ココロド_黄月家K's weblog

考えすぎ? ココロド_心理カウンセラー_黄月家Kの 思考いろいろ、心理分析、ものづくり、時々庭、時々日記です。

「思いやり」の「ホンモノ」

「思いやり」

今日のテーマは「思いやり」

「思いやり」には、「ニセモノ」と「本物」があります。

「思いやり」と聞いて、嫌な印象を持つ人は、
おそらく、ニセモノの「思いやり」、
押しつけや、見返りを目的として
他者コントロールとして、派生した「思いやり」が
身の回りに多い人なのでしょう、
と私は思います。

「思いやり」と聞いて、温かい印象を持つ人は、
心の伴った、行動や気持ちを受けとって、
心のチカラになった経験がある人、
と、私は察します。


たとえば、「手伝い」って、
本当に、手伝う対象のことを理解していないと、
逆に足手まといになります。
でも、気持ちがあれば、
理解しようという方に、言葉や行動が伴います。

やがて、

手伝う側と、手伝われる側ともに、
気持ちと結果が、結びます。

気持ちがあるということは、
カウンセリング心理学的には、
「感覚や身体」を見ていると解ります。

心が(ともなわ)ない人は、「感覚(感情)や身体」が、
考えや言動と、合わない状態「不統合な人格像」に陥っていると言えます。

知識優位、理想や規則、マニュアル(CP)優位になると、
「不統合な人格像」に陥りやすい状態となり、

自分の「感覚(感情)や身体」を、
軽視(ディスカウント=交流分析用語)して考えてしまいがちになり、

心と体が悲鳴を上げ初めても、気が付かないふりをして、
自分自身を壊していく傾向が増してしまいます。


「思いやり」って、なんだろう?


欲しいときに、丁度良い具合に、はまるものだよね。

それって、理解がベースあるから、丁度良いが解るわけだよね。

だから、「理解すること」なのだろう、
と私は思うのです。

自分が「手伝う」も、「手伝わない」も、
「やる」「やらない」も、「見守る」も、
対象にとって丁度良く、
自分にとっても無理のない可能な範囲であるからこそ、
それは「思いやり」として成立するのでは、ないだろうか?

「思いやり」が、「余計なお世話」の、思い込みの押しつけ
「思いやり」が、「やってやったのに」の、見返り共依存症
「思いやり」が、「もっともっと欲しい」の、依存症
「思いやり」が、「〇〇してくれない」共依存症候群←(欲求を伝える機能の未発達)

なぜ、「ありがとう」と心から感謝できないのだろう?

 

理解不足

↑ 観察力不全

↑ 考えるチカラの未発達

↑ コミュニケーション不全

↑ コミュニケーション力の未発達

という感じなのでしょう。


そもそも、

人の(身体に対して)精神の成長には、
「表現」が大事だということは、
憲法に書かれている通り。

人が人として(特に精神的部分が)、成長するためには、
コミュニケーションが不可欠、
だからこそ、「表現」が必要となる。
「表現」の原始的なものは赤ちゃんを見ていれば解りますが、
「不快」を「泣く」という行為で「表現」します。
もし、人間が、表現しなければ、何も伝わらず、
調整も出来ず、成長はおろか、「生きる」ということすら、
大変になります。

人の成長に「表現」が如何に大事か。
ましてや、精度が増す「調整」におちては、
更なる精度の「表現力」=コミュニケーション力が必要になると言えます。


だけど、最近の我々はどうでしょう?

コミュニケーション嫌いですよね。

何でだと思います?


みんな弱っているんじゃないかな?
みんな、コミュニケーションに参っちゃってるんじゃないかな?

ってことは、
質の悪い、コミュニケーション(表現)が沢山あるから、
コミュニケーション事態が、人の表現事態が、
嫌になりかけているのではないかな?

私は、自分の周りをみて、そんな風に思えた。


つまり、
「否定感」から、アンチ(否定の否定)に「肯定的」に
発想を切り返しますと、

「嫌なコミュニケーションは止めて、
良質のコミュニケーションを探せば良い」

ではないでしょうか?


