ココロド_黄月家K's weblog

考えすぎ? ココロド_心理カウンセラー_黄月家Kの 思考いろいろ、心理分析、ものづくり、時々庭、時々日記です。

イモムシ_ハンドブック、大人買い。

もう8月も半ばを過ぎてしまいました。
前回のweblogから、1ヶ月も空いてしまいましたぁ・・。

なにげに、なんとく、3冊大人買いしまいました本、

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イモムシハンドブック、3冊。
ハンドブックだけに、単行本ぐらいの大きさで、持ち運びしやすいサイズですが、
なかなかスゴイです。

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最初の方には、なんと・・・・実物大で、幼虫たちがぱっと比較しながら見られます。
なので、ささっと、調べたいいもむし、幼虫を、大きさも参考にしながら見つけることができるんです。
奇妙で奇抜なものもあったり、なじみのものもあったり、
美しいスタイルと模様に、生命の神秘すら感じます(笑)。
その後には、各々の幼虫の別の角度の写真や、成虫の姿や、サナギスタイルの姿や、生態解説や、毒の有無など、載っているのです。

前々回のwebliogで、野菜に付いてきた幼虫を思い切って育ててみたら、
キレイなモンシロチョウが羽化しました。

 

kizuki-ya-k.hatenablog.com

 野菜についてくるものや、庭やいろんなところで、いろんな幼虫を見かけて、
気になるのですが、成虫の姿が想像できないものがほとんどでした。
育てていくうちに、巨大になって恐ろしく感じたり、
蛾だったら、どうしよう?とか、有毒だったら?、有害虫だったらとか、
結構、きになったり、して、
その問題、この本で解決できそうです。うっふっふっ。
庭いじり好きの、私にとっては、世界が広がる楽しい本です(笑)。

 

イモムシハンドブック

イモムシハンドブック

 

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適度な雨で、東京多摩地方、暑さも少し、和らいだ気がします。
この季節、子育てもあり、私は、バタバタと過ごしております。

みなさま、どうぞ、良き夏をお過ごしください。

随筆_「感情」は、心の扉の鍵(キー)

もう日付が変わってしまいましたが・・
東京多摩地方、今日は、うてかわって、真夏の暑さ、嬉しいやら、暑いやらでした(苦笑)。

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庭の赤いユリ、後咲きで、ユリのweblogの時に載せそびれましたので、
遅ればせながら。これ、6/13。この色もキレイです。

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ちなみに、他の色のユリの花のwbliogは 

kizuki-ya-k.hatenablog.com

 

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「感情」は、心の扉の鍵(キー)なんです。

前回の髄質「「感情」がキーなんだって」で上手にまとめられなかったので、
改めて、書き直し。

思うに、

心=感情 では、ありません。
感情は、心の扉を開けるための鍵です。
心の扉が閉まっている時は、「感情」を見つけることが有効です。

しかし、「感情」は、鍵であるが、真意は心の方です。

「感情」とは、心の原動力なのだと思います。
感動は、感じて動くと書きますが、心が動く時は、感じることが必要なんだと、
私は思う訳です。

だから、
生き生きと、心身伴った本物の自分を生きるためには、
切り刻んで硬く小さくなってしまった心を、基にもどして、
社会の変化に伴って、心を身体とともに動かして行くことが、
必要なのだと思います。

そのために、

感じる心をとり戻す必要が生じる訳です。

しかし、もう、心がどこかわからない。なんてことも。

我々は、自分が先を生きてゆくために、
障害になり得る深すぎる「痛い心」を棺桶にしまって、
意識の外に葬って来た訳です。
心の一部をなくした、心は、バランスを崩しがちになります。
問題対応に弱点を持つのと同じです。
そうして、気がつけば、残った心の負担は大きく、
柔軟性がなくなり、小さく硬くなってしまうわけです。
もう、何も感じない。感情が見つからない。


