ココロド_黄月家K's weblog

考えすぎ? ココロド_心理カウンセラー_黄月家Kの 思考いろいろ、心理分析、ものづくり、時々庭、時々日記です。

今の自分。「白内障」手術を終えて

2017年になりました。

以前つくった「ハートのはなし」という絵本の内容を
黄月家artsのHpにアップしました。1から7まで。

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心のお話しです。

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昨年の自分の一年を振り返って、漢字一文字に表すと「己」という漢字にでした。
昨年は、いろいろな変化もあり、いろんな意味で、
自分を見直す年となりました。

仕事して、育児して、家事して、勉強して
自分を見つめたり、自分を振り返る時間はほぼ皆無に等しく、
ここ10年ほどの時間が過ぎてきまして、
体も、心も、大変な状態だったのに、メンテナンスすらしていなかった・・
なんてことに・・気づいたり、
かつての自分と、環境の違う今の中で、
自分がどうあるべきか、自分自身を再構築の時期だと、気づいたり、
発達心理学的には、アイデンティティーの再構築の年頃)
そんなこんなで、自分をみつめる一年になった気がします。

今年は、相変わらず、やりたいことが沢山有ります。
心理カウンセリング分野、CG分野、アート分野、育児分野。
考えると楽しくやる気がみなぎる一方で、
そのための、稼働時間をどうするのか、なんて課題もあります。
一つづつ、積み上げて行きましょう。
私は、やりたいことは、やります!。
でも、今は内緒。カタチにしていくことで、表したいと想う次第です。

稼働時間は、ムリするという私の悪いクセを、変えてゆくために、
工夫が必要になります・・これが今年課題ですね・たぶん。
結局、体や心がまいってしまうと、
なかなか上手くいかなくなってしまうものなんですよね・・

わかっているんですけどね・・(苦笑)。
わかっているけど・・やってしまう・・というのが、「悪いクセ」。
いわゆる、否定的自動思考が隠れています。
「ダメ」という気持ちがどっかにある。
「認められたい」の裏側にも、「ダメ」という否定的自動思考が隠れていますね、
ダメと自分を評価しないために、頑張り過ぎる。
そのうち、体が心が悲鳴をあげていることすら気づかない状態になります。
私も、自分で気づけない状態だった気がします。

でも、ありがちですよ・・、
「24時間戦えますか!」なんて、CMのキャッチコピーがありましたね、
私も、そんな時代の仕事戦士だったから・・。

でも、今は、時代の知識も大事なことも変化してきている。
自分の心と体も変化している。
しみついた否定的自動思考を、再思考吟味して、
本当に行きたい方向へ、柔軟に、変わりましょう!。と、想います。
それでも、変わらないものがあるなら、それは、自己の本質、本当の私です。
ホンモノは、チカラ強い。それを、最大限活かしたらいい。

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年末に「白内障」の手術をしました。

白内障は、眼の水晶体が、本来は柔らかいアミノ酸でできている部分が、
結晶化してしまい、光が乱反射してしまい、
光が膨張してまぶしくなり、白っぽくかすんで見えたりする症状があります。

一度結晶化してしまうと、元に戻ることはなく、治療は、薬で進行を遅らせるか、
手術して、水晶体を人工レンズに交換するというのが、現状の治療にです。

白内障の原因は、老化や、紫外線や、ステロイドなどの薬など、
いろいろありますが、私は、どれもこれも、思い当たります。

若い頃はスキューバダイビングのインストラクターもやってましたから、
紫外線浴び浴びでしたし、
ここのところ身体にムリを続けてきたのもあるし、いろいろ老化もあるでしょう。
おまけに花粉症がひどく、病院で処方さたステロイドが入った目薬を
知識なく使っていましたから・・。

私の感覚だと、寝不足の時に、
眼がピキピキと結晶化して亀裂するような痛みがあったりしたし、
あとは、花粉症の目薬の後も、ピキピキ痛んだし、
プールや水道水で眼を塩素にさらした後も、ピキピキしました。
まぁ、寝不足や身体もムリが大きな原因のような気もします。

そうはいっても、年を取れば、
80才以上ではほぼ90%以上の人が白内障になるというくらい、
老化のポピュラーな症状でもあります。


しかも、CGや、アート、仕事で、眼が要ですし。
眼の変化には敏感でした。
最初、眼科に行ったときは、
眼科の医者も見逃して「ドライアイ」と診断されまして・・
早めの対処治療の時期を逃しました経緯があります。

白内障が進んで来るにつれて、一番不便に感じたのは、夕方や夜の車の運転。
まぶしいので、いろいろ見えないことがあります。
あとは、逆光での会話、逆光だと人の表情が全く見えませんでした。
どれも、映像制作では、情緒をつくるために、
わざわざ作り込みような視覚効果ですが、現実は情緒的でというより、不便です。
心理カウンセリング試験の時、昼間で逆光で、全く相手の表情が見えなくて、
気持ちがくめず、その時の試験は落ちました(苦笑)。

CGや、アートは、意外にも、あまり苦労はしませんでした。
色はそもそも、比較視覚ですし、デジタル上では数値化されているので、
デジタル化で、安定した色彩を、使う事ができましたし
RGBは、色認識もしやすい。
ただし、近くに窓や強い光があるとモニターが反射するので、
作業部屋のカーテンは遮光カーテンに変えて、
昼もカーテン閉めっぱなしになりましたけど。
CGで、とくに、不便を感じたコトはありませんでした。

