし、
ときに、自分と一緒に泣いて、
ときに、自分を抱きしめて。
ときに、自分の同志となって。

 

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関連する過去のweblog

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「人間関係を見抜く 3つ言葉」新しい距離感

今日のテーマは、「人間関係を見抜く言葉」

 

私は、私。 あなたは、あなた。

そんなふうに、お互いの違いを認めあって、
違う価値観を、認めあえるのは、

対等な関係と、
適切な境界(操作しない、されない距離感)が、必要です。

---

他人や、外部の影響を受けすぎているなぁと、思う時は、
少し、物理的な距離をとった方が良い場合がほとんどです。

新型コロナ感染症対策でよく使われる、
「社会的距離(Social distance)」という言葉、

心理学では、パーソナルスペース(personal-space)の3段階目、
影響を受けすぎず、相手と会話ができる距離(1.2 - 2 m)、のことです。


学校や職場が始まっても、
心の距離を、意識することで、
自分を守ることが、可能になります。

人を、見抜こう。人間関係を見抜こう。


私の場合は、子供の頃から人と距離の感覚が遠いので、
1m以上の距離を保つ方が、安心できます。
(ボケキャラですが、感覚が鋭い(HSP)ところがあるための
無意識の自己防衛かもしれません。)


誰でも、自分が不安定な時は、
他人を気にしすぎたり、他人のフォローやお世話が欲しくなったり、
しがちになります。


関係に、嫌な感覚が有るときは、要注意!。


不安定な状況が続く場合は、
他人との距離感が、曖昧な関係

つまり、
私とあなたは、同じ?、どちらが上?、どちらが優位?
あなたは、私の全て・・・、私はあなた? 私は誰? 、悪魔?、神?、
なんて、ところまで、対等性が崩れる時がありますね。


自己の不安定な状況から、自律するためは、
上げたり下げたりするのでなく、されるのでもなく、


自分を対等に扱ってくれる存在を持つことが、
心的安定(心的自律)への、大事な出会いになります。
本来は、友達だったり、心理カウンセラーだったりするのかもしれないけれど、

対等でない構えを持った、社会(学校・職場・家庭)環境を持ってしまうと、
精神の成長的な学びの環境が失われてしまう可能性があります。


影響を受けすぎない距離を取ろう!。
自分を取り戻そう!。


対等な人を、見抜けるようになろう!。


見抜く、コツは、簡単です。
「言葉使い」でわかります。


「ありがとう」
「ごめんなさい」
「お願いします。」

この3つ言葉、

この「3つの言葉」がある世界では、がんばれる。
この「3つの言葉」がない世界では、人は、嫌な気持ちになります。


なぜだと思います?


この「3つの言葉」は、人の価値に関わる言葉だと、私は思います。

つまり、「人の価値」の価値感は、「3つの言葉」で、見抜けるということです。

 

自分を取り戻す方法は、

1)「3つの言葉」を使う人と接する。
2)「3つの言葉」を使わない人と、距離をとる。
3)「3つの言葉」を自分自身が使う。


--

 

人と人の境界のことを、カウンセリング心理学では、
バウンダリー(境界)といいます。

人の価値を、対等に保つための、境界です。


境界を越えるときは、「お願いします。」
報酬として、「ありがとう。」が、大事です。

「お願いします」と、
「ありがとう」は、

人の価値に関わる言葉だから、大事なんだよね。


「お願いします」と、「ありがとう」を言えない人は、
人の価値を、対等に扱っていない人。


自分の価値を知っていれば命令ではなく、「お願いします」といえるでしょう。

「お願いします」は、バウンダリーを超える許可と、
自分の要望を適切に伝える言葉であったりする。

他人の価値を認めているのなら、「ごめんね」ではなく、
「ありがとう」と素直に感謝できるでしょう。


「お願いします」と、
「ありがとう」は、人の内面の価値感の目安でもある。

 

「すみません」は、
「私は違います」という意味です。

「要求にご希望に添えず、すみません」という、「境界」を示す言葉です。
「No」という、意味です。

---


--
がんばり屋、お世話ぐせのあなたへ

 

一生懸命がんばっているのに、

なぜ、私たちは幸せを感じられないのだと思う?

