原宿のふくろうさん、すっごくふわふわ!。
清正井、心が透き通るぐらい、美しい透明感、スゴ過ぎです!。
相変わらず、余裕のない性分ですけど、近場で魅力的なところへちょこっと参りました。
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今日のお題は、「運命」
自分の運命は決められてると思うか?
自分の人生は、自分の選択によって変えていけると思うか?
「運命」が決まっていると思う人より、
「自分の選択で変わる」と思う人の方が、
自己実現の可能性が高いという話があります。
また、「運命」と「宿命」は違う、なんてお話しもよく聴きます。
「運命」vs「宿命」の場合の、
「運命」の意味は、自己選択結果としての巡り合わせによって運ばれてくるもので、
可変可能なの部分
「宿命」の意味は、生まれる前を含むベーシックな部分
たとえば、親とか家族の構成や生まれた時の状況など、既にあるモノ・コト
いかがですか?
「運命」って変えられるって、思えて来ましたか?
「運命」って言葉の響き、
否定的な環境にいた人にとっては、否定的なイメージがあるでしょうか?
それとも、「依存症的な王子様症候群」のように、
突然、他者(王子様や神様や何か?)のチカラによって
自分の運命を変えてくれる者を、
ずっと夢見る的なイメージもあるかもしれません。
「運命」ってどんなイメージを持っているでしょう?
私の学ぶ交流分析心理学の、エリック・バーンの言葉で言えば、
「過去と他人は変えられない、変えたいのなら自分を変えていく」
つまり、未来は自分次第で変えていけるわけです。
私の学ぶ交流分析心理学で、「人生脚本」という理論があります。
かなり要約すると、
自分が物心つく以前に自分のおかれる人間関係(環境)の中で、
「自分はこのように生きるのだろう」と漠然と無意識に刻んだイメージに従って、
生きているという理論です。
交流分析の新しい翻訳本がでまして、
訳監修の先生の講演会に行く機会があり、最近、「人生脚本」理論がらみに、
「運命」って言葉に、いろいろ感じました。
参考として、ご案内します。
エリック・バーン人生脚本のすべて 人の運命の心理学――「こんにちは」の後に,あなたは何と言いますか?
- 作者: エリック・バーン,江花昭一,丸茂ひろみ,三浦理恵
- 出版社/メーカー: 星和書店
- 発売日: 2018/10/09
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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私自身は
自分の人生は、自分の選択で変えていけると思っているタイプです。
交流分析心理学も、自分の「不具合な人生脚本」を変えるための、
「再決断療法」など、いろいろな療法があります。
また、
人は「失敗の場面」」を意識すると、「失敗」する確率が増え
「成功の場面」を意識すると、「成功」する確率が増える、
そんなデータもあります。
否定的なイメージを持つような環境で人格形成がなされたら、
否定的なイメージが現実化してしまう確率が高いということですね。
そして、「やっぱり」といって、自分の運命として固定させていき、
否定的な自分の人生を受け入れて、否定的な繰り返し強化していくという
人生のプログラムが展開される仕組みです。
そんな否定的なプログラムを、肯定的なプログラムに書き換えよう!
と考える、NLPという方法論もあります。
しかし、簡単でもない。
解っていても、肝心な時に、否定的だったり、自虐的なシナリオに
逆戻りして、元の木阿弥(呪いの運命)に戻る衝動や誘惑や固着・執着
キャストいろんな場面展開という、脚本の仕掛けを内包していたります。
自分の無意識にしみこんだ脚本を変えるのは、それなりに大変。
どこからどこまでが脚本なのかも、定かに切り分けでもできない。
脚本も反脚本も脚本のうち、みたいに、本当に複雑。
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手塚治虫先生の、「どろろ」、今TVアニメでやっています。
私は、以前、マンガで読みました。
大好きですし、手塚治虫先生の深さに感動します。
「どろろ」を、再び今の視点から、アニメで観て、感じることがあります。
亡き「母(両親の愛)」の思いを背負って生きるどろろと、
生きている親に存在の禁止(存在否定)を背負う百鬼丸の、
アンビバレントでありながら親なのない同士であるコンビ。
親の都合で心体を失った百鬼丸が鬼神を倒すと、
取り戻すものは、彼の感覚(心体)であり、それは心の基だったりする。
昔から、父との戦う物語は沢山ある。
古典にもあるし、