いざ、感情のカケラを運良く拾ったとしても、

「感情」は、本物もあれば、偽物もあります。
本当は、悲しいのに、それを怒りでしか表現出来ない人もいれば、
痛みを笑いでしか表現できなくなってしまった人もいます。
その「感情」が深く存在の深遠に関われば関わるほど、
人は生きるために、それを無意識にゆがめてしまう。
それに、「感情」は、制御にはある程度の訓練が必要で、
爆発しても困るという不安もある。

それでも、そこの感情の本物を見極めて、

勇気を持って、心の扉を開けたとしても、
最初は、葬った痛みが勢いよく吹き出て来て困惑するでしょう。

自分が葬ったものは、まるでパンドラの箱
自分の見たくないものばかり、自分を壊してしまいそうなものばかり。

でも、その一つ一つと向き合って、受け止められたら、
箱の底には、希望が残っているのではないでしょうか?
それは、自分自身の心のカケラ。
自由になった、心。


つまり、「感情」とは、そういう、
適切であれば、「心の原動力」なのだと。

そして、この行程は、心理カウンセリング技術に沿っておこなえば、
パンドラの箱を開ける不安を軽減できるのかもしれません。
それが、カウンセリング技術なのかも・・と思うこの頃です。

 

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今日(すでに昨日)は、西川進さんのLive

西川 進☆やるときゃやるでっTOUR 2015!!
7月11日(土) 東京 KICHIJOJI SHUFFLE に行って来ました。

何を隠そう(隠してませんが)私はギターリストの西川進さんのファンです。
今日のLiveは本当に最高でした!!。
彼の音や曲は、「感情直結」で知られていますが、
今日、新曲を披露されまして、これ、またまた、度肝を抜かれました。凄いです。
どう凄いかって?。私の勝手な印象ですが、太陽に吠えろ!の、ジーパン刑事殉職のような衝撃でした。ドラマティックです。
機会がありましたら、是非。12日も同じ場所でLiveあります。
私も行きます。

http://nishikawasusumu.com/temp/tour2015/index.html

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いよいよ夏本番ですね。
みなさま、どうぞ良き夏をお過ごしください。

紋白蝶。随筆_「感情」がキーなんだって

七夕、東京多摩地方はあいにくの空模様でしたが、
願いごとは書きましたか?
え?私の願いごと?、ふっふっふっ(笑)、内緒です!。

頂いた野菜についていたアオムシを、育ててみましたら、
サナギになりまして、

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二週間ぐらい経った朝に羽化しましたら、モンシロチョウさんでした。
なにげに、黄金のオーラを感じます(笑)。きれいです。

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外に放ちました。蝶って、羽がお日様で暖まらないと羽ばたけないんでしたか?

しばらく・・植木にとまっていました。

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昼には、いなくなっていました。
羽ばたいたね!。きっと。

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今、カウンセリング心理学を勉強しているのですが、

心理カウンセリングでは、どうやら、
気持ち(感情)が、次のステップへのキーになるようです。


私の見解では

実社会では、おそらく、
感情よりも、理論や思考が必要な社会だと思われます。
多くの方と社会的関係を協調して(上手くやる)ためには、
それぞれのまちまちな主観で物事を捉えるより、
概念を定義して論理的に展開した方が、
説得力があり、多くの理解が可能で、利にかなっていて、
平等的で、合理的だからだと思われます。

なので、人に説明をする論文や報告書は、
個人の主観を抜いた客観的な論理を求められますし、
客観的論理を展開するよう訓練します。
私も、研究所のお仕事の時は、そのように文作を訓練した経緯があります。

対して「感情」とは、
「感情的な人間」といえば、
ちょっと昔は、情に厚い人という印象もあったようにも思いますが、
近頃では、感情制御が出来ないような印象もあったり、
客観視出来ない人みたいな印象もあったり、
「感受性が豊か」といえば、
ちょっと昔は、気持ちを察することが出来て優しい人という印象もありましたが、
近頃では、神経質で、難しい人みたいな印象もあったり、

偏見的かもしれませんが、
今の日本社会では合理性重視の傾向を感じます。
主観主張者より、客観論理者の方が、賢い印象があることも否めません。
「感情」軽視みたいな感覚でしょうか?