それは、自分が軽視されていると感じるからじゃないかな?
行動ぐせや過去の常識のための、我慢や自己犠牲は報われない。

我慢や自己犠牲は、ある程度は必要だけど、
必要以上にすれば、自分の中に、不満や恨みが生まれる。
自分の中に、不満や恨み、辛さを抱えていると、
人当たりがキツくなる。

自分の中の不満は、過度の我慢や自己犠牲が原因なんだよ。

話し合いに寄らない我慢や自己犠牲は、報酬がないので、
報われない。虚しさだけが、心に残ります。


自分自身を責めるか、我慢を強いた他人を責める結果に結びつく。

 

その我慢の報酬は何?

 

--

人間には限界がある。
人は、弱い。

だから、人は協力するように出来ている。
社会は、協力する時に、発展に転じる。


違う者が協力するためには、お互いの違いを、理解することが大事だし、
伝える合うことが大事。

 

誰でも、
子供の頃は未熟だし、成長は矛盾を産み、
矛盾の中で、自分はどう生きるか悩み、
それぞれの自分自身ができあがって来る。


素質も、環境も人それぞれだから、
自分も、他人も、人知れぞれ。

つまり、みんな違うということです。

それでも、みんな
自分をあきらめない限り、
自分の最良の道を選んで、生きている。


頑張って生きている自分も、尊重するし、
頑張って生きている他人も、尊重する


違う者同士を、尊重するということは、
違いを理解して、調整し合うということなのだと思う。

どちらかに合わせるということではないと思います。
上か下かでもない。


違いを理解しあうためには、
「伝える」ことが必要になってくるよね。

言葉選びは、大事になる。


「3つの言葉」で、人が解る。

 

--

「強くあれ」という人生脚本の対抗指令(思い込み)、
突き進む価値感が、私の中では存在していると思う。


自分の弱さを認めたら、自己の価値が崩壊するぐらいの価値感だ。


だけどね、
「過ぎたるは及ばざるがごとし」といいます。


「強い」「強くあれ」にも、
良く作用する部分と、悪く作用する部分があります。

良い範囲では良いのだけど、
自己犠牲や我慢は、過剰ということになります。

 

良いの範囲は、「ありがとう」と言われる範囲。
なぜなら、役にたっているとこうこと。

 

悪いの範囲は、「お願いします」が言えない時。
なぜなら、それは「強がり」で、結果的に、「我慢」や「自己犠牲」になってしまうから。


丁度良い「強い」は、年齢や経験や、身体や心の状態でも変わってくる。


もし、変わらない「強さ」の概念をもっているなら、
他人にも「強さ」を強要してしまっている。
あるいは、当たり前の「弱さ」を軽視・攻撃してしまう。
その「強さ」は、本当に、適切な「強さ」なのかな?


自分も、他者も我慢しすぎず、
両立するために、お互いを理解するために、
伝えるを、あきらめないで。


伝わらない時は、距離を取りましょう。
少し、休みましょう。


明日の自分自身を信じて。

--

---

生きて・・

 

--

自分が正しいことを証明したいために、
人を傷つけてしまう人へ


一生懸命のあなたはステキです。
がんばって来たことが、ステキです。
変化することは、あなたのがんばりの「否定」でなく、
更なる「成長」です?