ダースベーターも父(敵)だったりします。
これ、交流分析的には、
父は、CP(critical parent 性格の一部)の象徴、CPが強すぎると、
否定的で批判的・支配的、の側面が高くなり、反抗を招きます。
CPが強い環境下で育つ子どもは、他人批判か、自己批判として影響を受けます。
そこから、notOK(苦しみ・苦悩)から、抜け出るために
父(CPの象徴)を倒す(超える?)という展開になる。
昔から、敵が父であり子であるのは、宿命であり、運命でもある。
心理学でも、
自律するのは、自分が必要。
「自分になる」という自己アイデンティティーの確立(青年期の成長課題)には、
自分の中の、CPと自分(CやA)の不均衡(せめぎ合い)が経験課題だったりする。
しかし、現代人我々に当てはめてみると、
結局のところ、父を倒しても、否定的な苦痛を上塗りことになるので、
苦痛から逃れることができない、脚本通りに生きるも、反脚本に生きるも、
脚本のうち、ということだったり・・。
けれど、理屈を知らないのなら、気づく機会を得がたい。
自分の「生きづらさ」のつまった脚本から、自由になる方法を、
交流分析では、「脚本フリー」って言い方をします。
「とらわれないで生きる」的な感覚だと思います。
でも、そこに至る過程の間で、
やはり、かかった禁止令なり、否定的な思いや固着を、
変えるために、否定を否定する段階(反脚本)も、一時的に必要になったりします。
理屈だけで、変わることが可能なら、みんな仙人になっているよ。
やはり、行動や感覚、そして、心が伴うために反対にブレる経験が
一時的に必要になるわけです。
肯定的な経験、愛される経験だったり、役に立つ経験だったり、
優しくできる自分の経験だったり、
肯定的な経験に繋がれば、自分の足基が少し見えてくる。
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脚本は、どこに隠されているか?
エリック・バーンの訳本の講演で気になったキーワードは、
「イメージ」と、「声」
「音」じゃないんだね(笑)。
「声」とは、つまり、「言語」という意味
よく、神の声とか、悪魔の声とか、声が聞こえて、
事件や問題を起こす人も居ますが、
問題に繋がるのは「否定的な言葉」ということ、
そして、その「声」の正体は、
無意識(思考(10才)や言語(3才)が発達する以前に無意識に入り込んだもの)が、
「イメージ」であり「声」となって
自分の一部に存在しているってこと。
幼い頃の、環境から受け取ったメッセージだったり、
直接的に浴びた言葉だったり・・。
そして、その「イメージ」や「声」の影響を無意識に受けて、
物事を見ている(解釈)ということ。
そう考えて、自分(私)のイメージをふり返ると、
以前(青春期)、私はなんとなく、自分のことを「ブタ」と思えていた。
太っているわけでもないけど、
「エサを与えられて、太ったら食べられしまうブタ」
だからか、人からモノを貰うのが、苦手だったりする。
貰った後の自分の結末に良いイメージを抱けないからだ。
今、自己分析するなら、
条件付の愛情の押し売り感覚が、背景に見え隠れする。
よく、アバターとか、自分の化身としてのデジタルの姿も、
たぶん、自分の無意識に絡んだイメージから来ている気がする。
私の場合は、
最初は、ヤンバルクイナ = 飛べない鳥
その次は、キジムナー = 孤独な子ども妖怪
その次は、孤高の龍 = 破壊と創造
だんだんチカラは付いているし、飛べるように成って来たけど、
悲しさと孤独は依然そのまま・・。
自分の脚本も少しづつ変わって来てはいるんだろうね(笑)。
「イメージ」
面白いね。
なぜ、脚本を「イメージ」で持ち運ぶ、
って、フレーズが面白かったかというと、
つまり、
イメージが変われば、「脚本」も変わる。
その「イメージ」を変えれば、「脚本」が変わる。
「イメージ」を変えれば良い
といういことになる。
「イメージ」を書き換える。
「イメージ」を描き変える。
描き変える意志を持って、可能となる。
「描く」んだよ。
自分が、自分の脚本を「描く」んだよ。
「なりたい自分」のイメージを、描くことで、
成りたい自分に、近づくことが可能となる。
そして、無意識に混入した「声」については、
「声」は、「言語」、「言語」は「理論」
つまり、知識をつければ、理論で覆すことが可能。
思い込みや、刷り込みの言葉は、知識や理解によって、覆すことが可能。
人生は、変えたいのなら、変えられる!!!!。
「生きている」なら、遅い過ぎることはない。
いつからだって、変えられる。
変えたい気持ちが必要だけど・・・。
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他人と過去は変えられない。