だけど、実際、
心豊かに生きてゆく場面では、
芸術や、音楽や、美術や、
心の領域で感じたりすることで、自分を救ったり、
自分を変えたり、成長させたり、
自分を表現したり、他人を理解したり、
心で包まれたり、心を包んだり、
心に寄り添ったりしている世界がある訳です。
気持ち「感情」は、適切に扱えば、意外とすばらしいものだったりする訳です。

心理カウンセリングでは、
合理性重視の今の社会とは
全く逆の価値観が存在している
というのが、私の今日の気づきです。
「感情」は、実は本物のカケラです。

まず、自己実現に向けて必要なことは、
自分を知るということ、
その上で、自分の活かし方を考察出来るようになり、
さらに、自分に応じた目標を設定できるようになり、
自己実現に歩むことが出来るようになる
と、今のところ、私は捉えています。

この最初の「自分を知る」という作業には、
自分の論理を知る以前に、
それが本当に本物の(心の伴った)自分の論理であるかどうか、
を確認する作業が必要なのだと思います。
その自己確認のキーが、気持ち(感情)な訳です。
なぜなら、人は、頭では論理を理解しても、
自分の心をだませない種の生物だからかもしれません。
そこに、矛盾があれば、やがて歪みが
いろんな問題として出てくるのではないでしょうか?

主観と客観、感情と思考、心と頭、という、一対の、
相対するものを持ち合わせた矛盾内在生物ともいいましょうか
それが、人間なのだと私は思うわけです。

そして、今の現代社会に感じるには、
多くの人間が、自分の感情を押し込めているということ、
その結果、感情の適切な扱いを知らない(習得していない)ということ、
多くの人が、本当の自分に気づいていないということ。
そして、
多くの人が、他人の気持ちを推し量るだけの感情経験を有していないということ。
もちろん、私もその一人です(笑)。

だから、まず、自分の気持ちを知りましょう。
そのために、自分の心に耳を寄せましょう。
と言う訳です。そのために、
セルフカウンセリングや、心理カウンセリングという技法があるのだと思います。

世の中は、結果指向になってしまっていて、
何かにつけ、結果を評価されるご時世だと感じる昨今ですが、
もちろん、結果は大事ですが、
心が伴ってない結果に、何の意味があるのでしょう?

基礎が出来ていない上積みの家のように、
何かの拍子で壊れて当然の状態という訳です。

これ、私のこれまでの価値観でいうところの、
本物か偽物かを、気持ちが伴っているか否かで感じていたことは、
全く、そういうことなのだと・・。
心や気持ちに着目して来た私の価値観は、
間違いではなかったと、思えた訳です。

ただ、偽物という概念は、ちょっと違ったのかもしれません。
本物になる可能性も内在している訳ですから。
これは、自己反省を含む今日の気づきです(笑)。
言い換えれば、未統合?、この表現も的確ですが気持ちは良くないですね。
更に言い換えれば、仮状態、とか、トライアルとか・・。
昔の言葉で言えば、青二才?
あ・・・ドツボにはまりそうです(涙)、すみません。

ってな感じで、まだまだ、内観続きます。

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まだもう少し、梅雨が続きそうですが、
どうぞ、良き7月のはじまりをお過ごしください。

カブトムシ48匹。梅雨の季節に見た夢分析

6月下旬になりまして、ここ5日ほど、
かぶと虫が、成虫になって、沢山出てきます。

この冬は、カブトムシの幼虫を48匹そだててました。
5月下旬頃から、部屋をつくって、どんどんサナギになりまして、
とうとう、めでたく、成虫まで、成長してくれました!!。

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こんな感じで、下4つのケースに、幼虫(サナギ)
上2つは、出てきた成虫用です。

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こんな感じで、わんさか、夜はガサガサ、ガサ

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飛び立とうとします。バタバタッ。

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元気すぎて、立ち歩きもします(笑)。

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最初に出てきたのはオスが多くて、
後半は、メスが多かったです。なんでかな?