こくこくと変わる環境や現状を、たんたんと理解することは、
過去のあなたの努力を「否定」するのでなく、
過去のあなたがあったからこそ、築ける成長です。

現実を理解することは、いささか、痛みも伴うことがありますが、
自分の別の側面を知ることも、自分を変えることも、
とても勇気がいることで、
いろいろ乗り越えて来た、あなただからこそ出来ること。
成長する時のきしみに驚くかもしれないけれど、
自分の成長するチカラを信じましょう。

過去の自分も、未来の自分も、
違う他人と、境界を明確にすることで、
あなた自身を守ることができます。
他人との境界が、共存できる成長するあなた自身のステキさを、引き立てます。

本当にステキな人は、他人を落とさなくても、
輝くのだから。

 

 

ピーターパンシンドローム、大人とは?

 今日のテーマは「大人とは?」


ピーターパンシンドロームって言葉があります。

Wikipediaによれば、
大人という年齢に達しているにもかかわらず
精神的に大人にならない人を指す言葉なのだそうです。

 

ここからは、私の見解ですが、
ネバーランドとは、迷子のいるところ、
迷子とは、大人になる(成長の)導きに
はぐれた子供を意味しているのではないかという気がします。

ピーターパンは、迷子の代表格。


そして、私自身も、迷子(幻のネバーランドの住民)のような気がします。

ちょっと前までは「私は永遠の迷子」と思えていた気がします。

私自身、子供の頃から目にして来た「大人」に、なる気がしない。

大人になりたいと思わない。

なぜななら、
「大人」というものに、良い印象を持っていないから。
見本になるようなステキな「大人」を、育って来た環境の中で見いだすことが出来なかったということだと思います。

むしろ、「大人」に対して、嫌悪すら持っていた時期があったと思います。

 

そういう私自身の歳は、既にいい中年の部類だとは自覚しております。


そこで、私の知っている「大人」の概念を折り下げてみます。


私の知っている「大人」は「嘘つき」でした。
私の知っている「大人」は「傲慢」でした。
私の知っている「大人」は「威力」そのものでした。

概念は経験から形成される部分が大きい。
経験は人それぞれだから、概念も人それぞれになる。
だから、他者と議論する前には、概念の違いを確認する必要がありますね。

 

おそらく、経験によっては、
「大人」に好意的な印象を持っている人もいるでしょう。
むしろ、そう思える環境が人間の成長には好条件なのかもしません。

「大人」を好意的に思うことが、人間の成長の道理に合っていて、
「大人」を好意的に思える人は、迷子(幻のネバーランドの住民)には
ならないのだろう思います。

 

迷子(幻のネバーランドの住民)の経験には、
道しるべのような「大人」の存在が、
いなかったのかもしれないと推測できます。


--

では、実際に「大人」とはなんでしょうか?


発達心理学的には、
自我アイデンティティーの確立、つまり、自律性の確立、
つまり、
自分の考えや判断を持ち、自分に責任を持って行動できる人が
成人ということになります。

TA(交流分析の心理学)で言うならば、
自分の内部構造の、子供の部分(チャイルド的な要素)と
秩序やルールや信念(親的な要素)の矛盾やバランスを、
状況把握をした上で状況に応じた時々のバランスを考慮できる
考えるチカラや判断力(アダルト=大人の要素)
のことを、アダルト=大人(教え込まれたものでないもの)と考えています。

 

後天的に、理論的思考ができる年齢(10才)以降に、徐々に発達する要素です。

 

最近は、
教育の場面で「考えるチカラ」が重視されるようになっていますが、

実際に、諸々の問題解決のためには、
利害や威力や欲求や、過去の常識に囚われすぎずに、
柔軟に「考えるチカラ」が必要になるからです。

その「考えるチカラ」を発揮するためには、
理論的に「伝えるチカラ」と、状況を「理解するチカラ」が
必要になってくるという方向性を持ちます。


このような心理学や発達心理学的の要素をベースに考えた上での、

「大人」の概念は、
1.)(他者や常識と自分を区別して自律的に)自分自身の考えを伝える事が出来て、
2.)(自分や常識と他者を区別して自律的に)他人や社会の状態を理解するリサーチ力があり、
3.)(常識と思い込みに囚われすぎずに柔軟に)調整することを試みる