自ら変わりたいと思うことがあれば、
コトは変わるかもしれなけれど。
他人の脚本が見えてしまっても、
他人は変えられない。
むしろ、私を脚本に引き込むことを望む人もいる。
怒り、批難、脅迫、侮辱(ぶじょく)、暴力、あるいは、
世話を焼く、教える、ほめる、お世辞、誘惑などで、
私の心を動かそうとする人も居る。
被害者の顔で、迫害者の顔で、救護者の顔で、
私に役を求める人も居る。
自分がどうすることも出来ないことのあり、
自分も守らねばならない時もあり、
自分の無力さを感じることもある。
敗北的な気持ちに陥る時もある。
だけど、
もう一つ、エリック・バーンの翻訳の講演で、私が勝手に受け取った内容ですが、
深い内容がありました。
ただ、居るだけで、居続けるだけで良いのだと。
脚本に乗らない人間が、
そこに居続けるだけで、流れが変わることがある。
気づきのチャンスになることがある。
居続けることに、意味があると。
これ、私の解釈だと、見捨てないこと 放棄しないこと
という意味の様な気がしました。
これも、否定的な言い方だから、
言い換えるとするなら、
「存在する」ことが「愛の可能性」ってことですかね?。
肯定的に言い換えるなら、
「居ても良いし」「離れても良い」ことになる。
「変わって良い」し、「変わらなくても良い」ということでもある。
私の気持ちが在るならば、いずれにしても、私の存在に違いない。
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さて、
「エサを与えられて、太ったら食べられしまうブタ」
そのブタが、飼い主に食べられてしまう運命は脚本、
「食べられないブタ」になるのは、反脚本
否定の否定に過ぎない
では、「脚本フリー」とはどういう状態か?
肯定とするならば、
喰われても良し、喰われぬも良し、別の人生も良し、
ってな、行程を選べる状態、なのだろう。
と、今の私は、思えます。
(現状理屈ですけど(苦笑)。
(内面としては、やはり、理不尽に喰われるのは嫌なんだよね。)
実際に、イメージだけでも書き換えてみよう、
やっぱり、イメージを意志(選択)を持って、描き変えるという、
私の解釈にしたがって、イメージを描きなおしておこう。
「頭の良い理解力のある人気者のブタで、人や物事に恵まれる」にしておこう。
もちろん、好きなときに、好きなように、いつもで、
描きなおすことができる。
ブタが、空飛ぶ鳥になったりもするし、龍になったりすることも可能。
脚本フリーとは、脚本に縛られないことかも、
いや、これも、否定的な言い方を修正すると、
自由な脚本、自分がステキなシナリオライターになること、
だったりするのでは・・と想う訳です。
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なんと今回のweblog、平成最後の日に描き始めて、今日は令和2日目です。
4/28のビビッド(TBS)で、金八先生のドラマを通して、
昭和と平成をふり返るコンテンツをやっていまして、
金八先生大好きな私は、観てしまいました(笑)。
金八先生(武田鉄也さん)曰く、
「昭和は力の時代」「平成は、無音の時代」とおっしゃっていました。
私も、納得で同感です。
心理系哲学的な私の感覚で文字組みすると、
平成については、「NO コミュニケーションの時代」てな、印象です。
SNSとかで、コミュニケーションが多感なようでいて、
実は押しつけ一方通行だったり、仮面コミュニケーションだったり。
だから、来る新しい時代には、
「対等なコミュニケーションの時代」を願います。
なぜって、やっぱり、人は「人間」っていうだけあって、
人と人の間だで「生きる」生き物だから、
「生きる」ということは、人と人の間に存在すると言いますか、
その関係に影響されるといいますか、
「交流分析心理学」に繋がるところでもありますし、
発達心理学にも通じることですが、
人が「人になる」には、人との(対等な)コミュニケーションが土台になると
思うからです。
心の成長には、心を感じる豊かなコミュニケーションを望みます。
同時に、豊かなコミュニケーションを見極める目や、
否定的な毒を内包するコミュニケーションから、
自分を守る知識やすべを、学ぶ必要性も感じます。
(心理学で、解毒しましょう!。)
知識も、すべも、他者との中で体験的に繰り返し学べることであったりします。
全くもって、人の社会は矛盾した構造で、人は矛盾した生き物ですね。
矛盾を内包しているからこそ、
バランス次第で、可変します(苦笑)。
令和、自分のイメージを描きましょう!。
みなさんそれぞれが、みなさん(ご自身)で有りながら、
他者に寄り添える(理解する)、優しさを内包した時代でありますように!!!!。