さすがに、全部飼えないので、ご近所さんで里親を探しまして、
10家族ほどに、里親になっていただきました。
みなさま、本当に、ありがとうございます!。

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さて、

昨日の朝、変な夢を見ました。

なぜか、ヘビメタのバンドを組んで、
私は、ボーカルなのです。

(私は、学生時代バンドでボーカルを担当していましたので、
突飛押しもない夢というわけでもありません。
それに、最近、また、ヘビメタバンドしたいなんて話もお友達をちらほらありましたので、そんな影響もあるのだと自己分析できます。)

そして、なぜか、一回切りの最後のステージに立ちました。
たぶん、場所は、山梨の八ヶ岳のお店(バーボンハウス
たぶん、登場人物からすれば、私が学生の時にバイトしていた茶店のようです
(そこで、Liveもしたことあります。オーナーが音楽好きでしたので。)
でも、店の形は全然違いました。
なぜか、ちょっと高層ビルの一角っぽい。
(高層ビルは何を意味しているのかわかりませんが、
おそらく、東京砂漠の表現ですかね?、
ということは、今の私を意味しているような気も)

ステージで歌いました。
演奏や歌はまずまずなのに、
観客の反応がない。

すべてを歌い終えて・・
そして、誰も拍手もしてくれませんでした。

とても・・冷たい・・反応・・
妙な気持ちになり・・目が覚めました。

最近、いろいろと心がザワザワしていたんですが、
夢って、本当に、現実の自分とリンクしてるなぁと感じます。

最近の、ザワザワで、そのザワザワした状況を口に出してしまって、
落ち着いて考えてみると、とっても自分格好悪いなぁってなことを
沢山、口にだしていたことに気がつきまして、
それの格好悪い自分を、見つめれると、
今の自分は、人に対して恐怖心が、すっごいんだぁって、
格好悪さの正体に気づきました。

まぁ、いろいろあって、そうなっていたわけですが、
恐怖が先に立って、人のことなんて考えている余裕が全くなかったと
気づいたわけです。

あの、夢で、
夢を見た直後に、
なぜ、みんなが無反応だったかと反省の気持ちがわいてきまして、
夢の中の私は、歌を失敗しないことだけを考えていて、
MCもしないし、全く面白くなかったんです。

人のために歌ってなかった。
たぶん、自分のためにもなってなかった。

観客を楽しませるとか、一緒に楽しむという意識が全くなかったわけです。
だから、つまらない。

これって、傷ついて、心閉ざしてる、現実の私も同じ
そんな状態と同じだなぁってふと思った訳です。

最近、もう自分はパフォーマーにはなればいと感じていました。
もう、自分が表に立って歌ったり、演じたりはムリでしょって。
でも、裏だろうが、同じですね。

観客を楽しませる、観客と一緒に楽しむ自分がいなくては、
魅力あるものにはならないのかもしれませんね。と、

私は人に媚びることが、苦手です。
媚びて得たものを本物と思えないからです。

だけど、だからといって、全く人の立場で考慮しないというのも、
傲慢になってしまうのだと感じます。

本当は、人のためと、自分の表現とのバランスが、
大事なのかもしれません。

へんてこな夢は、私にそう言っていたんだと自己分析しました(笑)。

分析好きでスミマセン!(笑)。

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6月ももう少し、どうぞ良き6月の終わりを楽しんでください。

 

サナギ。 日記_自分の癖

今日は梅雨らしい天気ですね。

庭の虫、続き。
アゲハの幼虫、かわいいです。

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数日後には、サナギになっておりました。

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昨日、見たら、サナギが・・忽然と消えていたのです。
どうしたんだろう?