「良質のコミュニケーション」を探しても、無いのなら、
自分で作り出せば良いではありませんか。

他力と自力の4WDで。
それが、自律ってやつな気がします。

一人では成立しなから、
やっぱり、上手く稼働するためには、
他力と自力の両方が、必要な気がします。

(他力の部分は、母学や、諸先輩方の教えも、
自分の中で、活きているんだなぁと、思います。)
自分も、他者も、活かす。これが、近頃の私のテーマのような気がしております。

 

では、
「良質のコミュニケーション」とは何か?


時々に、自分のコトを伝えることが、
相手にとって、一時的な打撃になることがあります。
どう解釈されるかは、特に、相手の思考ぐせに寄ります。

でるだけ、相手に都合が悪くないように伝えたいけど、
そうも行かない、お互いの利害が完全に合うことは、
なかなかないから、相手に不都合なことも、
伝え無ければならない場面があります。

つまり、「NOを伝える」こと。

「私は、違う意見を持っている」ということを、
伝えることが、必要な場面があります。


それは、「良」なの「悪」なの?


「良」「悪」の基準は、
価値感によるので、一概には判断は出来ない。
むしろ、メリットと、デメリットの両方を見えていることが、望ましい。
片側だけの視点では、「偏っている」思考に過ぎない。

だとすると、

「良」「悪」の基準は、
真実か、嘘か、の方が、解りやすい。

つまり、「ホンモノ」と「ニセモノ」。

真実なら、都合が悪くても、
受け入れざるを得ない。
嘘の上に、本物は建設できないよね。

嘘は、次の嘘を産む。
嘘は、信用できない。
嘘は、嘘の「思いやり」。


往々にして、
機能不全家族で育ってしまった人は、
NOと「言えない」
NOと「言わない」
ように、適応して育ちます。
自律的な意見を持つことが難しい状態です。


なぜなら、言えば、
「無関心(無視)」または、
「暴力的・威力的、理不尽的」に
出くわしてしまうからです。

(無関心と、暴力的な言動や行為をみると、
 コミュニケーション不全をおこす人格傾向が見えてきます。)
自分の傾向に、気づいているかいないかで、
その人がどんな人間関係を作っていくか、ある程度察することができます。


このように、負の連鎖を生むものを、
「悪質なコミュニケーション」と定義すると、

「良質なコミュニケーション」は、
正の連鎖を有無ものと定義できます。


正の連鎖とは、「心の栄養」になるもので、

 

「良質なコミュニケーション」は、つまり


交流分析用語で言えば、「心地よいストローク」と言えます。


ストロークについては、過去の記事を参照してください。
ストローク経済の法則で言えば、
「心地よいストローク」は良いストロークを産み、集まる。
ストロークが枯渇すれば、心も枯渇する。

水も、気も、お金も、ストロークも同じなのかもしれません。

 

私もふだん、
なるべく、「心地よいストローク」を創っていこうとしているけれど、
利害が合わないとき、「NO」な場面はある。

自分に無理をして、
自分を落として(I'm notOK)の立場で相手を持ち挙げるストロークも、ニセモノ。

他者比較の優劣の価値感で、
出口のない競争苦に陥っている世界の価値感に過ぎない。

やがて、自分か、他者のどちらかを滅して
終止符を打とうとする価値感に繋がります。

奪い合いとでもいいましょうか、
奪い合いに疲れたら、投げ出すという結末でしょうか。


自分を大事に、他者を大事に、
私もOK(これでいい)、他者もOK(それでいい)と自他を両立して、
時々、足りないところで助け合い、思いやって、
そこに、素直に感謝できて、感謝を伝えることができる、
そんな状態が、

「良質なコミュニケーション」なのだと
私は感じます。


人から奪わなくても、ケチな人から貰わなくても

ストロークは、自分の中にあるし、どんどん作り出せる。
自分がマイッてきたら、
自分自身に良質なターゲットストロークを与えたら良いんです。


ターゲットストロークとは、
丁度欲している、必要なストロークのこと。

休みたければ、自分に「休んでいいよ」と声をかけてやればいい。
泣きたいなら「泣いていいよ」と、
怒りがあるなら「なんで怒ってるの?」って、
自分を怖がらず、自分の話を聴いてやればいい。
誰も気づいてくれなっくても、
「自分、がんばっているね!」って、自分を認めてあげたらいいんです。