以上の3つができる人間を、成熟した人間(=大人)と考えて良いのではないかと、
私自身は思います。

--

しかし、その3つができる「大人」って、現実的に居るのですか?
と考えると、実に少ない。と感じます。

アイデンティティーの確立」とは、
自分の確立ですが、
「自分自身を受容する」内的な作業の「結果」です。
(自分はこんな人・・という、自分を認めるという内的な作業になります。)

 

自己実現 = 自分自身の能力を発揮して、役立てることですが、
その大前提として、
自分を受容する(認める)気持ちが、
ベースになって、自分を発揮できる土台になります。
自己実現が、上の3.)の調整を試みる段階だとすると、
一説には、自己実現できている人はほんの一握り、0.5%程度なんだそうです。


そもそも、自分自身を認めない
I'm not OK 構え(自己卑下・自己嫌悪タイプ)に陥っている人の
多いこと多いこと。
(私自身の中でも、その構えが私の脚をいつもひっぱります。(苦笑)。)

 

自分にはできない、自分は役に立たないと思っている。
すぐにあきらめる。
自分の考えすら、伝えようとしない。
すぐあきらめる。

 

-----

私自身は、変わらなきゃと思います。

私のイメージの「大人」には、やはりなりたくない。

交流分析の人生脚本(シナリオ)理論を元に考えると、

 

私自身のシナリオのベースは、

見本(行動範例)の「否定形」のイメージだから、反脚本ですね。

 

私は、「嘘つき」にはなりたくない。
私は、「傲慢」にはなりたくない。
私は、「威力」に屈しない。


しかし、「否定形」は、自分自身ではないのです。

自分自身の確立とは言えない。


アイデンティティーの確立の前段階の、
反抗期と似ている。

それは、単に、反脚本に振れているだけ。


自分の心の言葉で、「肯定形」に直して言えたら、
それは、自分自身の言葉となる。

 

言い換えてみよう。

それでも、やっぱり、私は、

大人であろうとなかろうと、

私は自分自身に「素直」であろうと思う。
自分をだますことはしない。
自分自身が、自分のことを信頼できる人間であるために。
結果的に、人に嘘を言う必要はない。


「傲慢」とは、理解のない事態のことだと思う。
人を理解しよう、自分を伝えよう。
相手がどうであれ、伝える努力はしよう。

人の尊厳は平等。
大人であろうと、子供であろうと、男でも女でも。
自分も、他者もOKの関係を模索する。


私の知っている「大人」が、
私のことを、「子供」だと愚弄してもかまわない。

私は、「大人」であるまえに、
ひとりの「人間」として、成長していこうと思います。


「大人」であることなんて、どうでも良いです。
なぜなら、大人の概念は人それぞれ、
誰かの概念に合わせるのも、自分でないような気がする。


ピーターパンシンドロームは、
アイデンティティークライシス(反抗期の末の虚無感)であったり、
パーソナリティー障害傾向であるかもしれましんし、
適応障害の傾向である部分もあるのかもしれません。
それでも、成長の段階で多かれ少なかれ、迷い、通る道なのかもしれません。


それは、それで良い。


「私は誰?」を乗り越えて、


「私は私」と言える、私自身と、歩んでいければ、
私の、良き理解者である、内側の私自身と、
一緒に悩んで、問答しながら、
私の生きる道を、内部の私と一緒に模索しながら、
歩んでいけたらいいなぁと思う訳です。


内部の私を置き去りにしない。
私は私を無視しない。

自分を迷子にしない!。

 

あぁ・・また否定形になってるので、言いかけます。


私は私を理解して、自分を活かしていけるよう、
私は私を、理解しながら見守り、寄り添いつづけよう。
私は、私を信じる。
信じられる自分でいよう。


今は、そこまでしか見えないけれど。