蝶になって飛び立っていったのか・・
そうだと良いのですが・・。

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昨日は、心理カウンセラーの講座で、カウンセリング演習をしまして、
自分の癖に気づき、痛かったです。

私、どうやら、人の言葉を自分の言葉に替えて解釈する癖があるのですが、

これ、成長期の途中の子どもには、有効でして、
なぜなら、いろいろなむやむやしたゴタゴタした話を、
「悲しいんだね」とか、「嬉しいんだね」とか、
「嫌な気持ちなんだね」とか、「怒っているんだね」とか、
言い換えてあげることで、
子ども自身が自分の状況を、解釈出来る機会になるといいますか、
そして、子ども自身が自分の気持ちを解釈できるようになると、
やがて、人の気持ちも解釈できようになると。
そんな、ふうに思ってるのですが、
相手が大人だとどうなんですかね?

答えは今はわかりませんが、そのことに、自分で違和感を感じました。
信頼関係が成立していない大人の場合、たぶん、
まず、そのままの自分を変えずに受け入れて欲しいのかもしれません。・・と。

なんで自分ってこうなんだろうと考えたのですが、
自分は、普通に言葉を返せないと解釈した時点で、
ものすごく、落ち込みましたし、
ものすごく、心や頭が痛くなったんです。

けど、その渦の底に、ありました。
別の解釈が・・。

たぶん、客観的な状況に言葉を置き換えるって作業や、
自分の言葉に置き換えるって作業は、
これって、訓練して来たよね・・って思い出しました。

その結果が今の私だった訳です。

これって、哲学者冥利に尽きますし、
作家冥利に尽きるよね・・(笑)・・って思えたら、
少し、心が楽になりました。
もっと、面白い、言い換えは出来ないかとか
・・昔・・考えてたこと思いだしました。

もうちょっと、作家的に装飾すれば、
今でも私を苦しめるトラウマ的な言葉は、
私にとっては「呪い」だったんですね。
みたいな・・
では、その「呪い」は、どうやったら解けると思いますか?
みたいな・・(笑)。

あぁ、自分、やっぱり、エンタメ好きなんじゃん(笑)。
って、思った次第です。

あとは、使い分けですかね・・相手や場面に応じて。たぶん。
乗り越えるには、その器用さが必要なのかもしれません。
これも、簡単じゃなさそうですが・・。

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それぞれに、どうぞ、良き明日が来ますように!。

我が家の虫。 随筆_「引退」、

いよいよ東京多摩地方、梅雨入りしまして、
昼は、なんとなく、蒸し暑いです。

我が家にいる、カブトムシの幼虫が、養生土の中で、
それぞれ部屋を作りはじめまして、色が変わってきました。
ただいま、さなぎ化中。48匹います。

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6月梅雨の時期に、サナギというのも、なんだか面白いです。
梅雨って、変化・変容の時期だったりして。

田舎の父が送ってくれた野菜についていた、かたつむり↓。
そのまま、飼育中。懐かしいですが、東京育ちの子どもには珍しいようです。
かわいいです。

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「引退」って

なんか、最近、頭の中をよぎりました。

「引退」については、
これって、葛藤渦中の人には、
とってもすごい複雑で答えを出しづらい問題なのだろうなぁと感じます。

たとえば、
「引退」することは、
これまで続けてきた努力を、打ち切るようなものであったり、
これまでの自分が積み上げてきたものを、壊してしまうようなものであったり、
これまでの、生活を全く変えることであったり、
これからの、展開にいくことが、本当に自分に適しているかわからないし、
でも、うすうす、体力や身体能力の限界を感じていたり、
維持に不安があったり、
老いを受け入れるという、哲学的で、難しい課題であったり、
いずれにしても、不安を何となく感じ始めていて、
いずれにしても、変革期であることに、違いないのでしょうけど、

一端、決めてしまうと、これまでの自分ともお別れしてしまうような・・
とっても、複雑な心境だと、感じます。

簡単じゃない。

最近、深く内観するようになって、近頃のweblogでも随筆しましたが、
なんだか、一般的にはネガティブな言葉が頭の中で、いろいろ出てきてました。
無理している人(インナーチャイルド)の「嫌悪」、
「死」というリミット的時間概念、
そして、今日は「引退」

