ピーターパンシンドローム、大人とは?
今日のテーマは「大人とは?」
ピーターパンシンドロームって言葉があります。
Wikipediaによれば、
大人という年齢に達しているにもかかわらず
精神的に大人にならない人を指す言葉なのだそうです。
ここからは、私の見解ですが、
ネバーランドとは、迷子のいるところ、
迷子とは、大人になる(成長の)導きに
はぐれた子供を意味しているのではないかという気がします。
ピーターパンは、迷子の代表格。
そして、私自身も、迷子(幻のネバーランドの住民)のような気がします。
ちょっと前までは「私は永遠の迷子」と思えていた気がします。
私自身、子供の頃から目にして来た「大人」に、なる気がしない。
大人になりたいと思わない。
なぜななら、
「大人」というものに、良い印象を持っていないから。
見本になるようなステキな「大人」を、育って来た環境の中で見いだすことが出来なかったということだと思います。
むしろ、「大人」に対して、嫌悪すら持っていた時期があったと思います。
そういう私自身の歳は、既にいい中年の部類だとは自覚しております。
そこで、私の知っている「大人」の概念を折り下げてみます。
私の知っている「大人」は「嘘つき」でした。
私の知っている「大人」は「傲慢」でした。
私の知っている「大人」は「威力」そのものでした。
概念は経験から形成される部分が大きい。
経験は人それぞれだから、概念も人それぞれになる。
だから、他者と議論する前には、概念の違いを確認する必要がありますね。
おそらく、経験によっては、
「大人」に好意的な印象を持っている人もいるでしょう。
むしろ、そう思える環境が人間の成長には好条件なのかもしません。
「大人」を好意的に思うことが、人間の成長の道理に合っていて、
「大人」を好意的に思える人は、迷子(幻のネバーランドの住民)には
ならないのだろう思います。
迷子(幻のネバーランドの住民)の経験には、
道しるべのような「大人」の存在が、
いなかったのかもしれないと推測できます。
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では、実際に「大人」とはなんでしょうか?
発達心理学的には、
自我アイデンティティーの確立、つまり、自律性の確立、
つまり、
自分の考えや判断を持ち、自分に責任を持って行動できる人が
成人ということになります。
TA(交流分析の心理学)で言うならば、
自分の内部構造の、子供の部分(チャイルド的な要素)と
秩序やルールや信念(親的な要素)の矛盾やバランスを、
状況把握をした上で状況に応じた時々のバランスを考慮できる
考えるチカラや判断力(アダルト=大人の要素)
のことを、アダルト=大人(教え込まれたものでないもの)と考えています。
後天的に、理論的思考ができる年齢(10才)以降に、徐々に発達する要素です。
最近は、
教育の場面で「考えるチカラ」が重視されるようになっていますが、
実際に、諸々の問題解決のためには、
利害や威力や欲求や、過去の常識に囚われすぎずに、
柔軟に「考えるチカラ」が必要になるからです。
その「考えるチカラ」を発揮するためには、
理論的に「伝えるチカラ」と、状況を「理解するチカラ」が
必要になってくるという方向性を持ちます。
このような心理学や発達心理学的の要素をベースに考えた上での、
「大人」の概念は、
1.)(他者や常識と自分を区別して自律的に)自分自身の考えを伝える事が出来て、
2.)(自分や常識と他者を区別して自律的に)他人や社会の状態を理解するリサーチ力があり、
3.)(常識と思い込みに囚われすぎずに柔軟に)調整することを試みる
以上の3つができる人間を、成熟した人間(=大人)と考えて良いのではないかと、
私自身は思います。
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しかし、その3つができる「大人」って、現実的に居るのですか?
と考えると、実に少ない。と感じます。
「アイデンティティーの確立」とは、
自分の確立ですが、
「自分自身を受容する」内的な作業の「結果」です。
(自分はこんな人・・という、自分を認めるという内的な作業になります。)
自己実現 = 自分自身の能力を発揮して、役立てることですが、
その大前提として、
自分を受容する(認める)気持ちが、
ベースになって、自分を発揮できる土台になります。
自己実現が、上の3.)の調整を試みる段階だとすると、
一説には、自己実現できている人はほんの一握り、0.5%程度なんだそうです。
そもそも、自分自身を認めない
I'm not OK 構え(自己卑下・自己嫌悪タイプ)に陥っている人の
多いこと多いこと。
(私自身の中でも、その構えが私の脚をいつもひっぱります。(苦笑)。)
自分にはできない、自分は役に立たないと思っている。
すぐにあきらめる。
自分の考えすら、伝えようとしない。
すぐあきらめる。
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私自身は、変わらなきゃと思います。
私のイメージの「大人」には、やはりなりたくない。
交流分析の人生脚本(シナリオ)理論を元に考えると、
私自身のシナリオのベースは、
見本(行動範例)の「否定形」のイメージだから、反脚本ですね。
私は、「嘘つき」にはなりたくない。
私は、「傲慢」にはなりたくない。
私は、「威力」に屈しない。
しかし、「否定形」は、自分自身ではないのです。
自分自身の確立とは言えない。
アイデンティティーの確立の前段階の、
反抗期と似ている。
それは、単に、反脚本に振れているだけ。
自分の心の言葉で、「肯定形」に直して言えたら、
それは、自分自身の言葉となる。
言い換えてみよう。
それでも、やっぱり、私は、
大人であろうとなかろうと、
私は自分自身に「素直」であろうと思う。
自分をだますことはしない。
自分自身が、自分のことを信頼できる人間であるために。
結果的に、人に嘘を言う必要はない。
「傲慢」とは、理解のない事態のことだと思う。
人を理解しよう、自分を伝えよう。
相手がどうであれ、伝える努力はしよう。
人の尊厳は平等。
大人であろうと、子供であろうと、男でも女でも。
自分も、他者もOKの関係を模索する。
私の知っている「大人」が、
私のことを、「子供」だと愚弄してもかまわない。
私は、「大人」であるまえに、
ひとりの「人間」として、成長していこうと思います。
「大人」であることなんて、どうでも良いです。
なぜなら、大人の概念は人それぞれ、
誰かの概念に合わせるのも、自分でないような気がする。
ピーターパンシンドロームは、
アイデンティティークライシス(反抗期の末の虚無感)であったり、
パーソナリティー障害傾向であるかもしれましんし、
適応障害の傾向である部分もあるのかもしれません。
それでも、成長の段階で多かれ少なかれ、迷い、通る道なのかもしれません。
それは、それで良い。
「私は誰?」を乗り越えて、
「私は私」と言える、私自身と、歩んでいければ、
私の、良き理解者である、内側の私自身と、
一緒に悩んで、問答しながら、
私の生きる道を、内部の私と一緒に模索しながら、
歩んでいけたらいいなぁと思う訳です。
内部の私を置き去りにしない。
私は私を無視しない。
自分を迷子にしない!。
あぁ・・また否定形になってるので、言いかけます。
私は私を理解して、自分を活かしていけるよう、
私は私を、理解しながら見守り、寄り添いつづけよう。
私は、私を信じる。
信じられる自分でいよう。
今は、そこまでしか見えないけれど。