 

自分OK、他人OKを、知る過程で、
自分の足りない所を知る必要もあるでしょう。
自分の出来ないことを、他人が出来ることを知る必要もあるでしょう。

その時に、
他人を、少し尊敬して、
また、自分も、少し尊敬できる。

そんなことの積み重ねだと、私は思います。

「尊敬」というと、
服従」関係を思い浮かべてしまう人は、
上下の、人と比べる共依存社会に、適応しすぎてしまっていると感じます。

「尊敬」と「上下」と、「服従」は、それぞれ、独立して
考えたり、感じたりできることが、
「良質なコミュニケーション」のコツだと言えます。

そして、その精度も、もう少し、細かく
考えたり、感じたりできると、
更に、「豊かなコミュニケーション」が出来ると思います。

 

「思いやり」って?

 

「本物」と「ニセモノ」がありました。

「思いやり」とは「理解すること」でもありました。

「本物」とは、「真実」と捉えました。

「真実」とは、
「良い」「悪い」でなく、メリット・デメリットの両方を理解すること。

「尊敬」とは、「上下や服従」とは、独立しているものでした。

 

そして、私が、今日書きたかった内容は、

本物の「思いやり」とは、「プチ尊敬」なのだろう。

 

理解が伴って、本当の「思いやり」は成立する気がします。

理解するには、多少の「尊敬」が必要で、

たとえば、
「がんばっているなぁ」
「一生懸命だなぁ」
「応援してるよ」
「ステキだな!」
「もう少しだ」
「君の夢は素晴らしい」

みたいな気持ちが、理解から生じた気持ちが、
「思いやり」なんじゃないかな。

そんなことを思った、今日この頃でした。


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最近、子ども関係の学校説明会などに行く機会が多々ありまして、
現実の日本社会が、これからどうなってくのか、
子ども達が、大人になった頃、
この日本はどうんな時代になっているのかな?
なんて、データを、目にします。

自己犠牲を強いる日本社会の限界点、
海外との経済(心理)の成熟の違い。

子どもがいなくなり、企業がなくなっていく傾向にある日本、

自分の眼で、本当(真実)を観る勇気、大事なだぁと思います。

自分は何を貢献出来るか?と、欧米の大学入試では問われるらしいですが、
自分に何が出来るのか?、

自分の真実(メリットとデメリットの両方)を理解できるって、
素晴らしいと思う。
自分の活かし方を知っている人だと思う。


「21世紀は〇〇の時代」なんて言葉もよく聴きます。
〇〇に当てはまるものは、本当に多様だと思う。

多様だと、理解力も多様性が必要になるよね。
だけど、我々の理解力は、逆行している部分もあったり、
広がってる部分もあったり・・と感じたり。


コミュニケーションが負に傾いていると、
やっぱり、それが本当に「負」なのかどうか、
「ホンモノ」観る眼が育つ方へ、自分を向けることも必要かなと思いました。


私は、何が貢献出来るか? と考えますと、
やっぱり、私の哲学に、行き着きます。

「愛あるものを作る」という黄月家の方針に戻ります。

やっぱり、「作る」ことで「愛あるもの」であること、
それが、やっぱり、私の心がむく方向なのだと、確信するのでした(苦笑)。
私にも、得意不得意があります。
保守より、「作る」でチカラを発揮できます。
実際には、毎日の現実の日々をなんとかするのが、めいっぱいではありますが(笑)・・

着実に、昨年も今年も、少しづつですけど・
地域や子ども達が自分に自信がもてるようなことに役立つ方向で、
「つくる」に取り組んだつもりですし、
今も作っている最中でして・・
相変わらず・・バタバタと過ごしております。

全然、時間ないけど、
あふれてくる気持ちや言葉の整理がてら、
書いてしまいました。

また、みなさんの哲学、聴かせてください。