ふと思うと、これ、私が私をがんじがらめに縛っていた思考的要素
なのではないかと、なんとなく、思えたのでした。

それに気づいたのだけでも、たいぶ、自由度を広げた気がします。

私は自分でいうのもなんですが、
本来は、器用なので、ある程度何でもこなします。
だから、器用貧乏になりがち、だからこそ、
あえて、細い細い、道を選んで極めたいと決めていました。
そういう気持ちで、幅を広げたところで、
それが、逆に、他者には高飛車的に思われたりしたのかもしれません。

そんな感じでしたが、
それで、私の結論としては、「引退」はしません。
だからと行って、精進・精進思考で、自分を縛り付けていた綱は
ほどいて良いのだと思うことにしました。

そういうストイックな技術も私なら、これも私だと。

ここ数年、自分に備わった内在力を殺して押し込めてきたように
思えて来てきました。不思議です。
逆転の発想力、想定外の想像力、敏感さ、
鋭すぎる洞察力と、リサーチに基づいた分析力。
人並み以上の向上心と忍耐力、没頭力。
実はどれもこれも、人一倍勉強して、
人一倍努力して習得して磨き上げてきたものだという気がします。
私は、痛いほどの、努力家です。
(本当は、努力なんて口にすること自体、的外れなのかもしれません。)
それでも、ここ数年、その努力は報われず、全部が裏目だった気がします。
その内在力を全部殺して、眼・耳・心をふさいでいた気がします。

そして、何より、
今再び、心理学の分野に踏み出した私の方が、
自分の内在力を、発揮出来る気がしている感覚があって、
自分が、こんな自分であることを、少し肯定できる気がしてきました。
自分は自分で居ていいんだと・・なんとなく思えるのですよ。
そう単純に、感覚だけで思うと、歩み出した方へシフトすれば良いとなりますが、

でも、それは、やっぱり、天にゆだねたいところです。
だから、ここで「引退」はしません。
ここで、結論を出さずとも、結果はおのずとやってくるものなのだとうと・・。

だって、私、これまで命がけで磨いて来た自分の技術や作る内容に
誇りを持っていますから。

あれも私。これも私なのですよ、きっと。

だから、両方、活かせるところが、あるのだろうと
いう気がするのです、何となく。

今日も、内観期つづいてます。

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黄月家K'sコラムリニューアルしました。
過去のコラム、随時、追加していきます。

黄月家K'sコラム

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天気も、雨有り、晴れ有りですが、タイミングを楽しみつつ、
みなさま、どうぞ、6月を楽しんでください。どうぞ、良き6月を!。

グーズベリージャム。 随筆_「信じる」とは?

庭のグーズベリー。(元々植栽で植えてあったもの。)
いい色になりましたので、

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今日、収穫しました。↓、結構な量が採れました。約700g

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結構おいしいので、またもやジャムにしようと思いまして、
フードプロセッサーで、ペイスト状になりました。
ジャムにした時、種や皮が結構、口に当たるので、
結構、細かくペーストにしました。

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ペイストは、練り梅ぐらいの堅さ、水分が少ないベリーです。
このままだと、飴のようなジャムになっちゃうので、
水をベースとの量の1/2足しまして、同量の砂糖と、レモン汁と加えて、
鍋でグツグツ。

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こんな風にまりました。

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過去のグーズベリーのジャムのweblogは、

 

kizuki-ya-k.hatenablog.com

 ついでですが、ミニトマトは今こんな感じ。↓

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ブドウも、こんな感じ。

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いつもの黄月家ギャラリー、リニューアルしました。
作品も若干追加公開しました。

黄月家ギャラリー“闇と光”

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「信じる」とは、
いったい何でしょう?

“「信じて」と言う人間ほど、信じてはいけない”
というのが、私のこれまでの人生経験から得た教訓です。

「信じて」と言う人ほど、不信に意識が有り、
それが弱点であるということを示すのかもしれません。
(もちろん、例外もあるのだと思いますが・・。)

「信じる」ということは、
「期待」と同義であってはならない。とも思っています。
期待を他者に押しつける人間ほど、
「信じてる・・信じてる」と口にするように思います。
そして、期待通りでなくなったとき、
「裏切り」だと口にするのだと思います。
これ、当該本人のことは何も考えてない一方的期待のズレから生じる問題で、
「信じる」とは何か? という疑問を余計に生み出してしまうように思えます。
「信じる」の反対語は「裏切り」ではありません。
「裏切り」という思考は、たぶん危険(問題)のサインです。

では、
「信じる」とは、いったい何でしょうか?