日常で光に埋もれて、見えないものが増えていくのを感じて、
仕事で、眼が要という意識も有り、手術を受ける覚悟をしました。

左、右と、順番に数日おいて、手術しました。
手術をしてくださる先生は、直感で信頼出来る感覚があり、
不安もなく順調に終わりました。

先生は、手術中「頑張りましょうね」「私も頑張りますよ」なんて、
優しい口調で術中、ずっと声かけしてくださって、
本当に、丁寧で心のあたたまる感動がありました。
安心して手術を受かられたことに感謝です。

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それで、ここからが本当に書きたいことなんですが・・。

術後の眼、今までとは違いました。
私の場合は、術前の眼より、ものが小さく見えます。
片目だけ手術した時は、両方の見える大きさが違うので、
眼がとても疲れたし、ものの距離感が混乱したり、動作すると酔ったり。

視野の端、光が歪んでいて、少し明るくなり、光を吸収するカーブが見えたり、
視野の端が暗く見え、その部分から外側が、ものが2重に見えます。
しかも、それが、眼球を動かすたびに、チラチラと光を拡散します。

そいつの正体は、なんと
眼の中の、新しいレンズのエッジ。見えるんです。外側、120°ぐらい。

人工レンスが、人のアベレージサイズに作ってあるとすると、
レンズのエッジが見えてしまう人が時々まれに、いるらしい。
私は、まれな人・・らしい。
それで、判明したことは、
私は、アベレージ方よりも、これまでは視野が広かったのだっ。
という事実。
(術後の今となっては、レンズのエッジがあるので視野が広い利点はない)

正直、視野なんて、人と比べたことがないから、
なかなかそれをデータとして認知することは無かった。
だけど、想いおこせば、いろいろなことがあった。

私がスキューバダイビングのイントラの試験を受けたときのこと、
25年ほど前のことですが、
当時私の所属する協会は、プロ志向で、マイナーな協会で、
試験のコースディレクターは半数以上が沖縄の米軍基地の方。
昔のことですし、能力テストも兼ねていろんなやんちゃな取り組みがあって、
パニックの耐性や冷静な判断ができるかなどをチェッする為に、
背後から、空気タンクのバルブを閉められたり、
パニックになった生徒役の方(本当はコースディレクター)に、
無茶な動きをされたりなどなど、いろいろありました。

陸で、コースディレクターが、私の背後から、
やんちゃに、水をかけようとしたときに、
私は、影の動きを察知して、とっさに、避けました。、
「君は、後ろに眼があるのか!、すごいな!」と言われました。
その方は、元グリーンベレーの方。

そんな記憶が思い出されました。

そうそう、最近忘れてましたけど、
実は、私、以前は「気配」とか察知するタイプで、
感覚の鋭い人だった(過去形です)ことを思い出しました。

同じような、耳の話もあって、京都での学生時代、
音楽やっていたのですが、音はよく聞こえるのに、
人の話を、聞き間違いすることがあったりして、耳がおかしいのかな?と思って、
大学の保健室に相談にいって、聴力を検査してもらったら、
「むしろ、人より聞こえる周波数の範囲が広いですよ」と
言われたことも思い出しました。
(今は、年相応に聞こえなくなっている音もあるとおもいます。)

たぶん、嗅覚も同じように、においで気配を察知できた出来事が沢山あった。

つまり、標準?な人より、データ的には、
授受している情報量が、視野と、聴覚では多かったということになり、
それが、「気配の察知」の根底にあったのでは、と、
なんだか、妙に、納得できて、嬉しくも、自己受容できるような気がしました。

多くの人に解らない「気配」や、「違い」を解ることが、
今いる環境では、不気味だと言われたり、気味悪がられてり、
怖がられたり、嘘つき系におもわれたり、
でも、その解ることを、うまく説明、解説できなかったりして、

無闇に否定されることに、疲れて、

ここ数年は、人の解らないことを、解るということが、
自分を負にしているような気持ちにもなっていました。
ここ数年、音に耳を塞ぎ、ものに焦点をあわさず、
本来の自分を否定して、にぶいの人になろうとしていた、自分がいました。

自分の本質を、否定してしまっていた。
「察知」は、誰にも通じない、ことだった。
それは、私を孤独にしていた。
けど、自分の本質を否定するのは、自分を殺すのと同じでした。

でも、その原因がわかって、納得できた。なんかすっきりした。
人と違う、自分を認めてあげることが出来そうな気分です。

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新しい眼(人工レンズ)は、
医療の専門家の、すばらしい技術で開発された優れものなのだと思いますが、

やっぱり、人間の本当の眼は、精巧で、優れものだったと、失ってから感じます。

人工レンズは、とてもよく見えます。曇りもなく、色も深く美しい、
けど、ピントが固定なので、視力検査では、1.0でも、携帯メールの文字がみえない(笑)。
近くと、遠くを見るためには、メガネが欠かせません。

それに、今は、術後で、
まだ、眼の周りの筋肉が、焦点を合わせようと勝手に動作するから、
慣れるまでは、もの凄く、あちこち張って疲れます。

レンズの歪みや、レンズのエッヂの光のちらつきも、慣れてないので、
動作が伴う、視覚は、まだ酔ってしまいます。

そのうち慣れるといいなと思います。

けど、その代わり、眼をつむって、身体と脳をやすませるので、
しらないうちに、マインドフルネスが出来そう!。これは利点(笑)。
あと、眼をつむった世界が、
意外と、深くて心に優しい世界が広がっていたことにも気づきました。

たぶん、眼をつむれる世界って、安心できる世界なんでしょうね。

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みなさんには、どんな出来事があったでしょうか?
そこから、どんなことを感じたでしょうか?

そんなことを話したり、聴いたり出来る日が来るといいな、と思っております。

どうぞ、今を感じる機会がありますように。