人は、思いの外、
他人の影響を受けている。
しかし、人は弱いが故に、
人と共に生きる、外的・内的構造になっている。
だからこそ、
自分を維持しながら、他者(外界)と接する。
自他のバランスを調整することが、
成長であり、自律性の確立条件であったり、するのだと思います。
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今日のお題は「出会いの交差」
ここ数ヶ月の出会いで、いろいろことを思いました。
そして、自分の考えが変わりつつあることを、感じます。
それは、ある意味、否定的な要素を含んでしまうけど、
「変わる」という要素には、ある意味、
段階として、「否定的な感覚」は、
あっても「良い」のではないかと思うのです。
「否定」は、極力したくない、というのが、
近頃の私だった気がします。
「I'm OK. You're OK.」(交流分析語録)
を常に意識しているからだと思います。
しかし、「否定」しないということは、
他者のコントロール(求められる)が、
自分の意志と違う場合は、
「違うと伝える」ことが必要になります。
往々にして、他者依存傾向が強い方は、
それを、「否定された」と捉えがちなので、
言葉や場面が難しい。
それでも、「否定」と捕らわれたとしても、
伝えることが、自分と他人の境界(バウンダリー)を維持すること
なわけで、
つまり、自分確保、自分の自律性、のために、
「必要なこと」なわけです。
今年、その「否定」を覚える(感じる)やり取りに違和感を感じたこと。
自分が「否定」を避けるがために、
片足を沼に引きづられそうになった出来事で、
いろいろなことを思いました。
それは、自分は思いの外、「独り」ではないということであり、
人のアドバイスや、人の助けで、泥沼に填まりすぎないで、
回帰できた気がします。
人は、自分のことは、自分で見えにくいですからね・・。
それは、「感謝」とともに、心が痛くて、
心が熱くなる感情でもありました。
なんでも、「独り」でやりきる私、からの、
変わりめだったのかもしれません。
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自分が自分でありながら、
思って、行動して、それが何かしら他者に影響する。
一時期、自分は「透明人間」になりたいと思っていた時期があります。
自分の影響を他者に及ぼしたくないと思ったからです。
「自己表現が恐い」という感覚だと思います。
自分のせいで、他者を変えたくない。
私の感覚は、少し変わっているようで、
自分の感覚を「否定」されないために、
自分を出さないという選択をしたのかもしれません。
そう思っているうちに、自分を表現するすることが、
しづらくなっていたと感じます。
自己表現が恐い時期があった。
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私の内側には「異物感」があります。
私は「異物?」「異人?」「異端」。
交流分析療法の、人生脚本的に理解するなら、
おそらく、「存在の禁止」や「仲間入りの禁止」という
トラウマがあるのかもしれません。
プロファイル的、理屈は、パターンを変えるための知識として役にたつけれど、
逆に、脚本に捕らわれすぎてしまう、要素にも成りかねないなって、
思う出会いがあった。
「脚本に捕られている」なぁと、
他人を見て思ってしまったのが、
この夏の気づきのきっかけだったと思います。
(これもまた、出会い)
「人生脚本」は、まんまの脚本と、反脚本の2種。
本当の「自由」とは、「脚本フリー」。
「脚本フリー」とは、脚本通りでも良いし、脚本に反しても良い。
その時々で良い。
パターン化していないことが、「脚本フリー」。
つまり、「意外性」にこそ、「出口」になるということなのかもしれません。
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本当に、自分の素質を活かすということは、
つまり、私は「異物」「異人」「異端」で良い。
むしろ、その、利点を活かせる、
自分に自信を持てる方が大事。
自分は、「異端」で良い、
「異端」で良いと思える自分になれば良いわけです。
「ふつう」にならなくても、良いんです。
だって、私の人生は「ふつう」になるような、
組み合わせではなかったんだよね・・・。
どんなに もがいても「ふつう」にはなれない自分がいるんだよね。
「ふつう」になれない自分だから、
「ふつう」の人には理解されない自分だから、
「独り」で何でもできるように、
自分は「独りだ」と自分に言い聞かせて踏ん張って生きてきた。
人を求めず、人を頼らず、人に屈せずも、
それでも、人を尊重しながら、
「独り」でありながら、出来る範囲で共存を願った。
それが、今ふり返る、私
なんとなく、変わり目を感じる
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エンタメって、不思議。
生き方が変わるような、作品との出会いが、時々あります。
作者の意図とは違うところで、
視聴者は、いろいろな自己投影をして、影響をうける。
それが、エンタメという刺激。
それでも、そこには、意味がないようで、
それでも、意味を見出すことは、受け取る方の内部の作用だから、
そこは自由に感じたいし、感じて、影響されてよいと思いたい。
今回は、
まふまふ氏の「ひともどき」という作品との出会いが、
私にとっての、変わり目と交差(出会い)となりました。
生き方が変わるぐらいの衝撃だった。
最初から、一気にもの凄い印象の情報の音とイメージが流れ込んできた。
もちろん、それは、自己投影と分化が難しいので、
体験を伝えることは難しい。
けど・・。
自分の中に流れ込んで広がった音とイメージと、
誰のものか分からない感情と、
今の自分が、混ざって、
生まれた感覚は、
「異端の自分で生きよう」ってことだった。
まふさんの音と出会えてよかった。ありがとう。
まふさんが生きてくれてよかった。ありがとう。
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人(人の作品も含む)に、影響を受ける生き物。
人は、思いの外、
他人の影響を受けている。
それでいい。
そう思える、自分に、変化しているんだなぁと、
思うこの頃です。
読んでくださって、ありがとうございます。
みなさんの、存在に感謝です!。