親は子どもが自ら育つ力があると「信じ」ればこそ、
過剰保護を抑制して、見守ることが出来るようになります。

先生と生徒の関係も同様、
社会のしくも同様、
そこに「信頼」があれば、
封建的な権力的圧力を用いなくても、みんなで成長し合えるよう、
自ら考えるて行動する力を発揮させることができます。

心理カウンセラーも、クライアントの内的力を信ずればこそ、
クライアント自らが、自己実現に向かって、
進んでいけるようになる状況を作ることができるのだと知りました。

「信じる」とはなんでしょう?
「信頼」とは何でしょう?

ふと気づけば、まぁ、ここ数年いろいろあって、
情報が過剰だったり、物騒な事件も多かったり、
情報が勝手に流出して、意図に反した領域で、不用意に拡散する時代だったり、
いろいろなこともあるのでしょうけど、

最近、私、人を信頼するってこと、なかなかなかったなぁと
気がつきました。
自分の気持ちや言葉を伝えることを躊躇したり、
自分の情報を知らせることをことを躊躇したり、
自分から働きかけをすることを躊躇してしまったり、
人の連絡先を聞くことも、躊躇してしまったり、
自分の話をすることはおろか、人の話を聞くことさえ、躊躇してしまったり、
人が自分を受け入れてくれるとも思ってなかったし、
自分が人を受け入れることも、出来なくなってた気がします。

心を閉じきっていた、と。

ま、知る人ぞ知るですが、そうなったには、紆余曲折あるわけですが・・。

心を閉じている状態というのは、つまり、
信頼のない状態なのかもしれません。
信ずるものがない状態なのかもしれません。
と、ふと思ったりしました。

では、いったい
「信じる」とは、いったい何でしょう?
「信頼」とは何でしょう?

思うにたぶん、それは、
相手が、ご自分の判断で自立しうる能力を有していると、
思うことなんだろうなぁ・・と、
何となく理論的にわかりかけたところです。

だから、私が思うことがあれば、適切な方法であれば話していいし、
それに、過剰に左右されない他者は、「信じる」に足る他者であり、
人が私に思うことがあれば、それを聞いても、私が無理に左右する必要はない、
それが、自立した信じるにたる関係なのだと思う訳です。
だからこそ、自分を出せる。他人の話を聞ける。
そういう信頼関係。

そういうことなのではないかと、
今週は考えた次第です。

自分の思うことが、人に影響するなんて、
恐れもありました。でも、それは思い上がりととらえることもできます。
人の言葉に傷つき、人を恐れていた部分もあります。
だけど、恐怖から逃れるあまり、暖かい太陽の届かぬところにいた気もします。

もっと、自分の言葉で話そうと、思った次第です。

他者が、他者でいられる自立した人間であると「信じる」ことは、
結局、他人を尊重していることなのだと思うのです。
他人を「信じない」ということは、つまり、
他人への尊重の欠如なのかもしれません。

そんな状態では、自分も尊重してもらえることも遠い。

紆余曲折あったにせよ、
心を閉ざし続けるということは、
他者を信頼できないのか、しないのかわかりませんが、
いずれにしても、そこに他者を尊敬し重んじる気持ちは生まれないのかしれません。
と、想い感じた今週でした。

とはいえ、まだ、理屈上の気づき、
実際には、バランスむずかしそうですが・・。

さて、来週はどんな週が待っているのでしょう?

内観期、まだまだつづきます。

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今年のこの季節、いつもとはちょっと違う予感がしているのは、
私だけでしょか?。

みなさま、どうぞ、良き6月をお過ごしください。